21.婚礼前日
「たぶん、血筋コンプレックスのせいで、もっとも高貴な蒼家の血を持っていて、しかも、龍だという蒼潤のことが貴重な宝物のように思えたんじゃないかな。だから、峨鍈は、蒼潤が男で、龍だったからこそ娶ったのだと思う」
それに、と市川は言葉を続ける。
「峨鍈が娶らなければ、遅かれ早かれ、蒼潤は他の者の力を頼り、名乗りを上げるはずだ。ずっと女の振りをして冱斡国で燻っているわけにはいかないから、いずれ男として世に出て行くはず。そうなれば、蒼潤は峨鍈の敵として彼の前に立ち塞がってくる。峨鍈は蒼潤と敵対したくなかったし、他の誰かに龍を奪われたくなかったんだ」
「分かる! 蒼潤を自分だけのものにしたかったのよね!」
早苗が言うと、なんだか違う響きに聞こえるから不思議だ。
「峨鍈は蒼潤を自分の懐に入れて育てていくうちに、だんだん執着が生まれていくんだ。それは、3巻での出来事で、更に強まる」
「峨鍈はね、功郁という敵にしてやられて、蒼潤や梨蓉、他の側室たちを囚われてしまうの。その時に、蒼潤が他の男の元にいるっていうのが、峨鍈の気持ちを大きく揺さぶったのよ」
早苗は指を組んで、瞳をうっとりとさせた。そんな早苗を横目に見ながら市川は言葉を続ける。
「もちろん、蒼潤が男だと知られたらマズイから峨鍈は必死になって蒼潤を助けたんだと思う。だけど、それだけでは説明できない焦りがあって、たぶん、それは……執着心? 嫉妬心? 独占欲? ええっと……」
言葉に詰まる市川に代わって、早苗がずばり言った。
「愛よ!」
それはともかく、と市川が声のトーンを変えて言う。
「俺さ、3巻の終わりのところがすごくショックで読むのがつらくなった! 蒼潤が男だってバレないように、それから、自分よりも年下の蒼潤を護るために、楓莉が身代わりになって功郁と貞糺が待っている寝室に行くじゃんか」
「楓莉はプライドが高いからね。年下の、それも本来護られるべき立場にある蒼潤に護られているというのが嫌だったのかもしれないよね。自分はただ護られているだけの女じゃない。自分だって何かの役に立ちたいって思ったのかも……」
「それでさ。楓莉が向かった寝室のすぐ隣の部屋に、蒼潤や梨蓉たちがいて、蒼潤の耳に楓莉の悲鳴が聞こえてくるわけ。助けたいのに、すぐにでも寝室に飛び込んで功郁と貞糺を殺したいと思うのに、梨蓉や徐姥に諭されて必死に耐えるわけ。――それ読んでて、俺までも悔しくなった」
「分かるー!」
すぐさま早苗が同意する。
「私もそこで悔しくて泣いたの。功郁と貞糺を殺せたとしても、彼らの副将が兵士たちを率いてその場に押し掛けてきたら、蒼潤ひとりで女子供を護れないじゃない? 味方がいつ助けに来るのか蒼潤には分からないわけで、もし、30分後とか1時間後とかに味方が来るというのなら、すぐにでも功郁と貞糺を殺すんだけど、明日なのか明後日なのか、それとも、半月後なのか、一年後なのか、来ないのか、分からないから耐えるしかないの」
「そもそも貞糺は弱そうだけど、功郁はでかくて強そうだったから、蒼潤ひとりで功郁と貞糺を同時に相手にするのは難しかったかもな」
「私ね、その後のところでも悲しかったなぁ」
早苗も自分が借りた本を抱き締めながら、思い出したのか、瞳を潤ませた。
「峨鍈が来ているという報せを受けて、蒼潤が寝室で寝入っている功郁と貞糺を討ち取って、助かったぁって思ったのに、楓莉ったら、穢れた体で殿にお会いすることはできない、って自害しちゃうの。蒼潤の目の前でだよ! しかも、蒼潤の剣で! 止めなきゃって思うんだけど、躊躇しちゃうんだよね。他の男に抱かれた楓莉のことを汚いって、一瞬思ってしまうの。だから、結局止められないの。止めらなくて、ものすごく後悔するの。汚いだなんて思ってしまった自分が許せなくて、蒼潤は深く傷つくの」
泣けるぅー、と悲鳴のような高い声を上げて、早苗はジタバタと腕を振り回した。そんな早苗の隣で律子も、うんうん、と何度も頷いている。
亜希は悶える三人の様子を順に見回して肩を竦めた。
「盛り上がっているとこ悪いんだけど、そこまで読んでないから分からないんだけどっ」
「もうっ! 亜希も早く読みなよ。そこからがラブラブなのに!」
早苗が、ぷくっと頬を膨らませたところで、予鈴が鳴る。午後の授業まで残り5分だ。
律子に急かされるように三人は司書室から出て、小走りで教室に戻った。
△▼
弾むように軽やかな足音が聞こえて、手持ち無沙汰に読んでいた書物から視線を上げた。
すでに聞き慣れた足音だった。耳を澄ませていると、室の前までやって来て、ピタリと止む。
峨鍈は笑みを浮かべて室の外に向かって声を掛けた。
「天連か?」
「そうだ」
蒼潤が許可を待たずに、かたんと入口の衝立に体を触れさせながら室の中に踏み込んで来た。
どうやら今の今まで大人しく私室にいたらしい。蒼潤は縹色の深衣を身に纏い、耳上の髪を掬うように結い上げて、竜胆の花を模した簪を挿している。
「何か用か?」
峨鍈は手に持っていた書物を文机の上に置くと、蒼潤が簪から連なった珠をしゃらしゃらと鳴らしながら峨鍈の近くまで寄って来て、足を組んで座った。
この数日で峨鍈が知ったことは、蒼潤の口は悪さだ。そこらじゅうを駆け回り、身分を問わず友人をつくってきたためである。
更に、行儀も良いとは言えなかった。ちゃんとしろと命じれば正すことができるようだが、己の意志で正すことはない。
女の衣を着ていても平然と胡座をかいて座り、真の性別を知っている相手の前では襟元を大きく崩すのである。
これで本当に皇族に連なる者かと呆れてしまう。
何か言ってやるべきかと峨鍈は口を開いたが、蒼潤の顔に視線を向けると、別の言葉が口をついて出た。
「どうした?」
蒼潤は峨鍈の視線を受けて己の頬に片手を添える。その頬は赤く腫れ上がっていた。
「姉上にやられた」
「姉君が?」
「姉上は、俺がお前に嫁ぐことがお気に召さないらしい。考え直せと言われた。だけど、そういうわけにはいかないから、既にお前と共寝したと言ったら叩かれたんだ。思いっ切り」
「なんて?」
「だから、お前と共寝を……」
ぷはっ、と峨鍈は息を噴き出し、はははっと声を上げて笑った。
それから、蒼潤に体ごと向き直ると、手を伸ばし、蒼潤の赤くなった頬に触れる。
「姉君に言われたにも関わらず、お前の決意が揺るがなかったこと嬉しく思う」
「一度決めたことだ。すでに腹は括ったことだし、姉上になんと言われようと、お前について行く」
蒼潤は自身の頬に触れる峨鍈の手をやんわりと押し戻した。
「父上もひどく驚いていた。密かに俺と寧山郡王の娘との婚姻の話を進めていたらしい」
「ほう」
「寧山郡王の娘なんて会ったこともないし、考えてもみなかった」
「だが、お前が龍であるのなら郡主を娶るのは当然のことだな」
蒼潤は峨鍈の顔を仰ぎ見て、瞳を大きくする。峨鍈はなぜ蒼潤が驚いたのか分からないとばかりに言った。
「蒼家の者は青龍の子孫だと聞いたが?」
「それを知る者は、蒼家の者と後宮のごく一部の者だけだ。お前がなぜ知っている?」
「俺の祖父は宦官だ」
あっ、と蒼潤は小さく声を漏らして、思い出したと頷いた。
「先帝の近くで仕えていたらしいな。そうか、知っているのか。べつに隠しているわけではないが、なぜかあまり知られていないんだ」
「それはそうだろう。青王朝の皇族が、実は、亡国の王族の血筋に乗っ取られているなどと、大ぴらに言えるわけがない。皇族に隠しているつもりがなくても、側近たちによって隠されていたのだと思うぞ」
そう峨鍈は言ってから、蒼潤の幼さの残る顔を見やった。
現時点で、おそらく蒼潤が最も年若い龍だ。
寧山郡王、越山郡王、そして、互斡郡王に今後、男児が生まれない限り、或いは、蒼潤が妻を娶り、息子を儲けない限り、蒼潤が最後の龍となるだろう。
峨鍈の祖父は、公主や郡主たちのことを『龍の揺籃』と呼んでいた。
公主は皇帝の娘のことで、郡主は皇帝の兄弟の娘のことだが、どちらも生母もまた郡主であることに限る。
郡主以外の妃が産んだ娘は県主と呼ばれ、『龍の揺籃』になり得ない。つまり、公主や郡主からしか龍は生まれないのである。
そして、公主や郡主が『龍の揺籃』だとしても、彼女たちの夫が龍でなければ、龍は生まれない。
おそらく蒼潤は気付いていないのだ。自分が峨鍈の嫁ぐことで、龍の血が絶えるということを。
そのことを峨鍈の口から蒼潤に教えてやるつもりはなかった。ようやく手に入れた彼を失うわけにはいかないからだ。
「天連」
呼ぶと、ぱっと顔を上げて、ん? と小首を傾げる。その仕草が実に幼い。
「龍は髪が青く変わると聞いたが、それは真か?」
「ああ、本当だ。見たいのか?」
「見たいな」
峨鍈が答えると、蒼潤がニヤリと唇を横に大きく引いて不敵な笑みを浮かべた。
「交換条件だな。里に行きたい。翠恋に会いに行きたいんだ。翠恋の仔馬の様子も知りたい」
峨鍈は眉を寄せた。
翠恋というのは、蒼潤の愛馬のことだ。つい数日前に仔馬を産んだ。
「明日の支度はできているのか? 荷造りは? 明日この地を発つぞ」
「それは小華たちがやっている。俺のやることはない。室にいると邪魔者扱いされるんだ」
「致し方がないやつだな」
「許可してくれるのか? お前が許可したと言えば、父上にも姉上にも止められないから助かる。――まあ、許可してくれなきゃ、抜け出すまでだな」
それは困るな、と峨鍈は親指の腹で己の顎をなぞった。
明日、峨鍈と蒼潤は婚礼を挙げる。郡主を娶ることになるので、本来なら六礼に則った婚礼をひと月ほどかけて行わなければならないが、自領を長く空け続けることができないため、簡略化した婚礼を行い、そのまま冱斡国を発つことになっていた。
ところが、そのことでも蒼彰と蒼潤はひと悶着おきる。
蒼彰は、実際に婚姻を結ぶのは蒼潤が15歳を過ぎてからにすべきだと語気を強めて蒼昏に訴えた。それまでは婚約を結ぶだけに留め、峨鍈ひとり互斡国を発つべきだと。
だが、峨鍈は一刻も早く蒼潤を手に入れたかった。蒼潤を互斡国から連れ去るために、14歳の蒼潤に笄礼の儀を行ったのは、昨日のことだ。そして、些か強引に婚礼と出立の支度を整えている。
おかげで互斡城はひっくり返したように慌ただしく、本当ならその渦中に主役である蒼潤の姿があっても良いはずなのに、なぜか、彼は暇を持て余して峨鍈の傍らにいるから、なんとも不思議な話だ。
「分かった。俺も一緒に行こう」
「えー」
「お前ひとりで行かせて、万が一、何かあったら困る」
「燕と一緒だから、大丈夫だ」
「俺も行く」
断固として言えば、ちぇっと蒼潤が拗ねたように顔を逸らした。だか、すぐに気を取り直して、にっこりと笑顔になる。
ころころと表情を変えるその顔は、見ていて飽きることがない。
「とりあえず、出かけても良いってことだよな。すぐに着替えてくる!」
そう言い放つと、すぐさま蒼潤は立ち上がった。女の衣を着ていながら、よくぞそこまで身軽に動けるものだと感心する。
だが、はっと我に返って峨鍈は素早く蒼潤の腕を掴んだ。
【メモ】
同族不婚…同じ姓の男女は結婚してはならない。※ただし、蒼家は例外である。
六礼…夫婦になるための、納采、問名、納吉、納徴、請期、親迎の六つの儀式のこと。
ものすごく日数が掛かるため、乱世では簡略化された。
拝事…簡略化された婚礼。仲人を介さず、新郎は面紗で顔を覆った新婦を自宅に迎え、新郎が新婦の面紗を取り、新婦が姑と舅に挨拶をして終わり。




