18.望みは、ひとつ
当然、蒼絃は龍ではない。
龍ではないどころか、暴政を敷いて都の民を苦しめているという呈夙の傀儡に成り下がっている。それは、本物の龍である蒼潤には到底看過できないことだった。
(俺だったら、呈夙の勝手にはさせないのに!)
玉座にあるべきではない者が玉座にいるから、天下が荒れるのだ。
蒼潤は悔しげに拳を握り、目の前の男を睨み付けた。
「蒼家の血が必要だから、ここまで来たんだろ? 姉か妹か選べばいい!」
開き直り、口調さえも粗雑になった蒼潤に峨鍈はしばし唖然とし、彼が普段言われ慣れていないような不遜な言葉に次第に笑みを浮かべてくる。
くくくっと声を漏らした峨鍈に蒼潤は、きょとんとして彼を見やった。
「何が可笑しい?」
「確かにわたしには蒼家の血が必要だ。心から欲しいと願っている。――だが、わたしは貴方が欲しい。貴方だ、潤」
「は?」
一瞬ぽかんとして、それから、名を呼ばれた嫌悪感に蒼潤は顔を青ざめ、引き攣らせた。
「愚かな。俺は男だ。お前の妻にはなれない」
気でも狂ったかと言わんばかりに蒼潤が言うと、峨鍈はますます笑った。
己自身でもそう思ったに違いない。正気ではないと。
「貴方が女でも貴方を選んだだろうが、男だと知って、ますます欲しくなった」
「それは、そういう趣味を持っているということか?」
「いや、違う。貴方の望みを叶えてやりたくなったのだ」
蒼潤の口調につられるように峨鍈も砕けた物言いになって蒼潤と向き合う。
「貴方が望めば、すべて叶えよう」
「俺の望みが何かも知らぬくせに」
「分かる気がする」
「それをお前は本当に叶えられるのか?」
「貴方がわたしのものになれば」
蒼潤は辟易する。なんて執拗な男なのだろうと苛立った。彼にとって蒼潤である必要などあるはずがないのだ。蒼彰でも蒼麗でも、彼の欲する蒼家の血が流れている。
それなのに、なぜわざわざ男の身である蒼潤が欲しいだなどと言うのだろうか。
(バカげてる!)
女として生きていることだけでも口惜しいのに、何が悲しくて、男の妻にならねばならぬのか。ひどい屈辱だ!
投げやりな気分で蒼潤は口を開いた。きっと蒼潤が心の内をきちんと話さねば、この目の前の男は納得しないだろうと思った。
「俺の望みは唯一つ。――玉座だ」
蒼潤は、お前に本当に叶えられるのかと、挑む気持ちを込めて峨鍈を睨み付けた。
「本来その座にあるべき者が、玉座に座るべきだ」
「父君を帝位につかせたいのですね」
「しかし、父上にはその気概がない。口では、いずれと言われるが、今の暮らしに満足されている。よく俺に向かって言われるのだ。生きているだけで素晴らしい。生きてさえいればと。――はっ。そんなわけがない! こんな成りで生きていて、なんの意味がある!? 何も成し得ないまま生きて、ただ死ぬだけか? そんな生き方をするために、俺は生まれてきたというのか!」
蒼潤は激昂するように声を荒げ、そして、ぎゅっと拳を握り締めた。
「恙太后が死んだ時、反呈夙連盟が結成された時、父上は皆の前に立ち、号令をかけるべきだったのだ。それなのに、父上は怖じ気づいたんだ。――おそらく父上はもう帝都に戻るつもりがない。このままこの地で平穏無事に暮らしたいと、お考えなのだろう。父上はそれでいいのかもしれない。だか、俺は嫌だ!」
蒼潤は目を伏した。彼の長い睫毛が目の下に影をつくる。
「俺は玉座が欲しい。――そのためにも、力が欲しい。この地から出るための力、呈夙から身を守るための力、そして、帝位に導いてくれる力だ」
「その力、わたしが貴方に捧げよう」
「今のお前の力では、呈夙には対抗できない」
「しばし時を頂ければ必ず。その時まで貴方を守り、貴方を教え導きたい」
蒼潤は、ぱっと顔を上げて峨鍈を見やる。
峨鍈の瞳の奥に、何とも言い様のない強い炎が見えた気がした。
「貴方がわたしに貴方の血を下さるのなら、わたしは貴方にすべてを差し上げよう。貴方が持ち得ないものは、わたしがすべて持っている。わたしが持ち得ないものを貴方が持っているように」
「繰り返すが、そんなに蒼家の血が欲しいのなら姉か妹を娶ればいい」
「こちらも繰り返そう。わたしは貴方が欲しいのだ!」
荒げられた声に蒼潤はびくっと体を震わす。
強張らせた顔に峨鍈が手を伸ばして、両手で蒼潤の頬を包み込んだ。
「貴方に冱斡の外の地を見せてやりたい。お教えしたいこともたくさんある」
「なぜ俺にそこまで?」
「さて、なぜかな。自分でも不思議なのだ」
気が付くと、すぐ近くにお互いの顔がある。自分の吐息が峨鍈に呑まれてしまいそうだと思って、蒼潤は息を止めた。
だが、もちろん長くは持たない。はぁっと吐息を漏らして、揺れる瞳で峨鍈を見つめると、ずっとその様子を見つめていた峨鍈が、ふっと微笑んだ。
「きっと、貴方とわたしは比翼の鳥なのだ」
「比翼の鳥?」
それは伝説上の鳥のことだ。雌雄各一翼で、常に一体となって飛ぶのだという。
「わたしたちは互いに翼を分け合って生きている。貴方の翼には蒼家の血が。わたしの翼にはそれ以外が。共に羽ばたかねば、この乱世の空を飛び行くことができない」
きっと彼は自分を憐れんでいるのだろうと蒼潤は思って、つと視線を峨鍈から逸らした。
男でありながら、女として生きなければならない哀れな少年。
玉座を望みならが、玉座から遠く離れた田舎で燻るしかない小さい存在。――それが蒼潤。自分だ。
「潤」
名を呼ばれて、蒼潤は逸らしていた視線を峨鍈に戻した。視線が絡み合う、その次の瞬間、唇に柔らかく触れる感触があって蒼潤は瞳を見開いた。
「――貴方を手に入れたい」
どくんっと胸が高鳴り、その後はドキドキと騒がしく心臓が胸を突く。顔が熱い。きっと真っ赤になっていると思う。
唇から感触が消えないまま蒼潤はその唇をそっと開いて、静かに問う。
「峨伯旋、俺を裏切らないと誓えるか?」
「貴方はわたしの片翼だ。自身の体を傷付けたりはしない」
「俺の望みは玉座だ。時が来たら、本当に俺のために軍を貸してくれるのか?」
「差し上げる」
「お前は玉座を望んでいないのか? 俺が玉座に着いた時、お前はどうする?」
「その時は貴方の臣になろう。わたしは青王朝の玉座など望んではいないのだから――」
蒼潤は瞼を閉ざした。それから、ゆっくりと瞼を開いて峨鍈の顔を真っ直ぐに見つめる。
そして、しっかりとした口調で言い放った。
「俺を、お前にくれてやってもいい」
――はああああああーっ!? ダメダメ! ちょっと待ってぇーっ‼
心の内で絶叫しながら亜希は目覚めた。
とたん、どっと疲れが押し寄せてきて、体がひどく怠い。眠った気がまったくしなかった。
ベッドから上体を起こして枕元に放ってある本に、じとりと視線を向ける。
(蒼潤、嘘でしょ。本当に結婚するの?)
するのだということは、早苗から聞いている。蒼潤は峨鍈の正妻になるのだ、と。
(だけど、男じゃんか!)
日岡が書いた小説の中のことであり、ここで亜希がどうこう言ったところで、蒼潤が思い止まるようなことはない。
(分かってる。分かってはいるが、それでも、言わずにいられるだろうか! ――蒼潤、マジでそれで良いわけ? あんた、絶対騙されてるよ‼)
亜希は本を両手で掴み上げると、本を蒼潤に見立ててガクガクと揺すった。
ため息を付く。 亜希には、どうしても蒼潤が峨鍈にうまく言いくるめられたように思えて仕方がなかった。
△▼
「――うん、騙されているね!」
はっきりと、きっぱりと、早苗が言い放った。
亜希が登校すると早苗が教室で待っていて、近頃、おはようの後に続く言葉として繰り返されている質問を投げかけて来た。
「どこまで読んだの?」
亜希は、蒼潤の性別が暴かれたところまでと答え、蒼潤が峨鍈に言いくるめられて結婚を決めたような気がして仕方がないと言ったところ、先の言葉を、はっきりと、きっぱりと、早苗が言ったのだ。
「だってね、峨鍈は『青王朝の玉座』はいらないって言ったのよ?」
「あー、そういえば言ってた」
「蒼潤が玉座に着けたら臣下になるって言っていたけど、着けたらね、っていうニュアンスだったと思う」
「ひどい!」
「あとね、あの刺客なんだけど、峨鍈が雇った人たちなんだよ。蒼潤の性別を調べるために、峨鍈は蒼潤の服を脱がせたかったの」
「なるほど。だから、手当をするって言って、服を剥ぎ取ったわけだ。ほんと最低だよ! アレ握るし!」
百歩譲って蒼潤が男だったから良かったが、――いや、ちっとも良くはないが――もしも女だったら、どうしていたのだろうか。
女性の名節に関して厳しくなる時代は、もっと後のことだが、さすがにあそこを触られたら他の男には嫁に行けないってことになるのではなかろうか。
(まったく、何が比翼の鳥だよ。片翼だよ!)
峨鍈が後に『堯』という国を興すということは、『蒼天の果てで君を待つ』の冒頭に書いてある。
天下は三つに分けられ、三勢力で争う時代の始まりの物語である、と。そして、そこから本編がスタートするのだ。
峨鍈が堯の国の玉座に着いた時、蒼潤はどうするのだろう?
いや、むしろ、その時に峨鍈は蒼潤をどうするつもりなのだろう?
(もしかして、もう蒼潤なんていらねぇってなって殺しちゃったりして……)
ひぃーっと心の中で悲鳴を上げて、亜希は身震いする。そして、担任が教室に入って来るのが見えたので、亜希は自分の席に戻って机の横に鞄を掛けて椅子に座った。
チャイムが鳴り、朝のホームルームが始まった。
【メモ】
胡帝→礎帝→余帝(蒼絃)
・峨鍈の祖父の峨旦が仕えた皇帝は礎帝。
・蒼昏は胡帝の息子で、胡帝の皇后の唯一の皇子。
・礎帝の生母は、胡帝の貴人で、恙家の娘。礎帝即位後、恙太后。
・礎帝は龍ではなく、恙家の娘を皇后に迎えたため、その皇子である蒼絃も龍ではない。
・寧山郡王と越山郡王は、胡帝の同母弟である洪陵郡王の息子たちで、龍。
寧山郡王と越山郡王の母親も蒼家の娘であり、自分たちの正妃に蒼家の娘を迎えているので、その息子も龍。
しかし、恙太后によって、息子たちはことごとく殺される。