24.お嫁に来てくれないかな?
城戸が亜希と観戦した3レースでどのくらい儲けたのか分からないが、ドーナツひとつではお礼にはならないと、5階のレストランでハンバーグをご馳走して貰った。
3人で食事をしている最中も日岡は突拍子もないことを言って亜希を唖然とさせたが、その度に城戸がフォローを入れてくれるため、一対一で日岡と話した先日よりはずっと穏やかに会話ができている。
「――それで、8歳の時に父さんと一緒に初めてレースを見たんです。以前から競馬場に来たことはあったんですけど、いつもは母さんや美貴と一緒に来ていて日吉ヶ丘公園で遊ぶのがメインだったんで、レースは見たことがなかったんです」
「久坂教授に競馬のイメージがないけど、教授も馬が好きだったりするのかな?」
日岡の言葉に亜希は緩く頭を左右に振った。
「自分の研究の関係で、馬について知りたかったらしいです。なので、父さんの目的は博物館でした」
「なるほど。――ところで、亜希ちゃん。彬にはタメ口なのに、俺には敬語なのはなんでかな? 彬みたいにもっと気安く接して欲しいな」
「そうですか……?」
彬というのは、城戸の名前だ。
亜希としても、ひとりにはタメ口で、もうひとりには敬語で話すのは、正直、疲れる。
なので、日岡の申し出は有難いと言えば、有難いのだが、敬語ではなくなることで日岡との距離感がぐっと近くなってしまう気がして、胸がざわざわとした。
ざわざわの正体は警戒心だろうか。城戸には感じない怖さが、日岡からは感じるのだ。
「――分かった。敬語やめる。でも、もしそれでうちの親に怒られたら、日岡さん、ちゃんと庇ってよ」
「もちろん。それでね、亜希ちゃん――」
亜希は日岡に頷きながら、ナイフでハンバーグをひと口サイズに切って、ぱくんと口に頬張った。
日岡がにこにこしながら続きの言葉を言い放つ。
「お嫁に来てくれないかな?」
「ごふっ‼」
ハンバーグの欠片が、たぶん気管支の方に入った。激しく咳き込んで、亜希は水の入ったグラスに手を伸ばす。
ぐいっと水を呷ると、涙目になりながら日岡の顔を仰ぎ見て、腹から声を出す。
「は!?」
ちらりと日岡と並んで座る城戸に視線を向ければ、彼も目を点にして驚いている。そして、大きくため息をつくと、テーブルに肘をついて両手で顔を覆ってしまう。
城戸が日岡のフォローを投げた瞬間であった。
亜希は物言いたげに城戸に視線を向け、そして、日岡に視線を戻し、口をぱくぱくと開け閉めする。言いたいことはいっぱいあるが、何ひとつ言葉が出て来ない。
うん、と亜希は瞼をぐっと閉じて、拳をぐっと握った。
(撤回! はい、撤回! この人とは穏やかに会話なんてできない!)
むしろ、できると思ってしまった自分がどうかしていた。
今日で会うのは3回目だが、初めて会った時から日岡は亜希の心を大きく揺さぶって、感情を激しく上下させるのだ。
意味も分からず涙を零させたり、言葉を放つ度にイライラさせたり。一瞬、かっこいいかもと思ってしまった時もあったが、やっぱり変な人だと思い改める。
そして、微笑んでいるかと思えば、亜希を恐怖させるほど怖い顔をしてみせたりして、亜希には日岡という男がいったいどういう人物なのかさっぱり分からなかった。
亜希はゴトンとわざと音を立ててグラスをテーブルの上に置くと、じとりと日岡を睨み付けて言う。
「日岡さん、お断り!」
「どうして?」
「どうして!?」
まさか聞き返されるとは思ってもいず亜希は言葉を失った。
それから左手を自分の頭の後ろに回して、髪の中に指を突っ込んでガリガリと掻く。
「うーんっと、それは、まず、日岡さんのことが好きじゃないから」
嫌いと思うほど日岡のことを知らないので、嫌いだとは口にせず、亜希ははっきりと日岡を突き放した。
日岡の『お嫁においで』という言葉が言葉通りの意味なら、結婚しようということになるが、自分が日岡と結婚するイメージが亜希にはまったく浮かばない。
それは、彼のことが好きではないからに他ならないし、第一、歳が離れすぎていて、亜希と日岡が並んでいる姿に現実感がないのだ。
日岡は目を細めて苦笑を浮かべた。
「はっきり言うね」
「だって、日岡さん。私、12歳。中学生。未成年。――日岡さん、犯罪者になりたいの?」
「なりたくはないな」
「だよね。それに――」
――日岡さんは、私のことが好きなの?
そう聞きそうになって、亜希は、ぐっと口を結んだ。いくらなんでも、そんなこと恥ずかしくて聞けない。
亜希が途中で言葉を切ったまま押し黙ってしまったので、日岡は、ふっと亜希から視線を逸らして、テーブルの一点を見つめながら、ぽつりと言った。
「考えておいてくれないかな。君が大人になるまで、今回は待っていられそうだからね」
△▼
亜希が玄関を開くと、すぐに黒光りする靴が目に付いた。
(えーっ、また!?)
来客だと知って、亜希は思いっ切り顔を顰めた。日岡とは、ほんの数十分前に分かれたばかりだ。
競馬場の東門から自転車で帰る亜希に対して、日岡と城戸はそれぞれ車で来ているため、自分の車を駐車している場所まで戻っていった。だから、この来客は日岡ではないだろうと思うが、リビングに顔を出すのは止めて、自室に向かうことにした。
階段に足を掛けた時、ガチャリとリビングの扉が開く。
「亜希。帰ってきたの?」
リビングから顔を出したのは母親だった。
「亜希にお客さんよ」
「えっ、私に!?」
なんで!? と亜希は目を大きくする。まさかの日岡だったりするのだろうか。
(あの人、おかしいから、あるかもしれない)
嫌な予感を抱きながら、リビングの中に響かないような小声で母親に問う。
「誰?」
「水谷さんという方よ。亜希の知っている人じゃないの?」
「知らない。知らない」
ぶるぶると首を横に振る。
「とっても綺麗な人よ。男の人に対して綺麗だなんて失礼かもしれないけれど」
「綺麗な人?」
心無しが母親の顔が朗らかだ。美形を好ましく思う気持ちは、老若男女すべてに等しいからだろう。
母親の機嫌が良いうちに、ハンバーグを食べてしまったせいで夕食が食べられない話をしておきたいものだ。
そんなことを考えながら亜希はリビングに入った。
姿勢正しくソファに座る男が亜希に気付いて、にこっと微笑んだ。確かに綺麗な顔をしている。女性らしいのではない。男であるのは確かで、それでいて綺麗なのである。
彼は柔らかな物腰で立ち上がった。
「初めまして。水谷と申します」
さっ、と何かを差し出され、反射的に受け取ってしまう。見れば、名刺だった。『水谷怜司』と中央に書かれており、その右上に会社名が書かれている。
それから、会社名と名前の間に『社長秘書』とある。
どこだかの会社の社長秘書をやっているような人がいったい亜希にどんな用があるのだろう。さっぱり分からなくて、亜希は狐につままれる心地で水谷の正面に立った。
「久坂亜希です」
座ってくださいと言いながら、亜希自身もソファに腰を下ろす。
「突然伺ってしまい、驚かせてしまいましたね。申し訳ございません。実は、このような物が――」
「何ですか?」
水谷が差し出してきたものは、折り畳まれた紙切れ一枚だ。
受け取って広げると、便箋だと分かる。そして、亜希は便箋に書かれた文章に驚愕した。
「はぁ!?」
そこには、次のように書かれている。
――小説の続きが書けない。しばらく留守にする。続きは久坂亜希という少女が書くだろう。後は頼んだ。
最後に、日岡隆哉、と書いてあって以上である。
「意味が分からない! なんで私!? この続きって、何?」
はぁぁぁぁー!? と声を上げて水谷を見やれば、彼も困ったように綺麗な眉を歪ませた。
「ご存じのように、社長はご趣味で小説を書かれているんです。そろそろ最終巻を出版しようという時期になるのですが、その紙切れ一枚を残して失踪されてしまったのです」
困ったものです、と言いながら、本当に困っているのかどうか疑わしいのは、彼のその美しい顔のせいだと思う。
亜希は、えーっと、と額を抑えた。
「社長というのは、つまり、その……日岡さんのこと?」
小説は趣味だというのは聞いている。だから、本業は別にあるだろうことは分かっていて、スーツ姿から普通にサラリーマンなのだろうと思っていた。
「日岡さん、社長さんだったの? んで、水谷さんは日岡さんの秘書?」
「ええ。そうですけど。ご存知ありませんでしたか?」
「ご存知ありませんでしたね!」
「そうでしたか。社長はお話になられていなかったのですね。では、わたしから聞いたことは内密にしてください」
おそらくご自分でお話されたいでしょうから、と水谷は言う。
亜希は困惑しながら水谷に聞き返した。
「えーっと、それで、小説の続きって何のことですか? 私が書くとかなんとか……」
「もちろん『蒼天の果てで君を待つ』ですよ。亜希さんも読まれているそうですね」
「読んでいますけど、でも、まだ2巻の途中です。7巻までありますよね? そこまで読まなきゃ続きなんて書けません。――というか、そこまで読んでも続きなんて無理です。正直、なにバカなこと言ってんだ、って感じですよ」
「そうですか」
「そうですよ!」
いきり立つ亜希に、なぜか水谷はにこにこと笑みを浮かべる。
「ですが、社長が決められたことなので、わたしとしてはそれに従いたいと考えています。ですから、亜希さん。『蒼天の果てで君を待つ』を完結させてください」
「……」
絶句して、亜希は水谷の美しい顔を凝視する。
蒼彰
字は天幸。河環郡主。
蒼潤の姉で、二歳年上。目的のためには手段を択ばない才女。
弟の蒼潤を皇帝にすることを目標に生きてきたが、峨鍈によりそれが叶わないと悟ると、蒼邦に嫁ぎ、天下三分の計を説く。
夫と共に国を興す。