26.結婚初夜
ガラガラと車輪の音が鳴り響き、それにつれてみるみると冱斡城が小さくなっていった。
そうして半日も進めば、景色は蒼潤の見知らぬものへと変わってしまい、たちまち心細さが押し寄せて来たが、同時に冒険者になったかのような、わくわくとした気持ちも湧いてくる。
埃っぽい灰色の大地に、一行の両脇には岩山が見えた。
いったい、今どの辺りを進んでいるのだろうか。何も分からないまま蒼潤の体の中で、亜希はじっと大人しく時間が過ぎるのを待った。
やがて薄暗くなってきて、日入りの頃に行進が止まると、乾燥した大地に白い花が咲くように次々と天幕が張られていく。
「今日はここで休むようですね。お湯と食事を貰ってきます」
そう言って徐姥が呂姥を連れて馬車を出て行く。玖姥も布団を取りに行くと言って馬車を下りて、荷車の方に向かって行った。
残された亜希と早苗は窓を覆った幕を上げて外の様子を並んで眺めている。
蒼潤はこの馬車の中で休むが、ほとんどの者たちは天幕の中で休むため、ところ狭しと多くの天幕が密集して建てられていた。
天幕から少し離れたところでは、炊事のための炎が灯され、暖かな匂いが風に乗って馬車まで流れてくる。
人々は忙しなく、右に左に動き回り、あちこちで様々な声が飛び交っていた。
この辺りは陽が岩山に隠れてしまうと、あっという間に辺りは闇に包まれて、一気に夜がやって来るようだ。松明や篝火の周りのみが闇に浮いたように明るい。
互斡国から連れて来た蒼潤の兵が馬車の周りを護衛している。彼が掲げる松明の炎がパチパチと音を奏でていた。
窓に近い場所に立った護衛兵の松明の炎を、亜希と早苗はしばらく無言で眺めていた。
飛び散った火の粉が、まるで命を持った生物のように跳ねて鳴いて、次々に死んでいく。なんて美しいのだろうと魅了される。
ふと亜希は視線を上に転じた。
「早苗、見て!」
亜希は窓から腕を突き出して、夜空を指差した。
「星がいっぱい見える! 綺麗だよ!」
街灯もコンビニの灯りもない夜だ。月は眩しく、亜希を歓喜させるほど星は煌めいていた。その数は今まで見たこともないような信じられない数で、まるで夜空に砂金を零してしまったかのような星々だ。
「ほんと、すごく綺麗。こんなの見たことがない」
「電気がないおかげだね。――いや、でも、正直なところ、電気は欲しい」
切実に思いながら言うと、早苗は残念そうに首を横に振った。
「ないわね」
「じゃあ、蝋燭とか、小皿に油を入れて火をつけるやつは?」
なんとなくありそうな物を言ってみたが、早苗は再び頭を左右に振った。
「この世界では蝋燭はものすごく貴重だから、きっとここにはないわ。油燈は――、小皿に油を入れて炎を灯す、いわゆるオイルランプね。これもこの世界では獣脂を使っていて、とっても貴重だから、今はないと思う」
「あるにはあるんだけど、めちゃくちゃ金持ちじゃないと使えないってことね。そっか、残念!」
亜希は立ち上がって、牀の反対側の窓の幕も上げた。こうすると、左右の窓から松明や篝火の灯りを馬車の中に取り込むことができるのだ。――というか、こうでもしない限り、この馬車の中は真っ暗で何も見えない。
ねぇ、と早苗が亜希を牀に座らせながら聞いてくる。
「亜希は、いつからこの夢の中だったの?」
亜希が問われた内容の意味が分からず、小首を傾げた。
「どういう意味?」
「あのね。私は昨日の昼頃から芳華だったの。でも、亜希は違うでしょ? 昨日の時点では、天連様は確かに天連様だったもの」
早苗が言うには、一昨日、蒼潤は笄礼の儀を行い、峨鍈に字をつけて貰ったそうだ。
その翌日――つまり昨日は、婚礼の準備と出立の荷作りに慌しく、今日は朝から婚礼を行い、昼前には互斡国を出立したというわけである。
早苗の夢は昨日の昼頃から始まったと言うが、亜希の夢はそれとは違う。亜希が気付いて時には蒼潤は紅の面紗を頭から被っていたからだ。
「今日の昼頃だと思う。馬車に乗れって言われて、これは夢だなって思ったんだ。――じゃあ、早苗は私より一日早くこの夢の中にいたの?」
「うん、そういうことになるね」
「えー、じゃあ、この夢って早苗の夢なのかなぁ。そこに私が入り込んじゃったのかなぁ」
「それは分からないけど。――でも、今分かったことは、亜希と私は夢に入った時期にズレがあるということよ。だから、夢から覚める時期にもズレがあるかもしれない」
「それって、就寝時間が違うからズレたのでは? 起床時間が違えば、夢から覚める時期もズレるんじゃないかな」
「そうなのかしら?」
「ちなみに、早苗は何時に寝てる?」
「11時くらいかしら? 亜希は?」
「ごめん、わかんない。本を読んでて寝落ちしたから」
「もぉーっ、何それー! 人に聞いておいて自分は分からないだなんてひどい!」
「ごめん、ごめん」
ほとんど口先だけで軽く謝罪した時だった。幕の外に気配を感じて、亜希はパッと幕の方に振り向いた。
徐姥たちが戻って来たのだろうか。それとも、玖姥だろうか。
くいっと早苗に袖を引かれて視線を向ければ、早苗が小さく囁くように言った。
「――たぶん、殿よ」
「殿?」
すぐに峨鍈のことを言っているのだと気付いた。
「なんで、伯旋がこんな夜中に来るの?」
「夜中だから来るの。だって、今夜は結婚初夜だもの!」
「はあ!?」
――結婚初夜。
つまりは、婚礼を挙げた最初の夜のことだ。
いくらなんでも亜希だって知っている。その夜に『やる』ことと言ったら……。
「嘘っ!? えっちなことをしに来たの!? 小説にこんな展開あったっけ?」
「あったわよ。ちゃんと読んでいないのね。亜希ったら、すぐに読み飛ばすんだから。――でも、安心して。小説を読む限り、ここでは最後までやらないはずだから」
「最後まで……?」
「うん、最後まで」
「……って?」
「……え?」
聞き返せば、早苗は顔をきょとんとさせて亜希を見上げて来る。亜希も亜希で、きょとんとして早苗を見つめ返した。
幕の外から男の声が聞こえる。その声はやはり峨鍈のもので、もうひとつ聞こえてくる声は女のものだ。どうやら峨鍈と徐姥が幕の外で何やら話しているようだ。
「――ねぇ、亜希」
早苗が再び亜希の袖を引いてきた。
「確認なんだけど、亜希にとって、えっちなことって、どんなことなの?」
「ええっ!? それ、言わなきゃだめ?」
「だめ。ここ、大事な確認だから」
ぐぐっと眉を跳ね上げて、早苗は真剣な顔を亜希に近付けて来る。これは亜希が答えるまで許して貰え無そうな雰囲気だ。
亜希は両手を口元に添えて、気恥ずかしそうに早苗の耳元で、ぽそっと零すように言った。
「キスとか?」
「え? ……他には?」
「えっ、他!? ええっと、胸を揉むとか……?」
「うん、それから?」
「は!? それからっ!? ……あっ、お尻を撫でるとかだ!」
「うんうん。亜希、限界! 私、これ以上は聞いてあげられない。もう無理。だから亜希、保健の授業、がんばって! もしくは、それ系の本いっぱいあるから読んで。学校の図書室にもあるよ!」
「どういうこと?」
「ごめん。今、時間ない。殿が来ちゃってるからね」
幕の外から声を掛けられて、早苗が牀から立ち上がる。と同時に、幕が巻き上げられた。
身に纏った紅の婚礼衣装の裾を片手でたくし上げるようにして峨鍈が馬車の中に乗り込んで来て、彼はまず亜希の姿を見ると、呆れたように言葉を放った。
「なんだ。自ら面紗を取ってしまったのか」
その言葉に早苗がいち早く反応して、亜希が放ったために馬車の隅に落ちている面紗に駆け寄って拾い上げると、それを亜希の頭にふわりと被せた。
峨鍈が浅く笑ったような気配がした。彼は早苗に振り向いて片手を振る。
「ご苦労だったな。下がっていい」
「えっ」
亜希は牀から腰を浮かせて、大慌てで声を上げた。
「ダメダメ! 下がっちゃダメだよ。お願い! ここにいて!」
早苗、と言いかけて亜希は、芳華、と声を上げて彼女の腕に抱き着くようにして縋る。
早苗は眉根を寄せて亜希の両腕から自分の腕を抜き取ると、峨鍈と亜希をおろおろと見比べて、亜希に向かって深々と頭を下げた。
(うそーっ)
この後、友人がえっちなことをされると分かっていながら見捨てて馬車から出て行くのかと、亜希は愕然として早苗の後ろ姿を目で追う。
早苗は踏み台を使って馬車から降りると、外で待っていた母親の隣に寄り添った。
徐姥の後ろでは呂姥が膳を2つ積み重ねて抱えている。峨鍈が床に腰を下ろすのを待って、徐姥が馬車に乗り込んで来た。徐姥は呂姥から膳を受け取ると、ひとつを峨鍈の前に置く。
徐姥に促されて亜希が峨鍈と向き合うように座ると、その前にもうひとつの膳が置かれた。
徐姥が馬車から降りて、入れ代わるように玖姥が乗ってくる。彼女は抱えて来た布団を牀の上で広げて綺麗に整えると、すぐに馬車から降りた。
徐姥たちが幕の外で深々とお辞儀をする気配を感じて、亜希はパッと幕の方に振り向いた。
待って、と呼び止めようとして口を開いたが、既に遅く、ざらりと幕が下げられる。薄暗く狭い空間に亜希は峨鍈と二人きりにされてしまった。
(やばい……)
たらりと、こめかみに汗が流れる。
早苗の言葉を信じるのなら、最後まではしないらしいのだが、亜希には何が『最初』で、何が『途中』で、何が『最後』なのか、まったく予想がつかなかった。
とりあえず、キスはされてしまうかもしれない。
(――まあ、キスくらいなら大丈夫か。口と口をくっつけるだけじゃん?)
こぽこぽと、酒瓶を傾けて盃に酒を注ぐ音が高く響いて、亜希は峨鍈に視線を向ける。
その盃を口元に運んで飲み干すのかと思いきや、峨鍈は気が変わったかのように盃を膳の上に、ことりと置いた。
【メモ】
牀…布団を敷けばベッド。布団を退けて長椅子としても使える。
面紗…顔を覆うベール。
・灯りについて
蝋燭は存在するが、貴重。
油燈(小皿に油を入れて炎を灯す、いわゆるオイルランプ)も、貴重。
なので、松明を燃やして灯りとしていた。部屋の中で松明が必要な時には、下男が松明を持って控える。