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22.青く染まる


「頬をちゃんと冷やせ。明日までに腫れがひかないと困るだろう」


 それに、と峨鍈は言葉を続けようとして、室の外から聞こえてきた掛け声に口を閉ざした。

 誰だと問えば、遠慮がちな声が返事をする。


「こちらに阿葵あき様――じゃなくて、天連てんれん様はいらっしゃいますか?」

えん? どうかしたのか?」


 蒼潤が答えると、そっと足を忍ばせるように甄燕がへやに入って来た。両腕で抱えるようにして水桶を持っている。

 甄燕は、怪訝顔を向けてくる自分のあるじの前にその水桶を置くと、中を満たしている水に麻布を浸して両手で掲げた。


「これで頬を冷やしてください」

「お前、ちょうど良い時に来てくれたな」


 蒼潤のその言葉に峨鍈も内心同意する。蒼潤の腫れた頬を冷やさなければならないとちょうど思っていたところだった。

 ところが、蒼潤は甄燕が差し出した麻布を受け取ろうとせず、水桶の前にしゃがみ込むと、その縁を両手でむんずと掴んだ。

 いったい何を、と怪訝に思った時だった。蒼潤が水桶を自分の頭の上に掲げ、そして――。


 ざばぁーっ。


 止める間もなく、蒼潤は水桶の水を頭から被った。


「おいっ!」


 驚き過ぎて、それ以上の言葉が出て来なかった。甄燕も白目を剝いている。

 蒼潤は、ゴトンと水桶を放ると、にこやかに峨鍈に振り向いた。


伯旋はくせん、見ろ。色が変わるぞ」


 ぽたぽたと毛先から雫を落とす蒼潤を唖然と見下ろしていると、その髪がみるみるうちに青く染まっていくのが見て取れた。

 まるで水に色があったかのように、黒髪が水に濡れて色が変わる。


 ――青だ。たしかに、青い。


 鮮やかに煌めく。それはまるで瑠璃の輝きだった。


「美しい」


 峨鍈は蒼潤の傍らに膝をついて、魅了されるがままに手を伸ばし、蒼潤の髪をひと房、手に取る。


「これほどまでとは思わなかった。信じられん……。いったいどうなっているんだ」

「気に入ったのか。それはよかった。じゃあ着替えて来る!」


 見せたからもう良いよな、と言わんばかりに蒼潤は、すくっと立ち上がって、すぐさま室を出て行こうとする。

 己の手からするりと流れて逃げていった青い髪に峨鍈は胸を突かれたように痛みを覚えた。

 追うように素早く立ち上がると、蒼潤の肩を掴んで、その小さくて細い体を自分の体に引き寄せる。

 とんっと軽く峨鍈の胸板にぶつかって、蒼潤はすっぽりと峨鍈の腕の中に収まった。


「え?」


 その顔は自分の置かれた状況が分からないとばかりに、きょとんとしている。

 峨鍈は自分の衣が濡れるのも構わず、蒼潤の青い髪に顔を埋めた。


 ――人智を超えている。


 本心を言えば、今の今まで祖父の言葉を信じ切れていなかった。龍というものが本当に存在しているとは思えなかったのだ。まして、その末裔など。

 ところが目の前で鮮やかに青く染まった蒼潤の髪を見て、峨鍈は理解する。

 真実、蒼家の者が龍の末裔であるかどうかは分からない。だが、人智を越えた存在であることは確かだ。


 ――なんということだ!


 峨鍈は心が打ち震えるのを感じ、己の両腕に収まったちっぽけな体を強く抱きしめた。

 どうやら自分は途轍もなく希少なものを手に入れようとしているようだ。


 ――ならば、早く。一刻も早く自分のものにしなくてはならない!


 明日を待てば、婚礼を行い、互斡国から蒼潤を連れ去ることができる。

 明日まで、たった一日、いや、もう半日もない。そうと思いつつも、それが焦れるほど長い時間のように思えた。




△▼




 亜希の土日は、大概、競馬場である。

 どうしても避けられない用事があったり、眠たすぎて家でダラダラしてしまう日もあるが、とにかく自宅が競馬場のすぐ近くにあるため、小学生の頃から気軽に足を運んでいた。


(南門が閉鎖される前はもっと行きやすかったんだけどね!)


 仕方がないので、自転車でぐるりと周って東門から入場している。

 拘らなければ、見るべきレースは毎週のように行われていた。もちろんGⅠ、GⅡ、GⅢと呼ばれるレースの方が見ていて胸が高鳴るが、亜希は馬が走る姿さえ見られれば満足なので、今日も午前中に行われる未勝利馬のレースからガッツリ見るつもりで競馬場に来ている。

 そして、できれば、16時半まで粘って全部のレースを見たい。


(だって、今日はフローラルステークスだ!)


 フローラルステークスは牝馬限定のGⅡレースで、このレースで2着までの馬にオークスへの優先出走権が与えられる。

 オークスで勝利すれば『優駿牝馬』という特別な称号を与えられるわけで、例えるのならば、馬の世界の女王が決まるレースへの前哨戦がフローラルステークスなのだ。

 それに、なんと言ってもフローラルステークスは、オークスと同じコースで行われるところも注目すべき点だ。


(――とは言え、ここ数年は桜花賞で勝利した馬がオークスでも勝利することが多いんだよなぁ)


 オークスの前哨戦と呼べるレースは他にもあって、桜花賞もそれだ。

 しかも、桜花賞は5着までに入ることができれば、オークスに進める。フローラルステークスは2着までなので、もうすでにそこから数が違うのも理由なのではないかと思う。


 亜希は手摺を両手で握り締め、身を乗り出すようにパドックを見つめた。

 レース前、出走する馬は厩務員に手綱をかれてパドックを周回する。時間は二十分程度で、そのわずかな時間がファンに与えられたその日の馬の状態をチェックできる貴重な時間だ。

 馬を間近で見ることのできるチャンスでもあるそれは、亜希にとって時には、レースそのものよりも面白かったりもする。


(なんだかんだ言っても、やっぱり目の前でレースを見た馬に肩入れしてしまうんだよね。だから、できれば、桜花賞の馬より、今日のフローラルステークスで勝った馬にオークスも勝って欲しいって思っちゃう!)


 桜花賞は阪神競馬場で行われるレースだ。自宅のテレビか、東京競馬場のモニターで中継を見るしかない亜希にとって、ちょっぴり距離感のある馬たちに思えた。

 そんなことを考えていると、栗毛馬が亜希の目の前を通り過ぎていった。自ら二人の厩務員を引っ張るように歩んでいる。小刻みに首を振っているのは気合いが入っている証拠だ。


 ゼッケンの下辺りを見やる。時折、この場所に白い粉を吹いている馬がいるが、それは汗が乾燥したもので、気合いが入り過ぎている証拠だ。レース前に体力を消耗してしまう馬だと思って良い。

 栗毛馬に白い粉は付いていなかったので、亜希はすぐに馬の名前を確認する。母馬と父馬、母方の祖父の名前を確認して、なるほどと呟いて頭の中にその名前を刻んだ。


 次に黒鹿毛馬が亜希の前にやって来た。パドックの外側を好調なリズムで歩んでいる。手元の出馬表に目を落とすと、覚えのある名前だったので、また会えたね、とその馬に向かって亜希は笑い掛けた。

 その時、不意に肩をとんっと叩かれる。ここに来るとよくあることだったので、亜希は驚くことなく振り向いた。


「やあ、亜希ちゃん」


 見上げるほど背の高い男だ。ギョロリとした大きな目で亜希を見下みおろしてくる。

 ゴツゴツと頬骨が張った厳つい顔をしているが、時折見せる警戒心のない笑みに愛嬌があって、亜希に男を恐ろしいとは思わせなかった。


 男の名前は、城戸きどという。亜希が競馬場に通い始めた8歳の頃からの顔見知りだ。

 30歳くらいだろうか。初めて会った時は20代半ばくらいだと言っていた。30歳の男が12歳の子供と親しげな様子は、端から見ると、きっと奇妙に見えることだろう。


 事実、亜希が8歳の頃、両親は城戸という人物を不安に思って、かなり心配をしていた。

 休日の家事で忙しいはずの母親が何度か亜希に付き添って競馬場までついて来たくらいだ。その時に城戸は亜希の母親に対して丁寧に接して、すっかり信頼を得てしまった。


 今では「城戸さんが一緒なら安心ね」なんてことを言うほどで、城戸の方も亜希の母親からそう言われれば、「亜希ちゃんのことは息子のように思っています」なんて風に答えるのが定番なやり取りだ。

 息子って……と、引っ掛かりを覚えないわけではないが、亜希は亜希で城戸に対して他人とは思えない親しみを感じているので、第二の父親だと思って接することにしている。


「どうだ? どの馬が勝ちそうだ?」


 城戸は亜希の隣に並ぶと、パドックに視線を向けた。


「あの馬が勝つと思う」


 亜希は城戸に請われるまま、すっと腕を前に出して一頭の馬を指差した。それは、栗毛でも黒鹿毛でもない、芦毛の馬だった。

 城戸は亜希の指先に視線を追って眉根を寄せる。


「毛ヅヤが良くない。それにあの馬は確か……」


 手にしていた競馬新聞で出馬表を確かめると、男は、6番人気だ、と肩を竦めて言い放った。勝つわけがないと。

 亜希は唇を横に引いて、にっと笑みを浮かべた。


「毛ヅヤが悪く、やぼったく見えるのは、芦毛馬だからだよ。芦毛馬は白黒交じった毛並みだから毛ヅヤの善し悪しは判断し難い。――だけど、私には分かるんだよ。あの馬の毛ヅヤは悪くない。落ち着いているし、いいレースができそうな気がするよ」


 それに、と続ける。


「あの馬のお尻の筋肉。どこかで見覚えがある」

「どれどれ。――馬のお尻の筋肉について語るか。まったく亜希ちゃんときたら、ただ者じゃないな」


 城戸は苦笑を浮かべながら、もう一度新聞に目を伏して血統を調べてくれた。見てご覧、と言われて、指差されたところを見やると、亜希は、二、三度瞳を瞬いた。

 その芦毛馬の母方の祖父にあたる馬は、亜希がよく知る名前を持っていたのだ。

 亜希が初めて見たレースで一着になった芦毛馬も、その名前の馬を祖父に持っていたのを思い出して、亜希はニッと笑った。自信たっぷりに。


「絶対、あの馬が勝つよ。絶対!」


 一番人気は黒鹿毛の馬だった。栗毛馬が二番人気。亜希の言う芦毛馬など、ほとんど注目されていない。それでも、あの馬が勝利すると亜希は思う。

 そう言うと、城戸は浅く笑って亜希の肩を軽く叩いた。












【メモ】

甄燕しんえん

 字は安琦あんき。蒼潤の2歳年上で、遊び友達であり、従者。

 後に副官になる。蒼彰の乳母の息子。蒼彰にネチネチ言われるのが嫌。

 幼いうちは『燕』と呼ばれている。

 蒼潤と共に互斡国を出て、以後ずっと蒼潤に付き従っている。

 蒼潤が邸の奥から出て来られない時には、代わりに蒼潤の兵を鍛えている。

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