3.主人公の名前は覚えた
「すっごい綺麗な男の人でね、でも、すごく気さくに話し掛けてきてくれて、絶対に面白いから読んでみて、って言われたの」
「なんだ、それ?」
早苗、人見知りなのに、よくそんな初対面の男の人と話せたな、と喉元まで言葉が出掛かった。
たぶん、きっと『すごくすごく綺麗な人』だったからに違いない。超越した美形は、早苗の人見知りを突破できるようだ。
「本当に面白かったんだよ。続きが気になっちゃうくらいに」
はいはい、と亜希が軽くあしらうような返事をした時だ。ふふっと笑い声が聞こえて、亜希と早苗はパッと顔を上げて声の方に振り向いた。
カウンターの中の女性が口元に手を添えて、思わずといった様子で笑みを零していた。
「1年生? その本、借りるの?」
優しい声音だ。耳に心地よく響く。
彼女は読んでいた本を閉じて椅子から立ち上がると、亜希と早苗に向かってにっこりと微笑んだ。
胸元には『浦部』と書かれた名札が首から下げられている。それがきっと彼女の苗字なのだろう。
「その本、普通には出回っていない特別な本なのよ。お薦めだから読んで貰えると嬉しいわ」
特別と聞いて早苗の顔に朱が走る。ぱぁっと顔を輝かせて浦部を見上げると、こくこくと壊れた人形のように首を縦に振って頷いた。
「この本、すごく面白いです!」
(わぉ。早苗がしゃべった!)
初対面の相手の前では絶対に――いや、絶対と言うほどではないが、ほとんど口を開かない早苗が言葉を発したことに亜希は衝撃を受けて早苗の顔に視線を送る。
(さっきの美形の話といい、もしや人見知りは克服できたのか?)
それならそれで別に構わないのだが、幼い頃から自分にべったりだった友人の成長がちょっぴり寂しい。
早苗は亜希の視線に気付かないまま、浦部を真っ直ぐに見つめて、一生懸命に口を動かして話し掛けた。
「私は1巻を読み終えているので、2巻を借りたいです。――それで、亜希は1巻を借ります」
「えっ、私も借りるの⁉」
「亜希も読んで。だって、面白いを亜希と共有したいの!」
「でも、私、本は苦手だよ」
あら、と浦部が驚いたように高く声を響かせた。
「あなた、女の子なのね」
亜希の声を聞いて、亜希の性別を見誤っていたことに気が付いたようだ。人によっては失礼だと感じるような反応だが、亜希に限っては、間違えられても仕方がない格好をしているので、まったく気にならない。
亜希は苦笑を浮かべて浦部に振り向いた。
「はい、残念ながら女なんですよ」
「まあ! 残念なんてことはないわ! むしろ、とっても嬉しいわ!」
「え?」
「えっ? ……あら、やだわ。私ったら、変なことを口走ってしまったわね。ごめんなさいね。亜希ちゃんっていうの?」
早苗から亜希の名前を聞いて、確認するように浦部が尋ねてきた。どうせ図書カードを提示すれば分かることだが、亜希は頷いて名乗った。
「1年C組の久坂亜希です。この子は、藤堂早苗。同じクラスです」
早苗が学生手帳に挟んで保管している図書カードを取り出して、本に重ねるようにしてカウンターの上に置いた。
浦部は早苗の図書カードを受け取って、貸し出しの手続きを行いながら亜希にちらりと視線を向けて言う。
「亜希ちゃんも読んでみない?」
「どういう話なんですか? 私にも読めそうなら読んでみます」
早苗だけならともかく、司書教諭の浦部にまで薦められたので、一文字も読むことなく拒絶するのも悪い気がして、そんな風に答えてみた。
すると、どうにか亜希に本を読ませたい早苗がここぞとばかりに捲し立てる。
「あのね! ジャンルとしては、中華ファンタジーなの! でも、後宮のどろどろ恋愛小説じゃなくて、戦記ものって感じなの。だから、女の子はほとんど登場しないし、主役もおじさんなの。登場人物がおじさんばっかりで、おじさんたちがおじさんたちとあちこちで戦ってる感じなの」
「え……。それ、本当に面白いの?」
早苗が『おじさん』を連呼するものだから、不安になってくる。
「中華ファンタジーって、中国の何時代をモデルにしているかで大きく違ってくるんだけど、『蒼天の果てで君を待つ』は後漢なの。ほら、漢王朝って、1回滅ぼされちゃうでしょ? 滅ぼされる前が前漢で、滅ぼされた後に再興して後漢ね。この本の舞台は、後漢も末期の方で、西暦で言うと、200年くらいなの。この本では西暦じゃなくて、葵暦って言うんだけど」
「待って。情報過多! えー、もー、よくわからないよ。もう無理かも……」
「無理じゃない。亜希、無理じゃないから! あのね、後漢の末期って言ったら、三国志でしょう? ほら、三国志だよ。亜希なら分かるよね?」
「三国志っていうと、あれか! 魏呉蜀ってやつだ」
「すごい! さすが! 亜希のお父さん、中国史が専門の大学教授だもんね!」
特に三国志あたりことを詳しく研究していることを、亜希の家にちょくちょく遊びに来ている早苗は知っている。
でも、と亜希は自信なさげに唇を尖らせて言った。
「魏の曹操、曹丕。呉の孫権。蜀の劉備に、諸葛孔明――っていう名前くらいしか知らないよ。父さんは父さん、私は私だからね」
「十分! 十分! それくらい知ってたらきっと読めるよ。だって、ファンタジーだもん。三国志っぽい雰囲気のファンタジー小説だもん。三国志を知らなくても読めるよ。だから、ね! 借りよう? 読もう?」
早苗がお薦め図書コーナーのラックから1巻を取ってカウンターの上に置いた。
ラックには、あと5冊並んでいる。どうやら7巻まで続くシリーズものの小説らしい。
「読んで無理だったら、そこでやめるよ?」
「うん、それでいいよ」
亜希が図書カードを差し出すと、浦部はにっこりと微笑んでそのカードを受け取った。
彼女は亜希の分の貸し出し手続きを済ませると、カウンターの上に置かれた小さなボード指差す。そこには返却期日が書かれていた。
「貸出期間は2週間よ」
大切な宝物のように本を胸に抱き締めている早苗を見て、それから、いかにも重そうに本を手に取った亜希に微笑んで、浦部は軽く手を振って言った。
「また来てね。待ってるわ」
▽▲
本を借りてから五日が過ぎた。
信じられないことに、早苗はあの日の三日後には3巻を借りていた。そのペースで読み進めたら、二週間くらいで7巻まで読み終えてしまうかもしれない。
一方、亜希はどうかと言うと、残念ながらほとんど読めていない。早苗に促されて、ようやく50ページほど読み終えた程度だ。昨晩も10ページほど読んで、眠りに落ちてしまった。
毎朝どこまで読んだかと早苗に聞かれて答えるたびに、まだそこ? と呆れられている。読書が苦手なのだ。これでも頑張っているのだから勘弁して欲しい。
そんなゆっくりペースで読み進めていくうちに、どうにか主人公らしい人物の名前は把握できた。
名前くらいで、と鼻で笑ってはいけない。なぜなら、この本の世界ときたら、名前の他に、幼名だの、字だの、愛称だの、ひとりの人物に対する呼び方がたくさんあるのだ。
さらに称号や爵位、官職名で呼んだりもするから、誰が誰だかさっぱり分からない。
例えば、主人公は姓を『峨』、名を『鍈』という。字は『伯旋』だ。
本の世界では名を声に出して呼ぶことを忌んでいるため、むやみに他人の名を呼ばない。特に目下の者が目上の者に対して名を呼ぶことは禁忌だ。
大嫌いな相手に対して、縁を切る覚悟で呼ぶ以外あり得ないことなので、主人公のことを『峨鍈』と呼んでくる者がいたら、敵対関係にあるのだと思っていい。
家族間では名で呼ぶ。また、目上の者が目下の者に対して名を呼ぶこともある。
そのため、峨鍈の祖父は、彼のことを『鍈』と呼んでいる。
では、友人や同僚、親しい間柄ではどう呼ぶのか。この場合、字というもので呼ぶ。
たとえば、峨鍈の従兄が私的な場面で彼のことを『伯旋』と呼んでいる。
他にも峨鍈は自分の配下に対して、敬意と親しみを込めて字で呼ぶことがあった。
しかし、この字というものは、目下の者が目上の者に対して使うことはない。
目下の者は目上の者に対して、名を呼ぶことをタブーとされ、字も使えないということになる。では、どう呼べばいいのか。
その場合、姓に官職名などをつけて呼ぶ。称号や爵位で呼んでも良い。
つまり、峨鍈が太守のうちは『峨太守』と呼ばれ、司空になれば『峨司空』と呼ばれた。
じつに、やっかいで、ややこしいわけだが、地の文では『峨鍈』で統一されているので、なんとか頑張れる。
さて、物語は峨鍈の少年時代から始まった。
峨鍈は後に『堯』という国を興すのだということは、小説の序文に書かれている。
そんな彼の少年時代は、けして順風満帆というわけではなく、卑しいとされた家柄のために随分と悔しい思いをしたようだ。
峨鍈の祖父――峨旦は、宦官である。
宦官とは男性性器を切り落とし、本来、男性は足を踏み入れることを禁じられた後宮で働く者たちのことをいう。
処世術に優れていた峨旦は、胡帝に気に入られ、後に礎帝となった皇子の教育係を任され、地位と権力、そして、莫大な財を得た。
しかし、どれほどの財を手に入れても、宦官である限り、 彼にはその財を継がせる子をつくれない。
自分ひとりではとても使い切れない財を譲るために、親戚筋に当たる夏家から養子をとった。それが峨鍈の父――峨威である。
峨威の長子、そして、峨旦の孫として生を受けた峨鍈は、 幼い頃は何不自由もなく育つことができた。
広い庭のある大きな邸の中で暮らすだけならば、財があるということだけで、使用人たちに傅かれ、敬われ、大切にされたからである。
ところが、少年となった彼は度々街へと遊び出るようになった。その時、彼は思い知るのだ。
宦官というのは、本来、自身の子孫を残せない存在だからこそ莫大な財や高い地位を得る。それらは、子の代わりなのだ。
ならば、父は何だろう? 自分の存在は何だろう?
宦官の孫など、あってはならない存在なのではないだろうか?
実際には、峨旦のように養子をとる宦官は他にも多くいる。だが、その子らは皆一様に汚物でも見るかのような目で見られるのである。本来、あってはならない存在だからだ。
――腐った血。
ポツリと呟かれた、その言葉を初めて聞いたのはいくつの頃だっただろうか? もはや、彼は覚えてはいない。
だが、そうと言われる度に、 負けてなるものかという野心が燃え上がったこと、それだけは、はっきりと覚えているのだという。
【メモ】
藤堂 早苗
亜希の友人。小学校からの付き合い。12歳。中1。
本が大好き。ロマンチックでミーハー。女の子らしい女の子。奇跡とか運命とかいう言葉が好き。
一見、おっとりとしているように見えるが、じつはかなり押しが強い。
人見知りで、初対面の相手とは話せない。慣れた相手には、ぺらぺらしゃべる。
府中市清水が丘に住んでいる。自転車に乗ることさえ亜希に心配されるほど運動が得意ではない。
柔らかなウエーブのかかった髪で肩を覆った可愛いらしい女の子。
背が低く、砂糖菓子のような印象がある。くりくりとした大きな瞳。
年の離れた姉と兄がいるため、耳年増である。