31.突然できた息子
書室を覗くと、すぐに不機嫌そうな従弟の顔を見つけ、夏銚は、ぐっと喉を鳴らした。
峨鍈の他に2人。ひとりは孔芍だが、もうひとりは何者だろうか、と峨鍈と対峙するように座る子供を見やる。
そして、再び峨鍈に視線を戻すと、努めて明るい声で呆れたように言った。
「不幸を招きそうな顔をしているぞ、伯旋」
「この顔は生まれつきだ」
「まさか。お前の顔はもっとマシな表情もできるはずだぞ」
揶揄して言えば、少しだけ空気が和らいだようである。
それで? と床に腰を降ろしながら峨鍈に問えば、従弟は真顔になって子供を指差した。
「こいつは、お前の息子だ」
「はぁ?」
「夏昂という」
「ちょっと待て」
「父上、精いっぱいお仕え致しますので、よろしくお導きの程お願い申し上げます」
鈴の音のような高い声が聞こえ、夏銚は強張らせた顔で子供に振り向いた。
声だけ聞けば、少女かと思って驚く。そして、顔立ちも少女のようで、二度驚いた。今にも折れそうな細い体で自分に向かって膝を折り、拱手している。
ちらりと孔芍の方に視線を向ければ、彼は少し離れた場所に静かに座って、口を挟んで来る様子はなかった。
夏銚は峨鍈に視線を戻して問う。
「本当の名前は、なんという?」
「聞かない方がいい。聞けば、頭痛がするぞ」
「俺に拒否権は?」
「ない」
「この子供をどうしろと?」
「お前の配下におけ」
「戦場に連れて行くのか? こんな子供を! いくつだ? 親はどうした?」
峨鍈は突然、笑い出した。先程までの不機嫌はどうしたというのか。耐え切れないとばかりに、片手を振って、はははっと笑い声を立てた。
「本人曰く、剣も弓も馬も得意だそうだ。ひとまず、調練に参加させてやれ」
それから、と峨鍈は、ちらりと子供の方に視線を投げてから続ける。
「深江郡主の兵を夏昴の下におく」
「何っ!?」
もしや、と夏銚はぎょろぎょろとした目をさらに大きく見開いて峨鍈を、そして、子供を見つめる。
「この子は深江郡主と縁があるのか?」
そうでなければ、郡主が互斡国から連れて来た兵を任されるわけがない。あの兵たちは郡主の命令にしか従わないのだという。
穀潰し、と孔芍が呟くのを何度も耳にしている。その兵たちを、目の前の子供なら率いることができるというのか。
とても信じがたいが、すでに峨鍈の中では結論が出ているように思えて、夏銚は深く頷いた。
「――承知した」
昴、と少年を呼んで、夏銚は両手で膝を押すようにして立ち上がる。
「これからすぐに調練に出られるか?」
「今日から加わってもいいのか!?」
ぱあっと顔を明るくして聞き返して来る子供に夏銚は面食らった。全身で、嬉しい、嬉しい、と叫んでいるように見えて、その表情が眩しい。
仔犬のような可愛さを感じ取って、夏銚は子供の頭をわしゃわしゃと撫で回した。子供に嫌がる様子が見られなかったので、その手で子供の頬を摘まんで大きく笑った。
「そんなに嬉しいか。いいぞ、今日から調練に参加しろ」
「すぐに支度をする!」
バッと床を叩くように両手をついて立ち上がると、子供は夏銚の横を通り、書室を飛び出していった。
バタバタと駆けて行く足音が遠ざかっていき、やがて静まり返る。夏銚が峨鍈に振り向くと、峨鍈は再び苛立った表情に戻っていた。
「おいっ、なんて顔だ」
「俺とは反応が違い過ぎる」
「なんの話だ?」
問うと、峨鍈は眉間に皺を寄せ、書室の隅の方で、ふふふっと孔芍が忍び笑いを漏らす。
峨鍈は脇息を引き寄せて体を寄り掛からせると、夏銚に向かって指を突き付けた。
「いいか、死なすなよ。絶対にだ」
なんの因果か、自分の息子として扱うことを受け入れてしまった手前、夏銚にはもちろん夏昴を死なせるつもりはまったくなかった。
それなのに、わざわざ釘を差してきた従弟に夏銚は閉口する。
そんなにも大切な存在ならば、邸の奥に閉じ込めておけば良いものを。そう言おうとした時、不意に視線を感じて振り向けば、孔芍が呆れたように眉根を寄せて首を横に振っていた。
△▼
今、亜希と早苗がもっとも必要としているのは、信頼できる大人だ。
二人の話を笑わずに聞いてくれるだけで良い。可能なら解決策をと思うが、差し当って困っているわけではないので、ただ真摯に聞いて貰えたらそれでいい。
早苗が人差し指を立てて口元に当てながら小首を傾げて言った。
「作者の日岡さんと会えないなら、律子さんはどうかな?」
司書教諭の浦部のことである。彼女も『蒼天の果てで君を待つ』のファンで、彼女があの本を図書室の棚に並べると決めたのだという。
いいかも、と亜希は律子の整った顔を思い浮かべながら答えた。さっそく昼休みに図書室に行こうという話になり、それを聞いた志保も同行する。
志保は、亜希が陸上部の入部をやめたので、自分も陸上部の入部を考え直し、昨日、女子バスケットボール部に入部届を出したのだという。
今日の放課後から部活の練習が始まるので、今後は昼休みにしか図書室に行けなくなってしまったのだと志保は言った。
「亜希が今借りている2巻を借りたい」
「読み終わったからいいよ。返却するね」
三人でつるんで階段を上がると、三階の図書室にやってきた。ガラリと扉を開いて図書室の中に入り、まっすぐ『お薦め図書コーナー』のラックの前に行く。ラックの中にはお目当ての本が並んでいた。3巻と5巻と7巻だ。
このラックに3巻があるということは、市川はすでに4巻を読み始めるということだなと思いながら、亜希は早苗に振り向いた。
「早苗、7巻を借りる?」
「どうしようかな。6巻はもう少しで読み終わるんだけど……。やっぱり、もう一回読み直したいシーンがあるから、今日はやめておくね」
へぇ、と亜希は短く返事をする。どうやら早苗は、話の先が気になって、どんどん読み進めるタイプではなく、気に入ったシーンを繰り返し読んだりして、じっくりと楽しむタイプらしい。
亜希はラックのすぐに隣のカウンターに向かうと、借りていた2巻をカウンターの中の図書委員の少女に差し出した。
「返却します。んで、返却したこの本を友人が借ります」
「あれ? 亜希、3巻を借りないの?」
「うん。諸事情がありまして……。じつは、1巻から7巻まで、うちにあります」
本のガチファンな早苗の手前、本当に本当に言いづらくて、おずおずしながら正直に言えば、早苗が顔色を変えて大声を上げた。
「はあああああああああ⁉」
「日岡さんの秘書の水谷さんから貰った……っていうか、押し付けられた」
「なにそれ!? 羨まし過ぎる!」
その時、ぎろりと図書委員の少女が亜希と早苗を睨み付けた。
「静かにしてください」
「すみません」
「ごめんなさい」
図書委員の少女は不機嫌顔で亜希の返却手続きをして、次に志保の方に向き直る。そして、志保から図書カードを預かると、2巻の貸し出し手続きを行った。
知らない顔なので、きっと上級生なのだろう。彼女から志保が2巻を受け取ったのを確認して、亜希はちらりとカウンターの奥の扉に視線を向けた。
「浦部先生は、司書室ですか?」
図書委員の少女に聞いたのに、返事は扉の奥から響いて聞こえる。
「いるわよー。亜希ちゃん、いらっしゃい。中にどうぞ!」
律子が司書室に続く扉を開いて顔を覗かせると、亜希たちを手招きした。亜希たち三人はカウンターの中に入れて貰い、司書室に足を踏み入れた。
六畳ほどのごちゃごちゃとした空間は、先日お邪魔した時にも感じたけれど、まるで隠れ家のようだ。
小部屋の大部分のスペースを大きなテーブルが占めており、そのテーブルに肘をついて本を読んでいる少年がいた。市川だ。
市川は亜希たちの姿を見ると、片手を上げて短く挨拶をする。
「よう」
「市川、もういる。来るの早っ‼」
「亮くんは昼休みが始まったとたんに来るのよ。――ええっと、志保ちゃんだっけ?」
三人に椅子を勧めながら、律子が志保のことを見やりながら言った。
「志保ちゃんも、早苗ちゃんも、来てくれて嬉しいわ。ゆっくりしていってね」
三人がテーブルを囲むように座ったのを見て、律子も一番扉に近い椅子の背もたれを掴んで引くと、そこに腰かけた。
彼女は、やらなければならない事務仕事があるからテーブルの隅を使わせてね、と言って書類を広げる。
亜希は早苗や志保と視線を交わして、申し訳なさそうに律子に尋ねた。
「私たち、お仕事の邪魔になりませんか?」
「ううん、癒しだわ! 私のことは気にせず、おしゃべりしていて良いからね」
「それが……、じつは、律子さんに聞いて貰いたい話があって」
「あら、そうなの? いいわよ。何かしら?」
ぱっと顔を輝かせて律子は書類を畳んでテーブルの端に寄せる。
亜希は早苗にちらりと視線を投げてから、律子を見て、彼女がにこにこと笑みを浮かべながら亜希の話を待っている様子を見て、ゆっくりと口を開いた。
「じつは、私と早苗、夢を見るんです。――その夢、『蒼天の果てで君を待つ』の夢なんです。私も早苗も夢の中でその小説の登場人物になりきっていて、しかも、同じ夢の中で二人で会えるんです」
「えっ、何それ。意味わかんないんだけど?」
志保には話していなかったので、志保が呆れたような、引いているような顔をする。
そして、どういうこと? と志保が尋ねて来たので、可能な限り分かりやすく説明しようとしたが、亜希も早苗も自分たちの身に起こっていることが、正直、自分でもよく分かっていない。
必然的に説明もよく分からないものになってしまう。
「ええっとね、だからね。夢で、私と亜希、会えるの」
早苗の説明は亜希よりも意味不明だ。
「例えば、夢の中で『今日の給食、グラタンだったね』『そうだね、給食のグラタンって、冷めてもまあまあ美味しいよね』みたいな会話ができちゃうの」
「はあ?」
「しかも、私が芳華で、亜希は蒼潤なのよ」
「はああああ?」
さっぱり分からないと、志保は苛立ったように声を上げる。
「二人とも、そう思い込んでいるんじゃないの?」
「思い込むって?」
「だって、そんな夢、聞いたことがないよ」
そりゃあ、亜希だって聞いたことがない。だけど、思い込むにも限界がある。
亜希は律子に視線を向けた。
「どう思いますか? やっぱりこんな話、信じられませんよね?」
「そうねぇ……。私もそういう話は聞いたことがないわ。だけど、きっと何か理由が、もしくは、原因があると思うの」
「……」
亜希は律子の顔を見たまま目を瞬いた。
【メモ】
夏 銚
字は石塢。峨鍈の5つ年上の従兄。
ぎょろりとした目玉。厳つい顔の大男。
突然、峨鍈に「お前の息子だ」と言われて、蒼潤を紹介される。
蒼潤は『夏昂』と名乗り、夏銚の息子扱いの配下になる。