30.死なない理由
「次の戦場には一緒に連れて行って欲しい」
「駄目だ」
一言だった。ごく短い。
峨鍈は蒼潤が口を開くなり、即断で切り捨てた。
「なんで!?」
あまりにも即答すぎて、蒼潤は納得がいかない。ちょっとでも考えてから答えてくれたのなら、付け入る過ぎもあったかもしれないのに。
蒼潤は両手を床に着くと、前のめりになって峨鍈の顔を睨み付けた。
すると、ため息が漏らされる。じろりと眼を向けられて、蒼潤は唾を飲み込んだ。
「今、お前に死なれたら元も子もない」
「俺は死なない! 剣も使える。弓も。馬にだって、誰よりも速く走らせることができる!」
蒼潤が声を荒げて言えば、峨鍈は片手を振った。分かっている、と。
「だが、お前はまだ14歳だ。初陣には早すぎる」
「いいんだよ、早くて! 俺は早く戦場に立ちたいんだ!」
しかし、峨鍈は頭を横に振った。
「繰り返すが、お前が死んだら元も子もない」
「そう言って、俺を厳重に守り固めた籠の中で閉じ込めておくつもりだろう。俺はここ一ヶ月半、北宮の外には一歩も出ていない。馬にだって乗っていないんだ。剣を振るうことも、弓を引くこともなく、毎日毎日、室に籠もって過ごしてきた。もう限界なんだ!」
わかった、わかった、と峨鍈は苦笑を浮かべ、まるで幼子の我が儘を諫めるように蒼潤の頭をくしゃりと撫でた。
その表情を見れば、彼がちっとも蒼潤の気持ちを理解していないのが分かる。
「遠乗りに連れて行ってやる」
それで我慢しろと言って話を終えようとした峨鍈に、蒼潤の中で、ぶちっと何かが切れる音がする。
だんっと床を拳で叩き、立ち上がり、上から睨むように峨鍈を見下ろした。
「邸の奥に閉じ込められ、己の意志では指一本さえも動かせずに、激しく動いていく世の中をただ見ていることしかできないなんて。そんなの傀儡と同じだ! ――峨伯旋! お前は俺に教えてくれるって言った。それなのに、先の戦にだって、お前は一人で行ってしまうし、きっと次だって俺を置いていくつもりなんだろ! 俺を傀儡にしようとするお前なんて、呈夙や瓊倶と同じだ!」
「なんだと……っ‼」
さっと気色ばんで、峨鍈が蒼潤をじろりと睨む。
他のどんなことを言われても、おそらく彼は笑いながら聞き流しただろう。だが、よりにもよって瓊倶の名前を出してしまったことで、彼の唯一の逆鱗に触れてしまった。
しかし、蒼潤は峨鍈の瞳の奥に宿った怒気に気が付かないまま、峨鍈の怒りを煽るように口汚く罵り続けた。
「お前は噓つきだ! 俺にいろんなことをたくさん教えると言っていたのに、邸の奥に閉じ込めやがって。斉郡に来てから、お前と顔を合わせたのは何回あったかな。ははっ、二回だ。出陣する前日と帰城した日に、いってらっしゃい、おかえりなさい、って言ってやったんだよ。それだけだな! ――こんな軟禁生活が待っていると分かっていたら、お前のところになんか嫁がなかった!」
我ながら、よほど不満が溜まっていたのだろう。捲し立てて言えば、多少胸の内がすっきりとした。
だが、次の瞬間、峨鍈が無言で、すくっと立ち上がった。目線が逆転して、今度は彼が蒼潤を見下ろす格好になる。
そして、蒼潤はようやく峨鍈の全身から沸き立つような怒気に気が付いた。彼の顔を見上げれば、血の気が引いて体が震え出すほどの恐ろしい形相だった。
言いかけた言葉を呑み込んで、蒼潤は体を小さくする。
「もしも、お前が戦場で命を落としたら、俺はどうなる?」
低く、地の底から響いてきたかのような声で、妙にゆっくりと峨鍈が蒼潤に問いかけた。
「今、俺のもとに人が集まってきているのは、お前を――深江郡主を娶ったからだ」
峨鍈は言葉を放つにつれて、表情から怒りを消していく。それは彼が蒼潤を許したからではなく、感情を抑え込むことに長けているからだ。
峨鍈は膝を折ると、再び床に腰を下ろした。そして、両手を伸ばし、蒼潤の両手首をがしりと掴んだ。その力の強さに蒼潤は肩をびくんと跳ねさせ、それから顔を顰める。
「もうしばらく待っていてくれないか。お前のために力をつけているところなのだ」
峨鍈が懇願するように蹲って、掴んだ蒼潤の手首に己の額を押し付けた。
峨鍈の怒気を露わにした顔が見えなくなって蒼潤はホッとする。すると、とたんに、納得できない想いがわいて言わずにはいられなかった。
「それなら、一緒に力をつけたい。俺は俺の手で玉座を掴みたいから、一緒に戦って、俺も強くなりたいんだ。――それに、たとえ俺が戦場で命を落としたとしても、お前に迷惑はかけない」
俯いた峨鍈の頭のてっぺんを見下ろしながら、さらに続ける。
「深江郡主が峨伯旋の妻になったという事実は、すでに世の知るところだ。そして、今後も深江郡主は峨伯旋の妻であり続けるだろう。――だから、もしもの時は、一人の名もない少年が死んだことにしたらいい。だって、深江郡主が戦場にいるはずがないだろ?」
「それは、つまり――」
不意に、それまで黙っていた孔芍が口を開いた。
「仮に、あなたが亡くなったとしても、その死を隠して、蒼夫人は生き続けていることにしろということでしょうか」
「ああ、うん。そうだ。それなら、伯旋には不利益が生じないはずだ」
「確かにそうですね。それどころか、蒼夫人が連れて来られた冱斡国の兵を動かせるようになりますね。彼らは深江郡主の兵ですから殿の命には従わず、正直、扱いに困っております。今のままでは無為に彼らを養うだけ。言ってみれば、穀潰しです」
口にしている言葉は酷く、まったく表情とは合っていなかったが、孔芍は蒼潤に、にっこりと柔らかく微笑んだ。
「今度の敵は100万。殿、今は一人でも多くの兵が必要な時だと思いますが、如何でしょうか?」
孔芍が響かせた声を最後に書室に長い沈黙が訪れた。
峨鍈に掴まれたままになっている両手首と、そこに触れている彼の額をどう扱って良いのか、蒼潤には分からなかった。
彼は未だに懇願する姿勢を保ったまま、じっと黙り込んでいる。
視線を孔芍に向けると、すぐに目が合って、彼が唇の端を少し横に引くようにして笑む。
彼が味方になってくれていることは明らかで、蒼潤は心強かったが、結局のところ、峨鍈の判断を仰ぐしかない。
重く、息が詰まりそうな沈黙が続き、だが、それは突然に終わった。
「潤」
僅かに掠れた低い声だった。
名前を呼ばれたことに不快感を得て片眉を歪ませた蒼潤を、峨鍈がゆっくりと顔を上げて静かな眼差しで見つめる。
怒気はすっかり鳴りを潜めているように感じられた。
だが、蒼潤は嫌な予感が胸に過って峨鍈の手を払い、後ろに退いた。その一瞬後だった。己の判断が正しかったことを知る。
蒼潤が振り払った彼の手が再び蒼潤の方へと伸ばされる。すぐさま捕らえられ、襟首を掴まれ、峨鍈が立ち上がるに伴って、蒼潤の体が持ち上がった。足が空を蹴る。
「くっ……‼」
咽を締め付けられ、苦しさに声が漏れた。
彼と目線が合うまで高く持ち上げられる。ぎゅっと閉じた瞼を無理矢理開いて彼を見やれば、怒りに上気した顔が自分の顔のすぐ近くにあった。
間近で目が合うと、峨鍈はきつく食いしばった歯の奥で、舌打ちをする。
ドスン、と鈍い音を響かせて、小さな体を床に放り投げると、忌々しいとばかりに言葉を吐き出した。
「そんなに死にたくば、死んでしまえ! 戦場で朽ちれば良かろう!」
峨鍈は荒々しく床を踏み鳴らし、書室を飛び出すと、衝立の外に向かって声を荒げた。遠くで控えていた者が何事かと血相を変えて駆けくる。
大声を張り上げて峨鍈は言った。
「石塢! 石塢を呼べ。すぐにだ!」
命令を受けた側仕えの男は、こちらにたどり着く前に体を翻して郡城に向かって駆けていく。
その後ろ姿を眺めながら峨鍈は大きく深呼吸を繰り返していた。
倒れた蒼潤に手を差し延べたのは孔芍だ。彼は書斎を出て行った峨鍈にも聞こえるような、よく響く澄んだ声で尋ねてくる。
「今までの話から推測いたしますと、蒼夫人――貴方は男子なのですか?」
誤っていたら申し訳ございません、と先に頭を下げておきながら、すでに確信しているかのような口調だった。
蒼潤は頷いて、痛めた左肩に右手を伸ばして擦る。
そうですか、と孔芍が言い、峨鍈に振り返った。
「俺は――」
と、峨鍈が書室に戻ってきて言った。
「龍を手に入れたのだ」
孔芍に視線を向けてそれだけ言うと、次に蒼潤に振り向いて、目線を合わせるように蒼潤の前で膝を折ってしゃがむ。
また乱暴をされるのかと思って蒼潤は、びくっと体を震わせた。
ところが、峨鍈は体を縮めた蒼潤に静かな眼差しを向けて、落ち着いた口調で言う。
「お前は知らないのだ。俺がどんな想いで蒼家の血を欲したのか。どんな想いで、お前を欲しいと思ったのか」
「……知るかよ」
口調こそ穏やかだが、真っ直ぐに見つめてくる彼の眼を恐ろしいと思って蒼潤は、ぷいっと峨鍈から顔を反らした。
すると、顎に指を掛けられて強引に顔を元に戻される。痛いと思って、反発心が沸き上がり、頑なに目を合わせずにいると、諦めたのか、峨鍈は蒼潤から手を放して立ち上がった。
そして、書室の奥に移動して敷物の上に、どすんっと苛立ったように座った。
△▼
夏銚が峨鍈に呼ばれて彼の私室に向かうと、ただならぬ雰囲気が峨鍈の私室から漏れ出ていた。
事情を聞こうと、呼びに来た峨鍈の側仕えに視線を向ければ、その者は大きく何度も左右に首を振って、逃げるようにその場を去ってしまう。
仕方がなく、何も状況が掴めないまま衝立の外から声を掛けて、室の中に入った。
夏銚は、峨鍈の従兄である。
峨鍈の祖父は宦官であったため、親戚筋に当たる夏家から養子を取った。それが、峨鍈の父――峨威だ。
峨威には兄がいて、その兄の息子が夏銚である。
この5つ年上の従兄を、峨鍈は誰よりも深く信頼していて、幼い頃は兄のように慕っていた。剣も、矢も、初めは彼から習ったほどだ。
夏銚の方も峨鍈を実の弟達以上に可愛がり、彼の成長を誰よりも楽しみに見守り、そして、峨鍈の成人後、彼の前で膝を折って見せた。
幼い頃から峨鍈の器を知り、その力を知り、見つめる先の大きさを知っていた夏銚だ。自分の命、将来、持ち得るすべてを彼に委ねようと心に決めていたのである。
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