2.暇ではないけど、本の森
ねぇ、と早苗が猫なで声を出した。
慰めるような、機嫌を取るような甘い声で、顔を上げてと亜希の頭をぽんぽんと軽く叩く。
亜希はそろりと顔を上げた。すると、早苗の顔がごく間近にあって驚く。彼女はしゃがみ込んで、亜希の机に頬杖をつき、くりくりとした大きな瞳で亜希を見つめていた。
「入部する、しないは、ともかく、しばらくは暇なんでしょう? だったら、放課後ちょっと付き合って欲しいなぁ」
「付き合う? どこに?」
「図書室」
亜希は怪訝に思って眉を寄せた。
「なんで1人で行かないの?」
はっきり言って、亜希は図書室に用はない。読書家である早苗とは異なり、国語の教科書ではない限り、長い文章を読む気になれないのだ。本なんて読みたいと思ったことがない。
早苗は苦笑した。おそらく亜希の反応など返事を聞く前から分かっていたのだろう。
「小学校の図書室と違って、なんだか入り難いの。すごく静かだし、上級生ばっかりなんだもん。慣れるまで一緒に付いて来て欲しいの。お願い!」
どうせ暇でしょ? と早苗の言葉は続く。亜希はムッと顔を顰める。
「暇じゃないよ。今週の日曜日は皐月賞だもん。データを集めなきゃ!」
「皐月賞? やだぁ、また競馬?」
早苗の呆れたような声が教室に響いた。けれど、亜希の表情は真剣そのものだ。
ぐっと拳を握って、声高らかに力説する。
「皐月賞はね、選ばれた三歳馬しか出場できないGⅠレースで、三冠を達成できる馬が現れるかどうか、競馬ファンなら固唾を呑んで見守らなければならないレースなんだよ!」
早苗と志保は、ほぼ同時に、やれやれと肩を竦める。亜希の競馬好きは今に始まったことではないので、二人の亜希に対する反応は素っ気ないものだ。
「皐月賞って、5月じゃないの? 皐月だから」
「毎年4月の第三日曜日にやるよ」
「でも、確か中山競馬場じゃなかった?」
どうやら志保は、亜希の競馬話に付き合っているうちに多少詳しくなってしまったらしい。亜希は、その通り! と志保の言葉に大きく頭をこくんと縦に振った。
「そうなの! ひどいよね! なんで東京でやらないのかな! 東京は日本の首都でしょ。中心でしょ。そして、東京の中心って言ったら、府中市! そしたら、競馬界の中心も府中! 東京競馬場じゃん‼」
「ひとつの場所にレースが偏らないように振り分けられてるんじゃないの?」
「そうだよ! そうなんだ。それは分かっているんだ。それに、場所によってコースが違うじゃん。馬によって得意とするコースが違うから、勝つ馬が変わってくるんだよ。それが面白いんだよ」
「じゃあ、いいじゃん。そういうことで。――それに、オークスもダービーも東京でやるでしょ?」
「やるけど! やるけどさぁー‼ 私は、すべてのレースを生で見たいんだ!」
声を荒げた亜希に、志保と早苗は顔を見合わせた。競馬の話をしているうちに亜希の元気が戻ったらしい。二人は、ホッと胸を撫で下ろして微笑んだ。
「亜希が皐月賞をとっても楽しみにしているってことは分かったわ。でも、今日は私に付き合って。皐月賞は日曜日なんだから、まだ時間があるでしょ」
今日はまだ火曜日だよ、と苦笑交じりに言って、早苗はパンッと両手を叩くように合わせた。
「本を探して借りるだけだから、そんな時間はかからないわ。 だから、ね! お願い。付き合って!」
こうなると亜希は頷くしかない。何だかんだ言って頼まれ事には弱い性分なのだ。それに、早苗は控えめに見えて、実は押しが強い。
仕方がないなぁ、と亜希が承諾した時、ちょうど担任が教室の中に入ってきた。
▽▼
早苗の言う通りだと思った。誰かが隣にいなければ、すぐさま回れ右をしている。
図書室は学校の三階に位置する。三階には2年生の教室が並んでいるため、図書室前の廊下には、あちらこちらで寄り集まっておしゃべりをしている上級生たちの姿があった。
一階の1年生の教室から階段を上がってくると、上級生達が一様に振り返り、まるで値踏みをするかのような視線を送ってくる。完全アウェイな空気だ。
ぎこちない歩みで、亜希と早苗は図書室の扉の前までたどり着くと、その扉を横に引き開けた。
ガラリ、と響いた音はじつに心臓に悪い。鏡のような水面に小石を投げ込んだかのように、静寂に音が響いた。
そして、本棚の森。
小学校のそれよりも数段に高い本棚が等間隔にたくさん並んでいる。そのどれかひとつに体当たりしたら、将棋倒しに次々と倒れるのではないか。そんな妄想を巡らせて、ちょっと試してみたい衝動に駆られ、亜希はこっそり笑みを零した。
一方、早苗は雰囲気に呑まれて気後れしたのだろう。入口で立ち尽くしている早苗の背中を押して、二人は図書室の中へと足を踏み入れた。
早苗は、しばらくの間、きょろきょろと辺りを見渡しながら本棚と本棚の間をうろうろと歩き回っていた。
時々、亜希に振り返り、亜希がちゃんと付いて来ているのかを確認すると、再び本棚に視線を戻して、きょろきょろとしている。
どうやら亜希たちは図書室の後ろの扉から入ってしまったらしい。図書室にはもうひとつ扉があり、そちらの扉の近くに貸し出しカウンターがあった。
カウンターの中で、ずいぶんと若くて綺麗な女性が椅子に腰かけて本を読んでいる。20代半ばくらいだろうか。大学を卒業したばかりのお姉さんといった感じだ。
彼女は亜希たちが立てる足音に気付いて、読んでいた本から視線を上げた。
(あ)
目が合った瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれる。――と同時に、亜希も懐かしい気持ちが胸を突き上げて来て、彼女の顔を凝視した。
知らない人だ。絶対に今初めて出会った女性である。なのに、なぜか知っているような気がして、彼女の顔から目が離せなくなった。
「亜希?」
早苗に腕を引かれて、亜希はようやく彼女から目を逸らした。
「どうかしたの?」
「なんでもない。早苗こそ、本は見付かったの?」
どうやら早苗には目当ての本があるようで、何でもいいから読める本を借りたいというわけではないようだ。
早苗は首を横に振った。見付からないと小さく残念そうに呟く。
「ないのかも……」
「司書の先生に聞いてみたら?」
再びカウンターの方に視線を向けると、カウンターの中の彼女は顔を俯かせて再び本を読んでいた。
早苗もカウンターの方に視線を向けて、優しそうな雰囲気を纏っている司書教諭の姿を見ると、うん、と頷いた。
「そうだね。その方が早いかも。――でも、亜希が聞いてくれる?」
「うん、いいよ。なんて聞けばいい? 本のタイトルは?」
早苗は人見知りなので、初対面の相手とはうまく話せないのだ。小学生の頃から早苗に頼まれれば、亜希が代わりに相手と話してあげている。
「ええっとね、『蒼天の果てで君を待つ』っていうの」
「そうてんの……」
早苗が口にした本のタイトルを繰り返そうとした時だ。亜希は自分の名前を呼ばれた気がして、ぱっと後ろを振り向いた。
(……)
振り向いた先で亜希と視線が合う者はいない。
本棚と本棚の間に立った生徒たちは、皆、本棚の本を眺めることに夢中だし、そのまま図書室の中をぐるりと見渡せば、20人ほどの上級生がテーブル席に着いて、黙々と本を読んでいる。その中に知った顔はなく、誰も亜希のことなど見ていなかった。
(いつもの気のせいか)
いつの頃からか、空耳のように名前を呼び掛けてくる声を聞く。そして、不思議なことに、名前を呼ばれていると分かるのに、呼ばれた名前が『亜希』ではないように感じるのだ。
では、なんと呼ばれているのか。それは分からない。だけど、自分を呼んでいると分かるから、本当に不思議だ。
そして、亜希は再び呼ばれた。早苗をその場に残して、亜希は声が聞こえてきた方に足を向けた。
ゆっくりと本棚と本棚の間を進み、カウンターへと向かう。早苗が慌てたように後ろをついてくる気配を感じながら更に歩き進んだ。
不意に早苗が小さく声を上げて、亜希の腕を引いた。
「あった」
「え?」
歩みを止めて早苗に振り向くと、早苗の人差し指が一冊の本を指し示した。それは、カウンターのすぐ隣に設けられたお薦め図書コーナーのラックに展示されている本だ。
亜希の腕を掴んだまま、早苗はその本の前まで移動すると、改めてその本の表紙を指差した。
「この本だよ。ずっと探していたの」
早苗の指先を見やれば、その本の表紙に『蒼天の果てで君を待つ』とタイトルが書かれていた。先程、早苗が口にしたタイトルだ。
「前に古本屋で1巻だけ買って読んでみたら、すごく面白くて、続きを読みたいなぁ、って思っていたの。――けど、その後、どこの本屋を探しても売っていなくて」
「ネットで探した? 本屋においてなくても、ネットでは売ってるでしょ?」
「捜したよ。でも、見付からなかったの。その後、中央図書館に行って探したんだけど、なくて……」
「大國魂神社のところの図書館? あそこ、本、少ないじゃん」
「違うよ。ルミエールの方だよ。図書館のパソコンでも検索したけど、見付からなくて。結局、府中市の図書館にはないってことが分かったの」
「えっ、それなのに、よくこの図書室にあったよね」
「うん。奇跡だと思う!」
ちょっぴり大きな声を出して早苗は言う。彼女は、奇跡とか運命とかいう言葉が好きだ。瞳をきらきら輝かせて、その本をラックから手に取った。
大きさは単行本サイズで、厚さは辞書のようだ。
「よくそんな分厚い本を読もうと思ったよね。私なら古本屋でその本を見付けても買わないと思う」
「じつはね、すごくすごく綺麗な人にお薦めされたの?」
「は?」
【メモ】
久坂 亜希
中学1年生。秋生まれの12歳。三姉妹の真ん中。ベリーショートの髪型。
初対面の相手には、大抵、男の子だと思われる。
競走馬が好き。競走馬が走る姿を見えるのが好き。自分の足で走るのも好き。
運動は得意だけど、複雑なルールは覚えられないため、陸上部以外の運動部は考えていない。
勉強が苦手。暗記物は特に苦手。数学はギリギリできる。
8歳の時、父親に競馬場に連れて行って貰い、GⅠレース・安田記念を見る。
修正前はオグリキャップ(1990年5月13日)を見たという設定だったが、修正後いろいろと不都合が出てきたので、本編には書いていない。
その時に自分を呼ぶ声を聞き、以後、呼び声が聞こえる時がある。
馬みたいに速く走りたいとの理由で、8歳から陸上教室に通う。