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29.塀を越えて


「私が取り寄せた書物をご覧ください。男同士でもやれるんです。だから、天連様、大丈夫です! 私も協力しますから、頑張りましょう! 他の女たちに負けてはいけませんっ!」

「……」


 ぽかーんと蒼潤は口を開く。頭の中が、一瞬、空白になった。

 まったく何を言っているのやら。芳華が鼻息を荒くして捲し立てる言葉の意味が、蒼潤にはさっぱり分からなかった。

 そもそも、だ。峨鍈と蒼潤の婚姻は形ばかりのもので、お互いに利があったからそうなっただけの関係だ。

 蒼潤にとって峨鍈は、自分を玉座に導いてくれる存在であって、それ以上でもそれ以下の存在でもない。


 夫の振りをしているだけ。妻の真似事をしているだけ。

 彼は蒼潤の血を欲して蒼潤に手を差し伸べ、蒼潤は彼の力を欲して彼の手を取った。それ以上のものを求めるべきではないのだ。彼も。自分も。

 だが、と蒼潤はほくそ笑んだ。芳華は良い情報をもたらしてくれた。


「女と遊ぶ暇ができたか。ならば、当然、俺の話を聞く時間もあるはずだな」


 文机に両手をついて、すくっと立ち上がると、しゅっと引っ張るように帯を解いて深衣を脱ぎ捨てる。


小華しょうか、着替えるぞ。伯旋はくせんに会いに行く」

「乗り込むんですね!」


 芳華の愛称を呼んで蒼潤は次々に衣を脱いでいく。芳華は蒼潤に命じられて、箪《衣装箱》からズボンと褶《丈の短い上衣》を出してきた。


「男装して、女のもとに殴り込みに行くんですか?」


 なんてことを言って、すっかり思い違いをしているが、訂正をするのは面倒なので、芳華のことは放っておくことにする。

 蒼潤は着替え終えると、簪を引き抜いて、髪を頭の高い位置でひとつに括り、私室を出た。


 くつに足を通して庭に降りると、まず北正殿の門をくぐった。ここには見張りもなく、扉は常に開いているので抜け出すのは容易いものだ。問題はここから。

 北宮の門はかんぬきが差してある。その閂のある門は、若い妻や未婚の娘を宮城の奥に閉じ込めるためのものだ。ただし、見張りはいないので、蒼潤は鼻で嗤って木によじ登り、塀を越えた。


 北宮の外もまだ宮城の内である。東宮や西宮に通じる道があり、多くはないが下男の姿もある。誰にも見つからないように身を隠しながら宮城のもっとも南に位置する宮殿たてものに向かって走ると、また門に行き着いた。

 大きく扉が開け放たれた門だが、その左右には見張りがひとりずつ立っている。


(また塀を越えるべきか。それとも、下男の振りをして門を通るか)


 考えた末に、ここも木を伝って塀を越えることにした。塀の上から猫のように飛び降りて地面に着地する時に危うく見張りのひとりに見付かりそうになったが、さも初めからそこにいたかのような顔をしてその場を去った。


 門を抜けられたら、すぐそこが太守の私室だ。

 そこは宮城の最もおもてに位置しながら、同時に郡城の最奥でもあった。

 太守の私室より南は官庁が集中する郡城となっていて、太守の妻子は通常そこまで表に出てくることはなく、また、許されてもいない。

 逆に、太守の私室より北は宮城で、太守の家族が暮らす太守の私邸であるため、官吏たちは立ち入ることを禁じられていた。


 この郡城と宮城を合わせて内城と言い、内城は城壁で囲まれている。

 蒼潤は峨鍈の私室の前まで来ると、折り戸を開け放たれた室の中に視線を向けた。

 くつを脱いで回廊に上がり、入口の衝立を避けて室に入ろうとした時、ぎしっ、ぎしっ、と牀榻しんだいきしむ音が聞こえて、蒼潤は足をぴたりと止める。

 一瞬、何の音だか分からず、耳を澄ませてしまってから、蒼潤は顔を赤らめた。今まさに峨鍈が囲った女が彼の臥室しんしつにいるのだ。


(出直すべきか)


 ――当然、そうすべきだろう。


 ところが、蒼潤が身をひるがえす前に規則的だった音が止んで、臥室の奥から足音が近付いてきた。

 すぐに帘幕の内側から峨鍈が、はだぎを肩から引っ掛けただけの姿で現れる。目が合うと、彼は驚きの色を顔に浮かべて蒼潤を見下みおろした。


「なぜ、ここにいる?」


 蒼潤は峨鍈から漂ってきたむせるような甘い香りに不快感を抱いて顔を顰め、つっけんどんに言った。


「お前に話がある」

「話? ――なら、中に入れ」

「無理だ。お前のへや、女臭い」


 顔の前で片手で扇ぎながら言えば、峨鍈はくくっと笑った。視線をわざとらしく臥室の方へと流し、奥にいる裸体の女を蒼潤に見せてくる。


「お前はまだ経験がないだろう。指南役を探してやろうか?」


 ギョッとして思わず蒼潤は峨鍈の顔を見上げた。

 どういうつもりでそんなことを言ってくるのか、さっぱり分からないが、なんとなくここで峨鍈の言葉に頷いてはいけないような気がした。


「必要ない」


 短く拒絶すれば、しつこく言葉を重ねてくる。


「好みを言え」


 なんて面倒な、と思って蒼潤は苛立った。


「だから、いらねぇって! ――それより、俺の話を」

「分かった。あちらで聞こう」


 軽く嗤うように言って峨鍈は蒼潤の肩を抱くと、臥室の反対側の私室の奥を帘幕で区切った書室しょさいへと移動する。


揶揄からかっただけか? それとも、試したのか?)


 そんなことには興味はないが、もしも蒼潤が女が欲しいと言ったら、峨鍈はどんな顔をするだろうか。

 蒼潤は顔を顰め、自分の肩から峨鍈の手を払い除ける。そして、自分よりもずっと大きな体を押しやって遠ざけた。


「寄るな。臭い」


 女の香が峨鍈の体から漂ってくる。その香りが蒼潤にはきつすぎて、頭がくらくらした。


「くそっ!」


 蒼潤は峨鍈のはだぎを引っ張ると、ひと思いに剥ぎ取った。そして、汚物を扱うように室の隅の方へと投げ捨てた。


「何をする?」

「だから、臭い! お前、体を拭け! そして、俺に近付くなっ!」


 信じらんねぇ、と言って蒼潤はくるりと背を向けると、後ろから忍び笑いが追いかけてきて、蒼潤はますます苛立った。

 峨鍈よりも先に帘幕をくぐって書室に足を踏み入れる。


「うわっ」


 思わず蒼潤は声を上げた。書室の中は、竹簡や墨のついた筆で大騒ぎだった。

 足の踏み場もないくらいに散らかったそれらに唖然として、蒼潤は一歩踏み込んだ状態のまま固まってしまう。

 すぐに峨鍈が追いついて来て、蒼潤の後ろからその惨状を見やると、僅かばかり気まずげに言った。


仲草ちゅうそうを呼ぼう。片付けさせる。俺が下手に触ると分からなくなってしまうのだ」


 峨鍈は側仕えの者を呼ぶと、峨鍈が『仲草』とあざなで呼ぶ人物を呼びに行かせた。そして、彼がやって来るのを待つ間に、峨鍈は下男に命じて臥室の女を追い出すと、湯を運んで来させる。

 湯に浸した白布で体をぬぐうと、新しい衣を纏った。


 峨鍈が体を清めている間、蒼潤は居心地が悪く思って衝立の外に出ていた。ぼんやりと庭を眺めていると、ここにも銀木犀が植えられていると気が付いた。以前の斉郡太守か、その妻が好んでいたのかもしれない。

 そんなことを考えていると、足音が聞こえて、端正な顔をした細身の青年が回廊を急ぎ足でやって来るのが見えた。


 肌が白く、中性的な雰囲気を纏った彼は、峨鍈の筆頭軍師だ。孔芍こうじゃくという。

 しばらくてい県で留守を任せられていたが、峨鍈が斉郡太守の任に着いた際に斉郡城に呼び寄せられたのだ。

 民政に関することは、彼無しでは立ち行かないところが多いからだ。


「何か?」

「書室を使いたい。片付けてくれ」

「殿が散らかしたのですよ」

「頼む」


 仕方ないですね、と薄く微笑み、孔芍は衝立を避けて峨鍈の私室に入り、書室の入口に立つと、近くに落ちている竹簡から手を伸ばした。

 慣れているのだろう。みるみるうちに書室が片付いてくる。

 歩ける程になると、峨鍈は孔芍の脇を通り抜けて書室の奥へと移動し、敷物の上に腰を下ろした。彼が手招くので、蒼潤も書室の中に入って彼と向き合う形で座る。


「それで?」


 話を促す峨鍈に蒼潤は唇を開きかけるが、すぐに固く結んだ。孔芍がまだ書室の片付けを続けている。

 いくら峨鍈からの信頼が厚い軍師だとしても、はたして今からする話は、彼に聞かせても良いものだろうか。

 ちらりと孔芍に視線を向け、峨鍈を見て、なおも言い難そうにしていると、孔芍が床から拾った竹簡を棚の中に片付けて涼しげな声を発した。


「ところで、殿。その方はどなたでしょうか? わたしの見覚えのない方ですね」

「ああ。こいつは天連てんれんだ」

「姓は?」

「姓は……」

「……」

「……」


 しばしの沈黙が書室の中の三人に、ずしりとし掛かってきたように感じた。蒼潤は峨鍈の顔を仰ぎ見て、続いて視線を流して孔芍を見やる。

 先に口を開いたのは、孔芍だった。


「殿、正直に仰ってください。わたしに隠し事をしてもためになりませんよ」


 峨鍈は、かなわない、と両手を上げ、蒼潤に向かって顎をしゃくる。


「名乗ってやれ」


 本当に名乗っても良いのだろうかと、僅かに迷い、だが、峨鍈がそう言うのなら構わないのだろうと思い直して、蒼潤は膝を床に着けたまま孔芍に向き直った。


「わたしは、蒼昏そうこんの子、蒼潤そうじゅん

「わたしは孔芍こうじゃくと申します。字は仲草ちゅうそうと……」


 蒼潤に視線を合わせようと、孔芍も床に膝を着く。そして、片手で拳を握り、もう一方の手で拳を覆うように拱手きょうしゅをして名乗り、すべてを言い終えないうちに、その端正な顔を、一瞬の間をおいて、さぁーっ、と青ざめさせた。


「蒼……っ、互斡ごかん郡王ぐんおうの子!? では、深江郡主しんこうぐんしゅ、――そう夫人‼」


 孔芍は腰を浮かせて、何度か口を開け閉めする。

 信じられない。――いや、そんなはずはない、と彼は峨鍈と蒼潤に代わる代わる視線を送った。しかし、峨鍈も蒼潤も黙ったまま何も言わないので、彼は自分の考えが正しいのだと気が付く。

 腰を落とすと、こほんっと咳払いをひとつして、努めて穏やかな口調で確認を取った。


「蒼夫人で間違いありませんよね? 蒼家の方をもうひとりお連れしたとは聞いておりませんので。ど、どうして、ここに蒼夫人が? いえ、それよりも、主君の細君おくさまを拝顔してしまったわたしは処断されるのでしょうか? そして、殿は女人に男装させる趣味がおありだったのでしょうか? 存じ上げませんでした……」

「落ち着け、仲草。そんな趣味もなければ、お前を処断するつもりもない」

「では! なぜ、このような場所に蒼夫人が男装していらっしゃるのですか!?」

「それは天連に聞こう。天連、なぜだ?」


 慌てふためいた顔と、峨鍈の飄々とした顔が、同時に蒼潤に向けられる。

 蒼潤は一瞬怯んだ後に、静かに口を開いた。











【メモ】※『蒼天の果てで君を待つ』の設定です

・紙について

存在している。しかも、かなり普及もしている。

高級品ではあるが、普通に手紙を書く時に使ったりしている。紙の書物もある。

だけど、竹簡もまだまだ使われている。間違えた文字を削って消せるから、便利だったのかも。

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