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16.知りたいと思う気持ち


 兎を自分の馬の背に括り付けた甄燕しんえん蒼潤そうじゅんと視線が合うと、首を横にぶんぶんと振る。

 ぷはっ、と峨鍈がえいが息を噴き出した。はははっと声を上げて笑い、彼は言う。


阿葵あき殿に馬をお贈りしたい」

「馬なら数頭持っています」


 蒼潤は気恥ずかしくなって、つんと峨鍈から顔を背けた。峨鍈は構わず言う。


「冱斡の馬ではなく、他の土地の馬です」

「他の土地の馬?」


 蒼潤は不思議とその言葉に惹きつけられて逸らした顔を再び峨鍈に向けた。


「冱斡の馬は確かに良い馬です。他のどの土地で育った馬よりも速く走ります。――ですが、弱い」

「弱い? そんなバカなっ」

「ご存じないようですね。冱斡の馬は、すぐに脚を折るのです。荷を乗せたら人は乗れず、人を乗せたら荷は乗せられない。背を重くして駆けさせると、すぐに脚を折ります」

「それは馬を酷使しているからだ。扱いが悪い。もっと大事に扱えば……」

いくさの時にそのような余裕はありません」

「でも!」


 言いかけて、――だが、蒼潤はすぐに口を閉ざした。

 悔しいが、蒼潤は戦を知らない。戦だけではない。冱斡以外の土地さえ知らなかった。


「他の土地には、もっと体格の良い馬がいます。それなのに、冱斡の馬を比類ない名馬だと言い切るのなら、貴女は無知過ぎましょう。他を知って、再び冱斡の馬を知る。そうしてから、初めて冱斡の馬を評することができるのではないでしょうか」


 諭されるように言われた言葉に、首を縦に振るしかなかった。峨鍈は正しい。自分は幼く、そして、無知だ。

 唇を嚙みしめる蒼潤に峨鍈は瞳を細めて、風に言葉を乗せるように言い放った。


「わたしなら、貴女に様々なものを見せて差し上げられる。この地にはないもの、そして、あらゆることを教えて差し上げましょう。貴女が望めば」

「私が望めば? 本当に?」


 馬を好きだと言った時のように蒼潤は、ぱっと瞳を輝かせた。だが、すぐに顔を峨鍈から反らし、表情を曇らせる。  

 峨鍈が僅かに焦りを感じさせる声音で蒼潤に言葉を投げかけた。


「知りたいとは思われませんか?」

「知りたい。だが――」

「だが?」


 蒼潤は峨鍈から顔を背けたまま首を横に振った。そして、馬首を返す。


「峨殿、貴方は姉か妹を娶られよ。どちらも気に入らなければ、早々に互斡から去るといい。父上も貴方を責めたりはしない。ただ縁がなかった。それだけだ」


 そう蒼潤は言い放ち、彼をその場に残して甄燕の隣まで駆けると、二人で連れ添ってもっと遠くへと馬を駆けさせた。

 心のままに草原を駆け回って、日暮れ近くなる。

 先程から甄燕が物言いたげに蒼潤に視線を送ってくるのを何度も無視していた。だが、そろそろ宮城に帰らなければなるまい。

 蒼潤は手綱を引いて馬の歩みを止め、甄燕に振り返った。


「燕、帰ろう」

「はい、阿葵様」


 二人で馬を並べて城壁に向かって駆ける。西の空が橙色に染まり始め、甄燕は気が気でない様子で馬の手綱をぎゅっと握り締めていた。


夕餉ゆうげまでにへやに戻らなければ、さすがに郡主様にバレます」

「そうだな。だが、大丈夫だ。きっと間に合う」


 かなり遠くまで馬を走らせてしまっていたが、やがて外郭が近付いてきて、外郭門の左右に佇む門兵の姿が見える距離まで戻ってきた。

 その時だ。

 不意に影が蒼潤たちの横から飛びかかって来る。


(――っ‼)


 おそらく外郭の陰に潜んでいたのだろう。騎乗した男が8人、蒼潤と甄燕を取り囲み、一斉に鞘から剣を引き抜いた。

 二人の門兵が事態に気付いて駆けつけてくるのが見えたが、おそらく間に合わない。蒼潤は弓を構えて矢を放った。

 至近距離で放った矢が、ひとりの男の額に突き刺さって、男は落馬した。


(刺客かっ!)


 直ぐさま蒼潤は弓を投げ捨て、剣に持ち替えた。


「阿葵様は、城の中に逃げてください! ここは俺が!」

「バカ! お前ひとりで7人も相手にできるか!」


 甄燕の言葉を即座に退けて、蒼潤は次の相手と対峙する。

 相手は多勢だ。ひとりと剣を交えると、すぐに横に流した。

 相手の力を受け流しながら隙を見つけ、切る。そして、素早く身を翻し、もう一人の剣を剣で受け止めた。


「阿葵様、後ろっ!」


 甄燕の声に、はっと後ろを振り返ると、大きく剣を振り上げた男と目が合った。その瞬間はまるで時が止まったかのように感じられた。

 ああ、これが死ぬということなのか、と覚悟を決めた時だった。

 トスッ、と軽い音が聞こえて、目の前の男の眉間に一本の矢が突き刺さる。驚きに見開かれた目が、蒼潤を凝視し、そして、そのまま男は落馬した。


 矢がどこから飛んできたのか、それを考える余裕は蒼潤には与えられなかった。

 次の相手が蒼潤に向かってくる。しかし、振り上げられた剣が振り下ろされる前に、その男も落馬する。男の首を一本の矢が貫いていた。

 雄叫びと共に馬の背を蹴って、男が蒼潤に向かって飛び掛かって来た。高く跳んで振り下ろされた剣を蒼潤は自分の剣で受け流したが、その弾みで馬から転がり落ちた。


「痛っ‼」


 背中から落ちた蒼潤に別の男が剣を突き下ろしてくる。地面の上を転がって避けて、男の足を剣で払うように切った。

 よろけた男の背に矢が突き刺さる。一本、二本。そして、三本目は後頭部に突き刺さって、男は、どおんっと地面に倒れた。


 馬の背を蹴って襲い掛かってきた男は、甄燕と駆け付けて来た門兵たちが切り捨てたようだ。

 次に襲ってくる者はいないと知ると、蒼潤は辺りを見渡した。8人すべて地に伏していた。

 ホッと息を突くと、馬の蹄の音が近付いて来て、頭上から声を掛けられる。


「なんと無茶をなさる方だ。逃げずに立ち向かうなど」


 見上げると、峨鍈が片手に弓を持って馬上から蒼潤を見下していた。


「怪我はありませんか?」

「ありません。助けてくださって、ありがとうございます」


 あわやというところで矢を放ってくれたのは、彼だったのだ。そして、その後も蒼潤の動きに合わせて、次々に矢を放ち助けてくれた。

 素直に感謝を口にすると、峨鍈が馬から降りて蒼潤の正面に立った。

 怪我などないと言ったのに、彼は蒼潤の言葉など聞こえていないかのように蒼潤の体を上から下まで隅々と確認する。

 そして、強く左腕を掴んだ。


「痛っ!」

「怪我をしている。すぐに手当をしましょう」


 自分では気付かないうちに左肩を切りつけられていたようだ。


「平気です。かすり傷です」

「見せてください」

「結構です!」


 逃れようとする蒼潤そうじゅん峨鍈がえいは許さない。腕を掴む力の強さに蒼潤は顔をしかめた。


阿葵あき様、怪我をされたのですか!?」


 甄燕しんえんが馬から降りて駆け寄って来る。蒼潤はホッと表情を緩めた。


「馬から落ちた時ですか?」

「いや、違う。切られた」

「切られた!?」


 さっと顔色を変えて甄燕は蒼潤の傷の様子を確かめようとした。それを手で制して峨鍈が言う。


「すぐに内城に戻って、人を呼んで来い」

「ですが……」


 甄燕が戸惑ったように蒼潤に視線を向ける。その視線を受けて蒼潤は、行くな、と首を微かに横に振った。


あるじを置いて行けません。それに阿葵様は黙って宮城を抜け出して来たのです」

「互斡郡王に知られたくないと言うことか」

「と言うよりも姉君の郡主様です。勝手に抜け出したことがバレたら、三日ほど祠堂に閉じ込められます」

「そうか。――では、ここの片付けは、わたしの配下にやらせよう。そこの門兵にも口止めが必要だな」

「内緒にしてくださるのですか?」


 甄燕が驚いた顔で峨鍈を見上げた。蒼潤も無言のまま峨鍈を見やった。

 彼は、ニヤリと二人に笑みを浮かべて言った。


「共犯を担ぐようで面白いではないか」


 峨鍈は懐から手巾を出すと、衣の上から蒼潤の傷口をきつく縛る。

 そして、三人は内城に戻ると、脇門からこっそりと宮城に忍び込み、馬を厩に戻すと、峨鍈のために用意された客室に向かった。

 峨鍈は己の配下に、外郭門の前に打ち捨ててきた死体の片付けを命じながら、蒼潤の体を客室の中に押し込む。


「傷の手当てをしたくとも、なぜ傷を負ったのだと聞かれては不味いでしょう。ここで手当てをしましょう」

「助かります。では、俺は湯を貰いに行ってきます」


 主を置いて行けないと言っていたくせに、甄燕は秘密の共有者として峨鍈のことをすっかり信頼してしまったらしい。

 あっさりと蒼潤から離れて、へやを出ていった。

 置き去りにされて蒼潤は不貞腐れたように床に胡座をかいて座ると、その正面に峨鍈がやって来て屈み込み、蒼潤の左肩から手巾を解く。


「出血は止まったようですね。傷口を見せてください」

「……はぁ?」


 峨鍈の手が蒼潤の襟に伸びてきて、蒼潤はギョッとする。

 妻ではない、それも未婚の少女の襟に手を伸ばして、いったい何をしようと言うのか!


(あり得ない!)


 身を捩って峨鍈の手から逃げて、室を見渡す。甄燕が出ていってしまったため、室の中で二人きりだ。

 自分の迂闊さに気付いて、蒼潤は腰を浮かせ、室から出ていこうとした。

 だが、再び峨鍈の手が伸ばされる。腕を引かれ、体を彼の腕の中に引き寄せられると、襟元を捕まれ、一瞬にして、肌が風に晒された。


「なっ!?」


 蒼潤は頭の中が真っ白になった。

 己の身にいったい何が起きたのか、すぐには分からなかったのだ。


「やっ」


 逃れようと藻掻く。手足を大きく振り回すと、手の甲が峨鍈の頬に当たり、小さな音を鳴らした。

 それでも彼の腕の中から逃れることはできなかった。

 峨鍈の大きな手が蒼潤の素肌に触れる。びくっと蒼潤の体が震えた。


「まだ幼いからなのか」


 膨らみのない胸に触れて彼は呟いた。











【メモ】

数え年…生まれた時が1歳。年が明けると、2歳。次の年の元旦に3歳。

 新年が明けると、みんな等しくひとつ歳を取る。

 実際に生まれた日は、誕生日として祝うが、誕生日に歳は増えない。


蒼潤の年齢…誕生日は秋。生まれた時が1歳。数か月後に年が明けて2歳。(実年齢0歳・生後数か月)

 数え年で2歳でも、次の秋が来るまで0歳なので、2歳分の差がある。誕生日を過ぎれば1歳差。

 峨鍈と出会った季節は春なので、数え年では14歳だが、実年齢は12歳。

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