28.作者は失踪中
「だって、仕方がないじゃない。たかが侍女が殿に意見できるわけがないもの! ――って、亜希。夢で会ったよね?」
亜希の机に両手を着いて、ぐいっと早苗が亜希の方に身を乗り出すようにして言った。
うん、と亜希は頷く。
「同じ夢を見て、同じ夢の中で会ったよね?」
「信じられない!」
「信じられない! ……でも」
「そう。でも、見ちゃったんだわ!」
信じられないと、もう一度、声を上げて早苗は頬を赤く染めて大きな瞳で亜希を見る。
「私たちがおかしいの? 夢が変なの? それとも本のせい?」
「分からない」
夢を共有しているってことが勘違いということも有り得る。
偶然、お互いがお互いの夢の中に出て来たという夢を見たという、ものすごい確率の偶然だ。もはや奇跡だと言ってもいい。
8時30分を報せるチャイムが鳴って、廊下に出ていた生徒たちが教室に入って来た。直に担任も教室にやって来るだろう。
「誰かに相談してみない?」
廊下の様子を気にしながら早苗が言った。
「誰に?」
「例えば、本の作者とか?」
「日岡さん?」
「だって、亜希、知り合いなんでしょう?」
亜希は眉根を寄せた。正直、あまり関わりたくないというのが亜希の本音だ。
だって、最後に会った時、日岡は亜希に対してとんでもないことを言ってのけたのだ。
――お嫁に来てくれないかな?
常識のある大人が中学生相手に言う言葉ではない。絶対に。
「日岡さんには聞けない……」
「どうして?」
「失踪中だから」
「えっ?」
亜希は、日岡の秘書だとかいう水谷のことを思い出した。彼の話によると、小説の続きが書けなくて日岡は姿を消したのだという。
(本当かなぁ。だいぶ嘘くさいんだけど)
なぜなら、水谷と会うほんの数十分前まで日岡と競馬場で会っていたのである。
日岡が失踪前に、亜希に小説の続きを頼むと書き置きを残したらしいが、それだって怪しい。
時間軸に沿って日岡の行動を考えてみると、競馬場で亜希と会う前に水谷に対して書き置きを残している。とすると、一緒にハンバーグを食べていた時には、すでに亜希に小説の続きを頼むつもりだったことになるではないか。
ならば、なぜ直接、亜希に言わないのか。失踪するつもりであることを、ちらりとも感じさせないで亜希に接していたことにも不信感が募る。
はあああああ、と亜希は深々と息を吐き出した。
「分かんない。ほんと、わかんない」
「亜希、大丈夫?」
「大丈夫じゃない。私、日岡さんが投げ出した小説の続きを書けって言われてるんだ」
「ええっ!? ど、どういうこと!? 小説って、『蒼天の果てで君を待つ』のこと? 無理だよ。亜希には無理だと思う」
「うん、無理だよ。だけど、頼まれたんだ」
頼まれたというか、押し付けられたのだ。そして、きっとそこには大人の嘘が込められている。
失踪も嘘。小説の続きを書けっていうのも嘘。
でも、なぜ嘘をつくのか……?
よく分からないが、とんでもないことに巻き込まれているような気がした。
それは『蒼天の果てで君を待つ』という本に出会ってしまったからなのだろうか。それとも、日岡と出会ってしまったから?
なぜ夢を見るのか? あの夢は何なのか?
ガラリと教室の扉が開いて、早苗がパッと身を翻して自分の席に戻って行った。担任が教室に入ってきて、日直が声高らかに号令をかける。
考えがまとまらないまま、朝のホームルームが始まった。
△▼
――鳥か。
どこに潜んでいたのか、銀木犀の緑の中から不意に姿を現し、蒼く澄んだ空へと羽ばたいていく。
蒼潤は気配を感じて窓の外に視線を向いたまま声だけを背後に放った。
「お前か」
「――はい」
以前なら、見慣れない下女だと思って見過ごしていただろう。だが、いい加減慣れた。この者が姿を現す時が何となく分かってきた。
「何だ? おもしろいことでも起きたか?」
「壬州の反乱軍が併州に迫っています」
壬州は併州の東に位置しており、大規模な叛乱が起きていた。その数は100万と聞く。
「そこで、併州刺史が峨様に援軍を求められました。――峨様の兵は、1万と5千」
「勝てるのか?」
「勝てねば、公子もお終いです」
「ならば、勝って貰わなければならない」
峨鍈が斉郡太守となり、蒼潤は歴代の太守が正妻を住まわせた室で暮らしている。
そこは華美な装飾が施された広く快適な室で、黒漆を塗られた窓から見える中庭には立派な銀木犀が植えられていた。
蒼潤が深窓育ちの令嬢であったのなら、素敵な私室を与えられたことに大喜びして峨鍈に感謝するところだが、ここは斉郡城の宮城の最奥である。
外を駆け回ることを好む蒼潤にとって、華麗な牢獄であった。
中庭に視線を巡らせれば、中庭を囲むように植えられた樹木の後ろに高い塀がある。
(高いと言っても、あれくらいの塀なら、木を足場にすれば越えられそうだ)
どうやって塀を越えようか、その手段を考えるのは今日が初めてのことではない。ここずっと塀を越えて、宮城を抜け出すことばかりを考えている。
それでも、それを実行せず、ぐっと我慢をしているのは、ここが故郷の互斡国ではないということと、峨鍈に大人しくしているようにと念を押されていたからだ。
しかし、忙しいのか、最後に峨鍈の顔を見てから半月が経っている。
峨鍈が戦場から帰還したその日に僅かばかり言葉を交わしただけで、それから今日まで、存在を忘れられているかのように、ほったらかしにされていた。
このまま峨鍈の言いつけを守っていては、自分という存在がなくなってしまうような気がして、蒼潤は気持ちを奮い立たせるように言った。
「そろそろ動き出したいものだ」
「公子の兵は甄殿が毎日訓練しておられます。いつでも役に立ちましょう」
「そうか。燕がやってくれているのか」
甄燕は、姉の蒼彰の乳母の実子で、蒼潤にとって幼馴染みのような存在だ。
彼が自分について来てくれて良かったと蒼潤は笑みを浮かべた。
「問題は、峨様が何と仰せになるか」
「何か言うだろうか?」
「当然仰せになりましょう。今や公子は峨様の御正室。己の妻が人前に出て、物を言わぬ夫などおりません」
「だが、俺は男だぞ?」
「郡主であられます」
「……」
蒼潤は舌打ちをすると、親指の爪に前歯をあてた。コツコツと数度、音を立ててぶつけてから息を吐く。
そして、大きな動作で肩を竦めた。
「何とかする」
「――それから、ひとつ気になることが」
「何だ?」
「赴郡太守の動きが怪しげです」
「怪しげ? 何者だ?」
赴郡は済郡の南にある。
蒼潤が赴郡太守の名を問うと、貞糺と答えが返ってきた。
「貞糺も併州刺史から援軍の要請を受けているのですが、一向に動きが見えません。再三の要請にのらりくらりと返事をして、既に半年は経っています。今回、峨様に援軍の要請があったのは、そのためだと思われます。もちろん、峨様と瓊渕州刺史との関係性もいろいろとございましょうが」
「つまり、貞糺が動かないから、その代わりにということか。――お前が気になるのなら、貞糺に目を光らせておいてくれ」
はい、と短く返事があった、その時、不意に芳華の声が響く。蒼潤を呼びながら廊下を歩き、こちらに近付いて来る。
反射的に蒼潤は芳華に振り向き、はっとしてすぐに視線を戻したが、すでに下女の姿は消えていた。
清雨――蒼潤が使っている間諜である。元々は蒼彰の手の者であったが、互斡国を発つ際に蒼彰が蒼潤に譲ってくれた者だ。
本当の名前は知らない。
年齢も知らなければ、毎度まるで異なった姿で現れるため、性別すら分からなかった。
声音されも変えられるらしく、幾度も別人なのではないかと疑ったものだ。ただ、清雨は蒼潤を『公子』と呼ぶため、清雨だと分かる。
そのように蒼潤を呼ぶ者は、非常に限られているからだ。
清雨が去った私室で文机に頬杖をつきながら待っていると、開け放たれた折り戸の代わりに立てかけられた衝立の陰から芳華が姿を現した。
彼女はきょろきょろと室の中を見渡して、小首を傾げる。
「おひとりですか? 話し声が聞こえたようでしたが」
「誰もいない。見た通りだ」
「……そうですか」
僅かに間をつくり、芳華はもう一度、辺りを見渡す。
私室の奥は帘幕で区切り、床帳で覆った牀榻を置いた臥室になっていた。
そちらの方にも視線を向けて、誰もいないと分かると、芳華はたちまち頬を朱色に染めて甲高い声を上げる。
「天連様。何とも情けないことが起こりました! ああ、なんて、お可哀想!」
「は?」
芳華は蒼潤を前にして、拳を握り地団太を踏む。
「人伝てに聞いた話ですが、お気を確かにお持ち下さいね。殿がこの城に女を連れ込んだらしいのです」
「女?」
「斉郡城で暮らし始めてから殿の訪れがまったくないので、如何されたのかと思っていましたら、妾を囲われたのです」
なんだ、と蒼潤は鼻で嗤った。
「妾のひとり、ふたり……、そんな騒ぐことじゃない。べつに構わないじゃないか。男が妻なんだぞ? 他の妻たちは斉郡城にはいないし、伯旋だって女の肌が欲しくなる時もあるだろう」
なんてことのないように蒼潤が言えば、芳華の眉が歪んだ。
「ですけどっ!」
「鄭県には側室と両手の数では数えきれないほどの妾がいると聞いている」
「そんな……。天連様はそれでいいんですか?」
蒼潤は目を細めて、不満を隠そうともしない芳潤の膨れた頬を指で軽く突いた。
「良いも悪いも俺には関係ない。あいつの好きにすればいいのさ。むしろ、男を正妻にさせてしまって申し訳ないと思うくらいだ。男の身では、あいつの相手はできないからなっ!」
ははははっ、と蒼潤は軽やかに笑う。自分が口にした言葉がまるで冗談のように思えて、ますます可笑しくなったのだ。
――男が男の伽をする?
あり得ない、あり得ない、と蒼潤はお腹を抱えて両肩を震わせる。ケタケタと笑い続ける主に芳華は気分を害したように唇を尖らせた。
「天連様、私、調べたんです。――できます!」
「はぁ?」
笑い過ぎて目尻に滲んだ涙を指先で拭うと、蒼潤は芳華に振り向いた。
芳華は、だから、と語気を強めて言う。
「だから、男同士でもできます!」
「何が?」
「何をです!」
「んー?」
意味が分からないと蒼潤は芳華と視線を合わせたまま大きく首を傾げた。
【メモ】※『蒼天の果てで君を待つ』の設定です。
深衣…ワンピースのように上衣と下裳が一体となっている。かつては性別関係なく着ていたが、後には女性が好んで着るようになる。
直裾袍…袍の一種。胡服の影響を受けて袴を穿くようになってから、男性は深衣よりも袍を着るようになった。
褲褶…褲に丈の短い上衣(褶)。
裲襠…武官の礼服。
褝…つくりは袍と同じ。下着のようなもの。家で寛ぐ時に着る。外出時には上に袍を羽織る。
衵服…女性用下着。パンツのような物はないが、腹抱という前掛けのようなブラはある。
寒いときは、膝袴を穿く。
衫…シャツ。裏地なしの単。
長袍…礼服
皮弁…革製の帽子 袷…布製の帽子 巾……簡素な帽子
舄…祭祀用の靴。 履…糸で編み上げた靴