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27.ひと夜が明けて


 彼は目の前の膳を横に移動させると、次に亜希の膳も横に移動させる。

 何事かと思って見守っていると、衣擦れの音が大きく響いて、亜希はびくんと肩を跳ねさせた。二つの膳を退けてできた場所に峨鍈が膝を進めて、亜希の方に踏み込んでくる。

 ぎしっと床板が軋む音に亜希の心臓が縮み上がった。ドキドキと胸が騒いで、今にも爆発しそうである。

 紅の面紗越しに峨鍈の顔がすぐ近くに見えた。


(うわぁーっ。なになになになに!?)


 手を伸ばされて、紅の面紗の裾を峨鍈がそっと持ち上げる。そして、亜希の顔が現われるまで 捲り上げると、そのまま面紗を亜希の背中の方へ、するりと落とした。

 幕を下げられた馬車の中は、相手の顔なんて、ほとんど見えない暗さだったが、峨鍈の鋭い瞳と目が合ったのが分かった。

 次に何が起こるのか。亜希の瞳に不安が過る。体が硬直してしまい、身動きが取れないまま、じっと峨鍈の瞳を見つめた。


「ぷっ」


 不意に峨鍈が噴き出した。


「まずは食おう」


 言って、彼は体を亜希から遠ざけると、先ほど自分が移動させた膳を二つとも元の位置に戻した。

 そして、盃を手にすると、ひと息にそれを呷る。ごくりと喉が大きく上下する様を亜希は無言で見つめる。

 その視線に気付いた峨鍈が薄く笑って、食え、と短く言った。亜希は膳の上の料理に視線を落とした。


 料理と言っても、移動中のため品数は少ない。肉を煮込んだスープと小麦を練って蒸した饅頭パン、そして、ワラビの酢漬けだ。

 饅頭は、具の入っていない肉まんに似ている。ふわふわとしているので、少しずつ手でちぎりながら食べたり、スープから肉を取り出して、饅頭に挟んで食べたりすると美味しい。

 少しずつ遠慮がちに亜希が食べ始めると、峨鍈は再び盃を呷ってから口を開いた。


「明日、さい郡に入る。斉郡城に寄るため、鄭県に着くのはいつになるか分からん」


 鄭県は琲州霖国の内にある。

 峨鍈の故郷であり、彼の父親である峨威の邸宅がそこに在った。

 この時点では、まだ決まった土地に屋敷を持たない峨鍈は、父親の邸宅に身を寄せているのである。

 一方、斉郡は併州の内にある。蒼潤の生まれ育った互斡国は渕州だ。

 渕州と琲州の間に挟まれるように併州があり、互斡国と斉郡は南北に接しており、どちらも渕州と併州の境にある。


「斉郡って、確か叛乱が起きているんだよね? 援軍の要請がきたの?」


 饅頭の欠片を呑み込んで、彼の顔を下から覗き込むように言えば、峨鍈の目が見開かれていくのが分かった。


「なぜ分かった?」

「それは――」


 本を読んだからだよ――とは言えないので、亜希は口籠もる。

 おそらく昨日あたりに、琲州の留守を任せている孔芍こうじゃくから峨鍈のもとに文が届いているはずだ。そして、その文によると、斉郡太守が峨鍈に援軍を求めている――ということは、『蒼天の果てで君を待つ』を読んで知っていた。

 亜希はゆっくりと言葉を選びながら、訝し気な眼差しを向けて来る峨鍈に説明する。


「斉郡に叛乱が起きているっていうのは、風の噂で聞いていた。その場所に、お前が寄ると言うなら、援軍でも頼まれたのかなぁ、って思ったんだ」


 おそらく、こんな推測ができるほど蒼潤は頭が良くない。事実、小説にはこんなシーンなんてなかったはずだ。

 だから、不審がられてしまうのではと思ったが、そうはならず、峨鍈は、なるほどと言って頷いた。


「少し考えれば分かることだな。――食べ終わったか?」

「待って。もう少し」


 亜希は羹の椀を膳から取ると、ぐっと飲み干した。そして、椀を膳に戻す。


「うん、終わった!」

「なら、寝るぞ。明日も早い」


 峨鍈はするりと紅の長袍を脱ぎ捨てると、はだぎ一枚になってベッドに上がった。


「えー」


 亜希は仰け反って、思わず声を上げる。

 蒼潤のために用意された牀なのに、峨鍈が横たわってしまった。これはいったいどういう状況で、亜希はどうしたらいいのだろうか。

 おろおろとしながら亜希は峨鍈に尋ねる。


「ここで寝るの?」

「初夜だからな。初夜に夫婦が別々に休んだら体裁が悪いだろう」

「そうなの?」

「ほら、早く来い」


 峨鍈はごろんと亜希の方に体を向けると、牀に横たわったまま両腕を広げた。

 その意図を察すると、亜希は顔を強張らせてぷるぷると頭を左右に振る。


(無理! 無理! 無理!)


  牀は峨鍈に譲って、自分は床板に転がって眠ろう。そう思って、二つの膳を壁際に寄せて場所を作っていると、峨鍈がむくりと上体を起こした。


「世話の焼けるやつだ」


 言うや否や、彼は亜希に向かって腕を伸ばした。

 逃げる隙などなかった。亜希は一瞬で肩を掴まれ、強く引かれたと思った次の瞬間には、彼の腕の中にすっぽりと納まっていた。


「えーっ‼」

「うるさい。耳元で叫ぶな」

「でもっ! だって!」


 峨鍈は亜希の頭から簪を抜き取ると床に放り、あっという間に亜希の体から紅の深衣を剥ぎ取ってしまう。

 衵服したぎだけを残して、他の衣はすべて床に落とすと、峨鍈は亜希の体を抱き直した。そして、そのまま背中から牀の上に倒れ込む。


「わっ。わっ。わっ!」

「寝ろ」


(――いや、寝られないし!)


 12歳の少女が、仰向けに横たわった男の胸の上でうつ伏せになっている。この状態で眠れるわけがない!


(だから、無理だって!)


 ――もう体裁が悪くてもいい! 別々に寝たい。


 そもそも体裁が悪いっていうことの意味が分からない亜希だ。

 じたばたと手足を動かして、峨鍈の体の上で藻掻いていると、ふっと亜希の視界が真っ暗になった。峨鍈が亜希の両目を大きな手で覆ったのだ。

 寝てくれ、ということらしい。峨鍈の手はすぐに亜希の目から離れて、亜希の背中に回される。


 ぎゅっと抱き締められて、亜希は息を詰めた。苦しいと胸板を叩けば、わずかに腕の力が緩んだが、それ以上は亜希が何を言っても離してはくれなかった。

 恨めしく思って、彼の顔を覗き込めば、瞼を閉ざしてすっかり眠る大勢だ。亜希は、ため息をついて、抵抗をやめた。


  しばらく、じっと峨鍈の抱き枕と化していると、規則正しい寝息が聞こえてきた。

 しーん、しーん、と馬車の外で虫が鳴いている。

 パチパチと、松明の炎が跳ねる音がした。


(まったく眠れない……)


 暗闇の中、亜希はぎんぎんと目を光らせて、馬車の天井を睨み続けた。

 夜明けは遠く、長い夜が続く――。



 ▽▲


               

 いつの間にか閉じていた瞼を、ぱちっと開くと、すでに峨鍈の姿はなかった。

 上体を起こして辺りを見渡す。随分と眩しいと思ったら、昨夜、カーテンを閉め忘れたようだ。

 亜希は目元を擦りながら芳華を呼んだ。――だが、返事がない。


「小華?」


 何度か呼んでから、そうか、と亜希は気が付いた。呼んでも返事がないわけである。亜希は亜希のベッドの上にいたのだ。

 掛け布団を押しやって、大きく伸び上がる。それから、亜希は枕元に置いた本を手に取って、ページを捲った。


(たしか峨鍈は蒼潤を斉郡城に連れて行った後、蒼潤を斉郡城に残して自分は叛乱軍との戦いに出かけるんだ)


 叛乱はひと月ほどで鎮圧される。

 その戦いで斉郡太守が叛乱軍に討たれてしまい、空席になった斉郡太守の座を峨鍈が引き継ぐことになった。

 亜希が昨夜寝る前に読んだところはだいたいそこまでである。

 亜希は本を学生鞄に詰め込むと、寝起きの顔を洗うために自室を出て洗面所に向かった。


「亜希、もう8時だけどーっ! 起きてるの!?」


 1階のリビングから母親の苛立った声が響く。『もう8時』と言いながら、たぶん10分くらい猶予があるはずだ。

 はーい、と亜希はリビングに向かって叫び返すと、びしゃびしゃに濡らした顔をタオルで拭きながら階段を下りた。


 亜希や志保のように是政に自宅がある生徒は、是政駅から競艇場前駅までのひと区間を電車に乗って登校する。

 入学当初は、憧れの電車通学にわくわくしたが、ここで残念な話、競艇場前駅から中学校まで徒歩で20分くらいある。

 ならば、是政駅と競艇場前駅を経由せずに、直で中学校まで歩いた方が早いのではないかと、亜希は気が付いた。


 自宅の位置によっては早くはならない場合もある。例えば、志保の自宅は是政駅の目の前のマンションなので、電車に乗った方が早い。

 だけど、亜希の自宅は是政駅から徒歩10分の場所にあり、自宅から中学校までは徒歩25分だ。

 駅を経由すれば、自宅からの徒歩10分に乗車時間、そして、駅を降りてから学校までの20分が掛かるので、直で学校まで歩く方が5分早く着ける。


 たかが5分なら電車に乗った方が体力的に良いという考えもあるが、亜希の考えでは、電車の発車時刻を気にせず家を出られる点、電車の運賃が掛からない点、電車の本数が少ないため乗り遅れると12分待たなければならない点で、駅は経由せず、すべて徒歩で通学するべきである。


 素早く朝ご飯を終えた亜希は、制服に着替えて学生鞄を持った。


「行ってきまーす!」


 玄関を飛び出して、たったか走り出す。やや遅刻気味の時に走って時間を短縮できる点も、徒歩通学の利点である。

 8時25分。校門をくぐると、急いで教室に向かった。

 教室に足を踏み入れたとたん、見慣れた顔を見付けて亜希は、ほっと胸を撫でおろした。


「早苗、おはよう」

「おはよう、亜希。走って来たの?」


 亜希は自分の席に着くと、鞄を机の横に引っ掛けた。早苗が亜希の方に歩み寄って来たので、亜希は今日その顔を見たら絶対に言おうと思っていたことを口にした。


「早苗、昨日はよくも夢の中で見捨ててくれたな」


 早苗は一瞬きょとんとする。だが、すぐに亜希が何に対して言っているのか理解して、ごめん、と両手を合わせた。








【メモ】

ご飯事情

穀物と言えば、あわ。蒸して食べる。

 ・南の方…米が主食。蒸して食べる。

 ・北の方…米は育ちにくいため、麦が主食。小麦粉にして、パンや麺にして食べる。

饅頭パン…小麦を蒸してつくる。具の入っていない肉まんみたいな感じ。ほんのり甘い。

 そのまま食べても良いし、食べる時に自分で肉や野菜を挟んで食べたりもする。

あつもの…スープ

おかず…主に、野菜の酢漬けや味噌漬け。

肉…豚・牛・羊・鳥・馬を焼いて食べる。もしくは、燻製。

魚…焼いたり、刺身にしたり。

調味料…塩。肉や穀物から作られた味噌(醤)。豆類から作られた味噌(豆鼓)。蜂蜜もある。

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