表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/84

1.その瞬間に与えられ、奪われる


 一瞬でとりこになった。


 最後のその時まで、呼吸すら忘れて必死に追い続けた。

 ドキドキと胸が高鳴り、これほど気持ちが高揚することなど生まれて初めてだった。

 目が離せない。なんて美しく、勇ましい生き物がこの世には存在しているのだろう。

 わぁーっと歓声が沸き起こる。白いまだらが散った黒味の強い灰色の馬が、一瞬の線となって駆け抜けていった。


(――ああ、これだ)


 亜希あきは、ぐっと拳を握る。

 全身がわなわなと震え、二本の足で大地を踏み締めて立っていることが精いっぱいだった。


(ここに、私が目指すものがある)


 今は大勢に埋もれ、スタンドから馬場を見下ろす幼い自分だが、いつの日か、あの場所に立つ。

 真っ先にゴールを切った灰色の馬がスピードを緩めながらトラックを駆けていく。馬の背には、誇らしげに片手を掲げる騎手の姿が見えた。


(羨ましい。私もいつか一番速い馬の背に乗りたい)


 ――そして、旋風かぜのように駆けるんだ。速く、それから、もっと速く。風に溶け込むくらいに。


 不意に、名前を呼ばれて気がして亜希は振り返る。大勢の大人たちが熱狂しながら馬の名前を呼んでいた。

 外れ馬券が紙吹雪のように投げ捨てられる。鳴りやまないコールに、悔し気な顔をした大人たちもその馬の勝利を祝って、やがてコールに加わった。


 亜希は再び自分の名前を呼ばれたような気がして辺りを見渡した。

 だが、ちっぽけな亜希のことなど誰も気にかけていない。皆、優勝した馬の名を呼び続けることに夢中だった。


 ふと仰げば、蒼い空が広がっている。薄く流れた雲は白い鳥の翼のようだ。

 鳥は風に従って、大きく羽ばたく。


(――まただ。また呼ばれた)


 今度は、はっきりと聞こえた。だけど、不思議なことに、その声は亜希のことを呼んでいるのに、亜希の名前を呼んではいなかった。

 声は切なげに亜希を呼ぶ。

 その声に応えるすべを持たない亜希は、ぎゅっと眉を寄せて瞼を閉じた。


 蒼い空。

 足下には果てしなく続く草原が風のざわめきに応えて大きくうねっている。

 亜希を呼ぶ声に呼応して、懐かしくも遠いビジョンが亜希の脳裏に鮮やかに浮かび上がった。 




 ▼▽




「――うん、バカだね」


 顔を引き攣らせて見上げると、冷ややかな目が亜希あき見下みおろしている。居たたまれなくなって、パッと顔を背けた。


「知っていると思うけど、高野たかの先輩は、この学校で一番速いの。学校って言うか、府中市で一番速いの。んで、昨年の都大会に出場しちゃったりしているような御方おかたなの。惜しくも優勝はできなかったみたいだけど、つい最近までランドセルを背負っていたようなあんたが、勝てるような相手じゃないの」


 お分かりですか? と、志保しほは両腕を広げて亜希の席の前で肩を竦めている。

 彼女とは小学校以来の付き合いで、中学校に上がった今でも気の合う友人である。加えて、亜希に対してまるで遠慮のない相手でもある。ズケズケと痛いところを言い当ててくる。


 担任が教室にやって来て朝のホームルームが始まるまで、あと10分くらいだ。こうしている間にも教室の中は、続々と登校して来るクラスメイトたちで次第に賑わいでいった。

 志保は亜希の前の席の椅子を引いて亜希の机に近付けると、長く細い脚をきれいに組んで座り、それで? と呆れた表情のまま尋ねてきた。


「約束したんでしょ? 負けたら陸上部には入部しないって」

「なになに? どうしたの?」


 机に肘をついて両手で顔を覆った亜希を見て、同じく友人の早苗さなえが自分の席に鞄を置いてから亜希の近くにやって来た。

 亜希の心のオアシス――早苗は、柔らかなウエーブのかかった髪で肩を覆った可愛いらしい女の子だ。背が低く、砂糖菓子のような印象がある。


 対して、志保は長身で、髪型はショートカット。亜希も初対面で男の子だと間違えられることが多いが、志保も少年のような雰囲気を纏った凛とした少女だ。

 少々きつく見える顔立ちは、分類するとしたら『美形』の類だと思う。


 この中学校では、制服の上は紺色のブレザーと決められているが、下はスカートかスラックスかを選択できるため、志保も亜希も制服はスカートではなく、スラックスを着用している。

 早苗はスカートで、膝下3センチという校則があるが、早苗が動く度にちらちらと膝が見えるので、たぶん腰でスカートを折り返している。

 ちなみに、スカートもスラックスも色は青みの強いグレーだ。


 顔を覆ったまま答えない亜希の代わりに、志保が早苗に視線を向けて口を開いた。


「亜希ってば、陸上部のやり方が気に入らなくて、ケンカをふっかけたんだよ。亜希が勝ったら亜希のやり方で練習をする、負けたら亜希は入部しないなんて約束までしてさ」

「何それ?」

「バカでしょ? 相手は高野先輩だよ。一瞬でも勝てると思ったあたりが凄いわ」

「亜希、勝てると思ったの?」


 信じられない、と早苗が高く声を上げる。


高野たかの先輩って、3年生の男子陸上部の先輩だよね? あの、優しくて明るくて目立つ感じの、かっこいい先輩でしょ?」

「そう、その高野先輩」


 その高野先輩と聞いて、早苗は微かに頬を上気させた。ミーハーな一面のある早苗なので、周囲の女子がきゃあきゃあ言っている噂の先輩の話が聞けて喜んでいる様子だ。

 だが、すぐに落ち込んでいる亜希を思い出して、亜希に視線を戻し、眉を『ハ』の字に寄せた。


「うーん。普通に考えて、たとえ相手が高野先輩でなかったとしても、中3の男子に中1の女子が勝てるとは思えないかな」

「だよね。男女差って、ガキの頃はそう変わらないだろうけど、うちら、もう中学生だよ。体力的にも何でも、男と女じゃあ差が付いちゃうもんでしょ?」


 ――女は男には適わない。勝てない。


 それはまるで、亜希は従弟いとこ拓巳たくみには勝てない、と言われているかのようだ。

 亜希は覆っていた両手を離すと、そのまま顔を上げることなく机の上に突っ伏した。ごんっと勢い余って額を机にぶつける。


(――痛い)


 ぐずん、と鼻をすすって、今にも泣き出しそうな情けない声を出した。


「それでも、なんでも、絶対に負けたくなかったんだよ……」

「負けちゃったのね」


 当然の結果だが、それを改めて亜希の口から聞くと早苗は、うんうん、と頷きながら亜希の頭をぽんぽんと撫でた。


「亜希って、小学生の頃からずっとクラスで一番足が速かったもんね。亜希が駆けっこで負けたところ、私、見たことないよ」

「……うん」


 自分の足は速い。それは亜希が持つ唯一の自信だった。

 駆けっこならば、あの拓巳にだって負けたことはない。劣っていると言われることのない唯一の武器だった。

 だけど、速いと言っても、それは所詮しょせん小学生レベルだということを痛いほど思い知ってしまった。


 亜希たちが中学校に入学したのは、つい4日前のことだ。

 4日は『高野俊弘たかのとしひろ』という名を聞くには十分な時間だった。――いや、違う。入学前から彼の名前は知っていた。

 すごく速く走れるらしい。そうと聞いて、彼と同じ部に入れたら、きっと自分も、もっと速く走れるようになるのではないかと淡い期待を抱いた。


 彼に会ってみたい。一緒に走ってみたい。その一心で陸上部を尋ねたのは、昨日のことだ。

 そこで亜希は愕然とする。亜希が理想とする、風のように駆ける部員の姿はどこにもなかったのだ。


 代わりに目に入ってきたのは、陸に上がったトドのようにだらけた部員の姿だけ。

 ある者はコンクリートの上に寝そべり、 ある者はグランドの土に絵を描いている。寄り集まって他愛もない話をしている者たちもいれば、他の部に混ざってボール遊びをしている者たちもいた。


(私は走りたいのに……)


 亜希は拳を握った。


(もっと練習して、もっともっと速く走れるようになりたいのに。――こんな場所では走れない!)


 絶望に近い感情が胸の中に、じわり、じわり、と広がったが、まだ亜希には一粒の希望があった。高野俊弘だ。

 彼の姿を探して校庭を見渡せば、なんということだろうか、彼も他の部員となんら変わらなかった。

 日射しから逃れるように、 ピロティのコンクリートに寝そべっている彼を見つけて、亜希の我慢は限界を達した。


(こんな奴が都大会に出られるなんて! 府中市で一番早いって? そんなの嘘だ! 認めない。 認められっこない!)


 カーッと頭に血が上り、そして、気が付けば、彼の胸ぐらを掴み、勝負を申し込んでいた。

 どちらが速いか勝負がしたい。一緒に100メートルを走って欲しいと怒鳴りつけるように言った。

 勝負は翌朝。かなり早めに登校し、校庭で待ち合わせて、並んで走った。


 ――一瞬だった。


 スタートをして、わずか50メートルで彼の背が見えた。

 その後どうやって教室にたどり着いたのか分からない。気が付くと、志保にあれこれ言われていて、早苗にも心配されている。


「亜希、本当に陸上部に入らないの? ちゃんと謝ったら入部させてくれると思うよ? 顧問の先生に相談してみようよ」


 早苗の優しさを滲ませた声に、亜希は机に額を押し付けたまま首を振った。目頭が熱くなる。

 だって、入部できるわけがない。あんな無様な負け方をしたのだから!

 たとえ顧問の力で入部できたとしても、どんな顔をして部活動に加わればいいのか分からない!


「じゃあ、陸上やめちゃうの? もう走らないの?」


 ――やめたくない。もっといっぱい走りたい。


 そう思う半面、あれほどの敗北を知ったものを続けていく自信もなくなっていた。


 足の速さは唯一の自信だった。自慢だった。それなのに!

 粉々に砕け散った自信。傷だらけの自慢。

 けがされてしまった、引き裂かれてしまった、そんな思いが亜希の心を苛んでいる。











【注意書き】

 この物語は、2004年12月に一度完結をしております。

 2025年2月から修正&加筆を開始するにあたって、登場人物の名前と本のタイトルを変更しました。

 そのため、修正前に頂いた感想やレビューとは異なる点が出てきてしまいましたこと、書き込んでくださった方にお詫びします。

 『仮想史』⇒『蒼天の果てで君を待つ』

 峨瑛⇒峨鍈 薪塢⇒夏銚 楚雀⇒孔芍 峨旋⇒峨驕 など変更いたしました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ