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34.留守を命じられて


「はぁ!?」


 思わず飛び出してしまった声が高く広間に響き渡った。孔芍と夏銚がほぼ同時に、ごほんっと咳払いをする。

 峨鍈にじろりと睨まれて蒼潤は言い返してやりたい気持ちを、ぐっと抑え込んだ。こんなところで峨鍈に楯突けば、いったいお前は何者なのだ、という話になってしまう。


 それで蒼潤の正体が露呈すれば、峨鍈の立場がない。妻を男装させて軍議に参加させているだなんて、正常な者がすることではないからだ。

 だからと言って、実は妻は男で、帝位継承を持つ皇子だと主張すれば、もっと事態はひどいことになる。

 それに何より、峨鍈は二度と蒼潤を外に出してくれなくなるだろう。ここは大人しく従っておくしかない。

 蒼潤は拱手して応えた。


「……御意」


 存分に睨んだ後、峨鍈は視線を蒼潤から孔芍の傍らの少年――柢恵ていけいに向ける。


「柢恵。斉郡城の守りを命じる」

「御意」


 柢恵は即座に返答して拱手する。その姿に頷いて峨鍈は続けて言い放った。


「この任の間、夏昂を柢恵の下に置く」

「はぁ!?」


 蒼潤は再び耳を疑って声を上げる。今度は寸分違わず同時に孔芍と夏銚が咳払いをした。

 広間がざわめく。あれは誰かと囁く声に、夏殿の息子らしいと何者かが答える声が聞こえた。

 夏銚と言えば、峨鍈の身内であるし、一番信頼の厚い部将でもある。その息子ならば多少の無礼もお目溢しされるのだろうと囁かれる。


「夏昂、柢恵に従え。良いな!」


 念を押されるように命じられて、蒼潤は深く頭を下げてから後ろに下がった。


 軍議が終わり、峨鍈が広間を出て行くと、蒼潤は夏範と共に広間の壁際に寄って夏銚を待ち、彼が広間を出る時に後ろに従って外に出た。

 頬を膨らませて不満を隠そうともせずに後ろを付いて来る蒼潤に振り返って、夏銚は、仕方がない奴だと苦笑した。蒼潤の頭を軽く小突く。


「いつまでそんな顔をしているつもりだ?」

「留守番なんて嫌です。こっそり連れて行ってください」

「殿が決められたことだ。従え。お前は城で待機だ」

「そんな……っ。でも、大哥あにうえは連れて行くのでしょう?」


 ずるい、ずるい、と言って蒼潤は、どかどかと大きく足を開いて城門の外に向かって歩き進んで行く夏銚のがっしりと大きな背中を小走りで追った。

 夏範も父親同様に年の割に体格が良いので大股に歩いて蒼潤の後ろをついて来る。恐れ知らずな弟の無邪気な我が儘が面白いらしく、夏範はくすくすと笑っていた。


「お前とはんは6つも違うではないか」

「じゃあ、6年も待たなければ戦場に連れて行ってくれないんですか!? 大哥より俺の方がまとに矢が当たります」

「敵兵と的は違う」


 あっという間に城門の前までたどり着いてしまい、門をくぐらせまいと蒼潤は夏銚の太い腕に、ぎゅっと抱き着くようにしがみ付いた。

 やれやれと夏銚は頭を左右に振る。ぐーっと、しがみ付かれた腕を上げて、蒼潤の体を地面から浮かせる。

 首根っこを掴まれた猫のようにぶらんと夏銚の腕にぶら下った蒼潤は、むっと顔を顰めた。


おれに文句を言っても無駄だぞ。お前は連れて行かない。――ほら、内城に戻れ。今日は出陣の準備で忙しいから、調練は無しだ」


 言って、夏銚は腕を下げ、蒼潤の体を地面に下ろした。

 調練は無しと言いながら、きっと準備の合間に行うに違いない。そういう人だ。

 蒼潤は下唇を嚙みしめて俯く。やがて観念して夏銚の腕から手を放すと、夏銚のゴツゴツとした手が蒼潤の頭をくしゃりと撫でた。

 大きな影が蒼潤から離れていく。ぱっと顔を上げると、夏銚が城門を出て行く姿が見えた。追って、夏範も城門を出て、ちらりと蒼潤に振り向くと、眉尻を下げて片手を振り、去って行った。


 蒼潤はしばらくその場に立ち尽くしていたが、思い至って踵を返す。

 来た道を逆らうように駆けると、夏銚のように私邸に戻ろうと城門に向かって歩いていた者たちが驚いて振り返る。

 彼らの間を縫うように通り過ぎ、郡城の宮殿たてものの横を幾つも駆け抜けた。


 郡城の最奥――と同時に、宮城のもっとも表に位置する峨鍈の私室まで駆けると、息を切らしながらくつを脱いできざはしを上った。

 室の入口に置かれた衝立ついたての前で呼吸を整えていると、声を掛ける前に室の奥から峨鍈の声が聞こえた。


天連てんれんか? ――入って来い」


 蒼潤は衝立の脇を通ってへやの中に足を踏み入れた。左右に視線を向けると、峨鍈は帘幕カーテンの奥にある書室にいるようだ。


伯旋はくせん、話が違う!」


 帘幕をくぐって書室に入ると、蒼潤は不機嫌を露わに声を響かせ、文机の前に座る彼と対峙するように腰を下ろした。

 むーっと下から睨むように彼の顔を見上げれば、峨鍈は文机に肘をついて、すぅっと細めた瞳で蒼潤を見つめ返す。


「俺は、駄目だと言った。お前は連れて行かない」

「嫌だ!」

「嫌だと言われてもな。すでに決まったことだ。柢恵と仲良く留守を守っていろ」


 柢恵と聞いて、もうひとつ納得がいかないことを思い出した。ばんっ、と蒼潤は両手で文机を叩いて、腰を浮かせ、文机に上体を乗り上げさせる。

 峨鍈の顔に自分の顔を近付けて、嚙み付くように言った。


「なんで俺がそいつの下なんだ!」

「お前より柢恵の方が冷静で賢いからだ」


 ぴんっ、と蒼潤の額を指先で弾いて峨鍈はニヤリと笑う。蒼潤は額を手で押さえて頬に朱を走らせた。


「柢恵から学べることがあるはずだ。歳も近いのだから親睦を深めてみたらどうだ?」

「なんであんなやつと」

「柢恵の何が気に入らないのだ?」


 拗ねたように顔を背ければ、峨鍈が眉を寄せて問い掛けてくる。蒼潤は峨鍈に、ぱっと振り向いて、だが、彼と目が合うと、すぐに気まずそうに顔を逸らした。

 それから視線を伏せて、ぽそっと言った。


「さっきの軍議で、あいつの方が俺よりお前に近かった」

「……」

「……」

「……」


 沈黙後、峨鍈の腕が素早く伸びてきて、蒼潤の襟首を捉えた。文机越しに体を引き寄せられ、先ほど弾かれたところに唇を押し当てられた。


「はっ!? 何すんだよっ!!」


 峨鍈の手を振り払って、蒼潤は跳ねるように立ち上がって壁際まで大きく飛び退いた。再び額を両手で押さえて、峨鍈を睨み付ける。

 くくくっと峨鍈は声を立てて笑った。


「お前、時々、途轍もなく可愛いな」

「はぁ!?」

「さて、話は終わりだ。俺はやらねばならぬことがある。お前はさっさと私室に戻れ」

「……っ‼」


 一方的に話を打ち切られて蒼潤は憤慨する。地団太を踏むと、うるさい、と一喝され、出て行けと片手で払う仕草をされた。

 どうせ夜になったら峨鍈は蒼潤の私室に来るに決まっている。その時にもう一度、彼と話せばいい。――そう思い直して蒼潤は、ぷいっと顔を反らすと、峨鍈の私室から出て行った。


 しかし、その三日後、峨鍈は蒼潤を斉郡城に残して軍を率いて、壬州叛乱軍との戦場となっている併州杜山(とざん)郡に向かって出発した。

 1万を超える兵が不在となると、城内はひどく静まり返っている。斉郡城に残された兵力は、蒼潤が冱斡国から連れてきた五百と、衛兵として残された千のみだった。 


 峨鍈が発つ前に蒼潤と柢恵を郡城の執務室に呼んで顔合わせをさせたが、お互い名乗った後の言葉が続かず、峨鍈とその場に立ち会っていた孔芍を呆れさせている。

 年頃が同じだと言っても、蒼潤が外を駆け回って育ったのに対し、柢恵は朝から晩まで室に籠って書物を読んで育ったので、とにかく共通点がないのだ。

 そのため、蒼潤が柢恵と顔を合わせたのはそれっきりで、何事も起こらなければ、きっと峨鍈が帰城するまで柢恵とは顔を合わせることがないだろうと思っていた。


 ――事は、峨鍈が出立した二日後の夜更けに起きた。


 蒼潤の臥室しんしつ清雨せいうが忍んできた。気配を感じて蒼潤が牀榻ベッドの上で体を起こし、床帳たれまくを捲ると、清雨が老婆の姿をして暗闇で蒼潤を呼んでいた。


「何かあったのか?」


 聞くまでもなく、何か起きたから清雨は急ぎ来たのだ。蒼潤が寝入った後に清雨が現れるなど、ただ事ではない。

 峨鍈に何か、と思ったが、そうではないことは清雨の様子で分かった。

 手招くと、清雨が足音をいっさい立てずに牀榻の近くまで歩み寄ってくる。そして、声を潜めながらも焦りを滲ませて告げた。


郡です」

貞糺ていきゅうか」


 清雨は以前から赴郡太守の貞糺を危惧しており、その動向に目を光らせていた。逐一報告してくる中、昨日、貞糺が壬州叛乱軍の鎮圧のため北東の杜山郡に向けて2千の兵を送ったとの情報も蒼潤は清雨から得ている。

 そして今、その2千の貞糺軍が杜山郡ではなく、北方に――つまりは斉郡に向かって進軍していると清雨は報告してきた。


伯旋はくせんは今どの辺りだ?」

典呂てんろです」


 典呂県は、まださい郡の内だが、あと半日ほど進めば豊陽ほうよう郡に入る。杜山郡は更にその東だ。


「貞糺軍は?」

「ここから、二日、あるいは、一日半の距離です。さらに、貞糺が自ら3千の兵を率いて赴郡城から出陣しております」

「つまり、1日半後に2千の兵が攻めてきて、さらに3千の兵が攻めて来ると?」

「おそらく3千の兵の到着は3日後です」

「すぐに動こう」


 蒼潤が大声を上げて芳華やうばたちを呼んだので、清雨は闇に溶けるように姿を消した。

 すぐに人をやって柢恵を郡城に呼び付けると、芳華たちの手を借りて大急ぎで身支度を整え、蒼潤もそちらに向かう。

 蒼潤が柢恵を呼びつけた殿舎たてものの前まで来ると、すでに室の中で柢恵が待っていて、松明を持たせた下男を側に控えさせていた。

 蒼潤は敷居を跨いで室の中に入るなり、柢恵に向かって言う。


「先程、はくせ……っ、――殿に早馬を送った」


 危うく峨鍈をあざなで呼びそうになって慌てて言い直す。幸い、柢恵に気付いた様子がない。彼は拳を顎に当て、視線を伏せながら言った。












【メモ】

斉郡城の峨鍈の私室

 入口は折り戸。昼間は開け放たれていて、衝立が置いてある。

 帘幕で三間に区切ってあって、左に臥室しんしつ、右に書室《書斎》。


蒼潤の私室

 入口は折り戸。昼間は開け放たれていて、衝立が置いてある。

 帘幕で二間に区切ってあって、左奥に臥室しんしつ

 北正殿。蒼潤に情緒があれば、宮殿のイメージに合った名前をつけているが、どうせ斉郡城は仮の住まいなので、北正殿と呼ぶ。北宮にある宮殿のひとつ。

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