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35.柢恵の策


「その早馬が殿とのに追い付くまで1日、あるいは、1日半か。それからすぐに殿が軍を引き返したとして、4日はかかるだろう」

貞糺ていきゅうの2千の兵は、あと1日半もあれば、ここに辿り着く。それに加えて3日後には3千の兵が攻めて来る」


 峨鍈は間に合わない。彼のもとに報せが届いた時にはすでに斉郡城は貞糺軍に攻め込まれている。


「籠城か……」

「この城は籠城に適していない。兵力がもっとあればどうにかなったかもしれないが」

「4日すら持たないのか?」


 蒼潤は眉を歪めて柢恵ていけいの顔を窺い見る。


「微妙なところだ。2千だけならまだしも、さらに3千の敵兵が加わるとなると、千と5百の兵では……。特に千の衛兵には新兵や老兵が多い」


 よもや留守を狙って攻めて来る者がいようとは、峨鍈は思ってもみなかったのだろう。ろくな兵士を残してくれなかったらしい。


「それに殿が4日のうちに戻って来られるかも分からない。もし戻って来られなかった場合、5千の敵兵に囲まれた状況で城を護り続けなければならない。おそらく、その時にはこの城は長くは持たない」

 

 柢恵の言葉を聞き、その通りだろうと思って蒼潤は低く唸って親指の爪を噛んだ。


伯旋はくせんが間に合うことを信じて待つしかないのか。他に何かできることは――)


 柢恵は腕を組んで、指先で己の肘を突く。数回。とんとんとん、と一定の動きで。

 つと、柢恵が蒼潤を見やった。はっとしたように瞳を大きく開き、それから、ふっと細められ、どこか冷ややかな光を放つ。


「何か思い付いたのか?」

「ここに蒼夫人がいらっしゃらなければ――」

「蒼夫人?」

「お護りしなければならない方がいては、無用な策だ」

「いったいどんな?」

「言う意味がない。無用だから」


 蒼潤はイラっとして拳を握る。胸ぐらに掴みかかりたくなる衝動をぐっとこらえて、奥歯を嚙みしめた。


「己の胸だけにしまっている策は、無策も同じ。それはもっと無意味なことだ。無用か否かをお前だけで判断するな」

「――分かった」


 柢恵の顔が松明たいまつの灯りに照らされて、蒼潤には彼のニヤリと笑った顔が見えた。

 それは初めから蒼潤が言うだろう言葉を予想していたかのような表情だった。蒼潤は舌打ちをする。


 本来、主君の妻を危険に晒すであろう策など、口にしただけでも不敬だ。その罪から逃れようと、柢恵はわざと策を出し惜しみしたのだ。

 蒼潤に請われて策を披露したのだという建前が必要で、策を実際に採用するか否かも、すべて蒼潤に一任する心積もりなのだろう。


「それで?」


 蒼潤は、ムッとした表情を浮かべながら柢恵を促した。


「城を燃やして捨てる」

「は? 燃やして捨てる!?」 

「そう。城を捨てて攻めるんだ」

「捨てて攻める?」


 蒼潤は柢恵の言葉をそのまま繰り返し、ぽかんと口を開く。

 いったいどういうことなのか分からないと彼を見やれば、柢恵は、にっと唇の端を上げて言った。


「まず夏昂かこう殿には深江軍を率いて城から出て頂く。そう、まるで恐れをなして逃げ出したかのように」

「逃げる?」

「敵はこちらが城を捨てて逃げたと思い、油断し、斉郡城にやってくる。外郭門はすんなり通そう。さらに油断した敵兵が城壁門を通る時に、俺が殿からお預かりしている千の衛兵を城壁の上に潜ませておいて、敵兵の頭上に油を注ぎ、火矢を放つ。当然、敵兵は大混乱だ。そこに逃げたと思わせた貴方が後ろを突く。そうすれば、2千の敵はどうにかなるだろう」


「次の3千はどうする?」


「先の2千の敵を壊滅させたら、すぐに城を出て赴郡城に向かう。その際、外郭門は燃やしておく。俺が事前に得ていた情報によると、貞糺の兵力は6千は越えていないはずだ。2千は斉郡城で壊滅。そして、3千も斉郡城に進軍中。となると、赴郡城を守る兵はほとんどいないはずだ」


「つまり?」


 蒼潤は柢恵の言わんとすることが分かり、ニヤリと笑みを浮かべる。

 柢恵も瞳を細め、唇の端を横に大きく引いて言った。


「赴郡城を掠め取る絶好の機会だ」


 蒼潤が柢恵を見やると、彼の目が鋭く輝いた気がした。松明の炎がバチバチと音を立てている。


「斉郡城を捨てることになるが、一時的なことだ。殿が兵を率いて戻って来てくれれば――」

「すぐに奪還できるな!」


 外郭門も城壁門も燃え落ちているはずだからだ。


「だから、俺たちは護り難いものを守るより攻める!」


 柢恵はそう言って、再びニヤリとする。それを見て蒼潤は握った拳で己の手ひらを打った。


「守るより攻める。気に入った! それで行こう!」

「だから、駄目なんだ」

「だめ? なんでだ!」

「今の策は、蒼夫人がいらっしゃらなければ使える策だと言っただろう? 夫人がいらっしゃるのに城を捨てられるものか。第一、俺は、蒼夫人を護ることを最優先しろと殿に言われてる」


 へぇ、と蒼潤は瞳を瞬かせた。そんなことを峨鍈は柢恵に命じていたのかと、些か複雑な想いがした。

 それから、あー、と蒼潤は気まずそうに低く声を発する。


「開戦する前に夫人を城から逃がしてしまえばいいのでは? その策だと城内の民も危険に晒すことになる。民に紛れさせて逃がせばいい」

「知らないのか? 蒼夫人は郡主様だぞ。民に紛れるなんてなさるはずがない。宮城の奥から出て来られることも嫌がられるはずだ」

「お前こそ知らないのか? 深江郡主は変わり者なんだ。民の姿に変装して立派に逃げてくれるさ」

「まさか! 郡主様だぞ。民の格好なんてなさるはずがない。民に顔を見られることだって嫌がるはずだ」


 柢恵は(はい)(せん)杳鈷(ようこ)県の商家の息子だ。多少ゆとりのある家庭で育ったが、皇族とは無縁に生きてきた。ならば、郡主とは柢恵にとって雲の上の存在なのだろう。

 蒼潤がいくら大丈夫だ、気にするな、その策でいこう、と言っても柢恵は首を横に振るばかりで、蒼潤はだんだん面倒臭くなってきた。


「なら、別の手があるのか?」

「これから考える」

「これから!? ――時間がない!」


 蒼潤は首を振った。


「お前がさっき話してくれた策が最善だと思う。それで行こう。夫人に関しては俺が何とかする。責任も取る。殿から怒られるような事態になったら、全部俺が怒られてやる。だから、柢恵。任せろ!」


 案の定、蒼潤は柢恵の目論見通りの言葉を口にして柢恵を苦笑させる。しかも、あまりにも蒼潤が単純すぎるので、柢恵の方が心配に思ったほどだっただろう。

 ともあれ、作戦を実行に移すために二人は動き始める。


「お前は城内の民に避難を呼びかけてくれ。それが困難な者にはけして家から出るなと命令を出してくれ。その後、蒼夫人の逃走経路を相談しよう」

「分かった。お互いやれることをやろう」


 頷き合って、蒼潤と柢恵は別れた。



 △▼



 日が西に傾き始めていた。遠くの方に土煙が上がっている。

 ――貞糺軍がすぐそこまで来ていた。


 芳華ほうかうばたちを民に紛れさせて典呂てんろの方角に逃がした後、蒼潤は冱斡ごかん国から連れてきた兵を率いて斉郡城を出発した。

 もちろん、柢恵には蒼夫人も無事に逃げたと伝えてある。


 互斡国から連れて来た兵たちの多くは、幼い頃から外を駆け回っていた蒼潤の姿を見ている者たちだ。彼らの中には蒼潤の遊び相手になっていた者や武芸の稽古に付き合っていた者もいて、蒼潤とは浅からぬ関係を築ている。

 そのため、彼らの前に『夏昂』として蒼潤が現れた時、彼らは『郡主!』と叫びたくなるのをぐっと抑えて、事情などまったく分からないまま夏昂を自分たちの指揮官として受け入れてくれた。


 蒼潤の隣で甄燕が馬を駆けさせている。彼は深江郡主に近しい者として、蒼潤の兵たちに一目置かれていて、彼が蒼潤を『公子わかぎみ』と呼び始めたことで、蒼潤の兵たちは皆、蒼潤を『公子』と呼ぶようになっていた。


 騎兵は一目散に馬を走らせ、その後ろを歩兵が懸命に走り、大げさなほど土煙を立てて、慌ただしく逃げるように演じて見せる。

 斉郡城からわずかに離れたところに潜むのに都合の良い地形が広がっていると柢恵に教わり、そこまで駆けると、岩場の影に皆で姿を潜ませた。


 斉郡城の城壁門の辺りから火の手が上がったのは、西の空が橙に染まった後だった。

 夕日よりも赤く。華やかで、激しい。その炎を合図に蒼潤は岩場から駆け出して、斉郡城に向かって馬を走らせた。

 開け放たれた外郭門を駆け抜け、城壁門にたどり着くと、赤々と炎が燃え盛り、その炎で敵の半数が焼け死んだようだ。


 混乱の中、蒼潤が雄叫びを上げ、兵士たちと共に城壁を抜け、城内に侵入していた敵兵を背後から突く。

 柢恵も城壁の上から矢を放ち、敵兵は射られ、切られ、燃やされて次々と倒れていった。炎は太陽が大地に沈み、辺りが闇に染まっても尚、燃え続けていた。


 頃合いを見て柢恵が城壁の上から降りて来る。2千の敵兵を殲滅したわけではなかったが、時間がない。

 3千の敵が迫っているため、すぐに斉郡城を出発した。


 赴郡城からこちらに向かってくる敵兵と鉢合わせしないように遠回りをしなくてはならないのだが、一刻も早く赴郡城を攻め落とさなければならない。貞糺が策に気付いて、蒼潤と柢恵が予測しているよりも早く赴郡城に引き返して来るかもしれないからだ。

 そうなれば、斉郡城に戻るわけにもいかず、逃げ場のない状態で3千の兵と真っ向から戦わなければならなかった。


「先に行く」


 蒼潤は柢恵に断って、二百の騎兵だけを引き連れて先を急いだ。  

 いつの間にか日付が変わって、やがて朝日が昇る。二日の距離を馬を駆け続けさせて一日半でたどり着いた。


 難なく赴郡城は落ちた。

 城内に潜り込んでいた清雨に外郭門を開けて貰い、城壁まで大通りを馬で駆ける。城門もすんなりと開いた。

 赴郡城に戦える兵はなく、残されていたわずかな衛兵たちが剣を捨てて降参したため、いっさい血を流すことなく、赴郡城は落ちたのだ。


 翌朝、柢恵が残りの兵を率いて入城した。

 おそらく貞糺は斉郡城の惨状を目の当たりにして、度肝を抜かれたことだろう。

 彼が斉郡城に入城した時と前後して、蒼潤は赴郡城は落としている。その報せを受けた貞糺は更に驚愕したはずだ。そんな彼に与えられた選択肢は二つ。


 そのまま焼けた斉郡城に居座るか、赴郡城に戻り奪い返すか、だ。


 斉郡城には典呂てんろ県から急ぎ引き返してくる峨鍈の1万の兵が迫っていた。貞糺は2千の兵を率いて赴郡城へと急ぐしかなかった。

 

 










【メモ】

 渕州   

併州 壬州

 琲州


・渕州…大半が瓊倶の支配下にある。

 互斡国…渕州内にある。国相は蒼昏。

・併州…渕州と琲州に挟まれている。刺史に力なく、牧は不在。太守たちがそれぞれ独断で動いている状態。

 斉郡…併州の内にある。乱を沈めたことで、瓊倶の推薦により峨鍈が斉郡太守に任じられる。

 赴郡…併州の内にある。赴郡太守は貞糺ていきゅう


蒼潤は渕州冱斡国の生まれ

峨鍈は琲州霖国鄭県の生まれ

柢恵は琲州鮮郡杳鈷県の生まれ

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