36.初陣を経て
土煙が視界を隠すかのように巻き上がる。
風が北から吹き抜けてきて、大気が震える。
3千――いや、そんな数はいない。急がせ過ぎたせいで多くの兵を脱落させてしまい、千と5百くらいしかいなかった。
貞糺軍が赴郡城に向かってくる様子を蒼潤は遠目で確認する。
あの男が貞糺だろうか。大柄な男達に守られた小太りの男がいる。つきすぎた肉のせいで、目が細く見える。その顔からはすっかり血の気が引いていた。
貞糺軍のすぐ後ろに『峨』の旗を掲げた軍が迫っている。
――峨鍈だ。
斉郡城の奪還を後回しにして貞糺を追ってきたようだ。そうとしか考えられないような速さの進軍だ。蒼潤と柢恵の計算では峨鍈の到着まで、あと一日はかかるはずだったのに。
峨鍈が到着するまで赴郡城で籠城する作戦であったが、蒼潤は片手を蒼く澄んだ天に向かって伸ばす。 赴郡城の外郭門が、ガガガガッと大きく音を響かせて開いた。
迫ってくる敵軍を見据えて、じっと耐え、貞糺を探す。
その姿を目で捉えると、外郭の上と己の後ろに控え、外郭に沿って一列に並んだ弓兵隊に向かって声を張り上げた。
「放て!」
一斉に無数の矢が放たれて貞糺軍は大きく乱れた。帰るべき城からの攻撃は貞糺の兵たちに衝撃を与え、次々に放たれる矢に対してほとんど無抵抗に射られていく。
峨鍈軍が貞糺軍に追い付いた。味方と敵が入り乱れた戦場では弓兵隊は使えない。
蒼潤は弓兵隊を下がらせると、騎兵を前に出して、自らも手綱を握った。
「燕、行こう」
互斡国では常に影のように付き従っていた甄燕に向かって振り返ることなく言うと、返事はすぐに戻って来る。
「どうかくれぐれもお気を付けて」
「お前も」
二人ともこの戦いが初陣だ。蒼潤も幼過ぎるが、甄燕だって蒼潤と2つしか違わない。初めての戦場に震えていたっておかしくないのに、不思議と彼は落ち着いていて、やはりここでも蒼潤の影のように蒼潤を信じて後ろから付いて来てくれる。
蒼潤は馬の腹を蹴った。馬は駆け出し、一直線に貞糺を捉え、敵陣に向かって突っ込んで行った。
一刻も持たなかったと思う。貞糺は逃げて、そして、逃げ切った。
よくぞあの状況でと感心してしまい、悔しさが沸かなかった。
赴郡に隣接した郡に椎郡があって、貞糺はそこに逃げ込んだようだ。椎郡の太守は功郁という男で、貞糺とは親戚関係にあった。
「勝ちましたね」
甄燕に言われて、蒼潤はようやくホッと息を付いた。肩の力が一気に抜けて、馬の首に抱き着くように背中を丸める。
「柢殿の策のおかげですね」
「そうだな」
「おふたりとも思い切ったことをなされます。どこか似ておられるように思いますよ」
「まさか」
柢恵と自分が似ているところがあるだなんて、そんなわけがないと蒼潤は驚いて甄燕を見やれば、彼は小首を傾げて言った。
「しかも、行動力がずば抜けている公子が柢殿の知恵を得ると、城さえ落とせてしまえるのですね。味方になって貰えたら、きっと公子の大きな力になりますよ」
「つまり、仲良くしろと?」
「そうですね。公子が玉座を得るために必要な方かと思います」
――確かにそうかもしれない。
玉座を得るには周囲に人が必要だ。武力を持ったもの、知力を持った者。
ずっと蒼潤の智は、姉の蒼彰だったが、おそらく蒼彰には戦はできない。すると、戦のできる軍師が必要となってくる。
「柢恵と仲良くなって、伯旋から奪い取る……?」
「いいと思います」
甄燕がぐっと拳を握って応える姿を見て、蒼潤はハッとする。そういえば、と呟いて辺りを見回した。
「伯旋は? あいつは、どこだ?」
「殿なら……。あそこにです」
甄燕の指す方を見やれば、外郭門の前で部将たちに囲まれている峨鍈の姿が見えた。いつの間にか柢恵もそこにいる。
何の話をしているのだろうか。状況報告でもしているのだろう。
不意に峨鍈が蒼潤のいる方に視線を向けた。目が合うと、彼は薄く唇を開いた。
だが、言葉は無く、無言のまますぐに大股で近付いて来る。
「何をしている? 馬から降りてこっちに来い。――怪我はないか?」
「……ない」
半ば峨鍈に抱えられるようにして馬から下されると、蒼潤は困惑して峨鍈を見上げた。
怒っているのか、心配してくれているのか、なんだかよく分からない表情を浮かべて峨鍈が蒼潤の肩を掴んできた。
「よく見せてみろ」
「ないって!」
「見せてみろ」
嫌がれば、彼は子供のようにむきになって、力ずくで己の思い通りにしようとする。峨鍈の手が蒼潤の襟元に伸びてきたので、蒼潤はぎょっとして体を捩って逃げた。
「待て。ここで脱がせる気か!」
思いっ切り外である。しかも、つい先刻まで戦場になっていた場所である。辺りにはまだ亡骸が転がっていて、あちらこちらから呻き声が聞こえてくる。
「後で気が済むまで見せてやるから、とにかく今は嫌だ!」
峨鍈も我に返って、ふっ、と蒼潤から手を放した。
「後で会いに行く。好きな房室を選んで休んでいろ」
「でも、俺も後片付けを」
「お前はいい」
「でも……」
兵は皆、怪我人や亡骸を運ぶなどして戦の後始末をしている。
それは上将であり、父である夏銚とて例外ではないのだから、一兵士であり、息子である夏昂が免れるわけがない。視線を向ければ、柢恵だって配下の者に指示を出しながら戦の後始末に加わっている。
峨鍈が気怠そうに息を漏らした。
「俺がいいと言っている。さっさと奥に行って休んでいろ」
言って、蒼潤を追い払うかのように片手を振る。どうしたものかと迷っていると、夏銚が蒼潤に気付いて、やはり大股で歩み寄ってきた。
「昂! 怪我はないか?」
ほとんど峨鍈と同じようなことを言い、やはり同じように蒼潤の体を見回し怪我を確認してくる。
だが、峨鍈と違うのは、夏銚は膝を地面について蒼潤と目線を合わせ、心から心配しているという顔をして、大きくて暖かい手で頭や頬を撫でてくれるので、蒼潤は胸が熱くなった。
「爸……」
「ああ、無事で良かった。心配したんだぞ」
太く逞しい腕に体を引き寄せられて、ぎゅっと抱き締められる。
「まさか赴郡城に攻め込むとは思わなかった。典呂に向かって逃げてくればいいものを」
わしゃわしゃと頭を撫でられ、よかった、よかった、と背中を優しくぽんぽん叩かれていると、突然、べりっと剝がされるように蒼潤は夏銚の腕の中から引き離された。
「俺がこいつに言おうと思っていたことを、お前が先に言うな」
気付けば、蒼潤は峨鍈に抱え込まれている。夏銚は、やれやれと呆れたように首を横に振って立ち上がった。
「お前が押し付けてきた儂の息子だぞ」
「こんなにも懐くとは思わなかった」
「妬くな、妬くな」
ははははっ、と大きく笑って夏銚は持ち場に戻って行く。その背を睨むように見送ると、峨鍈は蒼潤の側に付き従っていた甄燕に振り向いた。
「燕、以後、奥への出入りを許可するから、こいつを奥に連れて行け」
「御意」
甄燕が拱手すると、峨鍈は蒼潤の体を甄燕の方に押しやる。早く行け、と手を払われたので、蒼潤は甄燕と共に自分の馬の手綱を曳きながら外郭門をくぐった。
郡城やその奥にある宮城の造りは、大まかにはどこも同じだ。
いくつか門を通り、北正殿の近くまで来ると、その門の前で芳華と姥たちの姿が見えた。典呂に向かって逃げた彼女たちはその途中で峨鍈と行き会い、彼の兵たちに護衛されながら先ほど赴郡城に着いたのだ。
「天連様!」
芳華が駆け寄ってきて、蒼潤の両手をぎゅっと掴んで、声を上げて泣き出す。
芳華たちには民の格好をさせ、敵兵と遭遇する危険もあった中、夜に城の外を歩かせてしまった。怖い思いをさせてすまないと芳華に謝ると、違いますぅ、と芳華が悔しげに蒼潤の肩を叩いた。
「天連様のことが心配だったんです! 自分のことなんてどうなってもいいと思うくらいに、天連様が心配だったんです!」
ふえーんと泣き続ける芳華に、扱いに困って蒼潤は彼女の実母である徐姥に視線を向けた。助けを求めてのことだったのに、目が合うと、なぜか徐姥はキッと眉毛を吊り上げた。
「天連様、やんちゃが過ぎます!」
「そうですよ。わたくしたち、とても心配したのですよ」
「お怪我はありませんか?」
呂姥や玖姥も矢継ぎ早に言う。
「ひどい格好です。それは返り血ですか? まさか天連様の血ではありませんよね?」
「美しい御髪も埃まみれではないですか。湯の支度を致します」
あれやこれやと腕を引かれて北正殿の中に引っ張り込まれる。甄燕も中に入る許可を貰っていたが、片付けに参加すると言って外郭に戻って行った。
この北正殿は貞糺の正室が使用していた宮殿だ。貞糺は妻子を置いて逃げたので、正室は側室や子らと一緒に西宮に移していた。
彼女たちの今後については峨鍈が決めることだが、留守を狙って攻め込んで来た貞糺への報復として皆殺しにすることも考えられるが、恩を売るために、丁重に貞糺のもとに送り届けることも考えられた。
自分が赴郡城を攻め落としてしまったために不運にあっている彼女たちを思うと胸が痛むが、貞糺の正妻が使っていた家具をそのままに蒼潤はそこを私室と定めて、牀に腰かけた。
峨鍈が北正殿にやって来た時、蒼潤はすでに牀榻に体を横たえていた。
夜更け近くなっていて、もう来ないだろうと、芳華たちも下がらせてしまい、室の中は真っ暗だった。
なんだ来たのか、と言えば、彼は当然のような顔をして牀榻に腰を下ろした。
【メモ】
爸爸…父。パパ。お父さん。お父ちゃん。
親密な場合は「爸」と一言で表現することもある。
哥哥…兄。兄さん。お兄ちゃん。
大哥…一番年上の兄。
血の繋がりがない年上の男性に対しても親しみを込めて呼ぶ場合もある。
蒼潤「爸爸」⇒夏銚
…実子が体が大きくてごついのばかりなので、華奢な夏昂にそう呼ばれると、内心きゅんきゅんしている。
蒼潤「大哥」⇒夏範
…登場していないが、夏昂よりも2つ上の実弟(苞)がいる。父同様に生意気で華奢な弟にデレデレである。
蒼潤「父上」⇒蒼昏
…実の親子だが、微妙に距離感がある。
皇族の親子間は、ちょっとした擦れ違いで殺し合いギリギリまで発展する場合があるため、常に緊張感がある。