15.大人しく抜け出す
「もしや、あのことが知られてしまったのでしょうか?」
「それは分からないわ。でも、潤ったら、厩で峨様と鉢合わせしたのでしょう? あの姿を見ているのだから、もしや、とは思うかもしれないわね」
「もしも秘密を暴かれてしまったら、どうなるのですか……?」
「潤に命はないわ」
「そんな!」
蒼麗は己の口を両手で押さえて不安げな瞳を蒼潤に向けた。
自分を深く心配してくれる妹の想いが伝わってきて居たたまれなくなり、その瞳から目を逸らすと、今度は蒼彰の厳しい目と目が合った。
「良いこと、しばらくはおとなしく部屋にいるのよ。峨様がお帰りになるまで、じっと耐えるの。それが貴方のためなのですからね」
蒼彰の勢いに押されるように蒼潤は黙って頷く。
自分の命がかかっていることくらい承知していた。今は、じっと耐えていることくらいしか道がないことも。
だから、耐えたのだ数日のうちは。
2日が過ぎ、3日目の昼ともなれば、我慢の限界に達していた。
澄んだ蒼い空が自分を呼んでいる気がして、蒼潤は私室の床にひっくり返って、ジタバタと両腕両足を振り回して暴れた。
(駆けたい)
涼しげな風が私室に迷い込んだ。まるで自分を外へと誘っているかのようだと思った。
そして気が付くと、蒼潤は外へと駆け出していた。
「燕、馬を曳け!」
褲に褶《丈の短い上衣》を身に着け、髪を頭の高い位置でひとつに括った蒼潤は私室から飛び出して、近くに控えているはずの少年に向かって声を張り上げた。
蒼潤の私室の前で座り込んでいた少年が、蒼潤の姿を見て、目を大きく開いてあんぐりと口を開いた。
少年は蒼潤よりも二つ年上の従者で、蒼彰の乳母の息子である。甄燕という。
凛とした涼しげな顔立ちをしていて、一見すると、蒼潤よりもよほど生まれが良さそうに見えた。
事実、甄家は互斡の地に古くから根ついていた豪族で、蒼昏が都を追われて互斡国にやって来た時に多大な援助をしている。
甄燕自身は甄家の分家筋の子だが、実家に戻れば『若様』と呼ばれる身分にあった。
「しばらくは、おとなしくしているのではなかったのですか?」
「おとなしく出掛けるんだ。狩りに行くぞ」
「……たぶん、それ、怒られますよ? 俺、郡主様にねちねち怒られるの、嫌です」
甄燕が単に『郡主様』と言ったら、大抵、蒼彰のことだ。
「バレなければ大丈夫だ。たとえ、バレても燕は巻き込まない」
「そんな莫迦な。絶対に巻き込まれます。嫌です」
むーっと子供っぽく蒼潤が頬を膨らませると、甄燕は呆れて物が言えないと肩を竦めた。
だが、思い返してみれば、蒼潤は二日間もおとなしくしていたのだ。耐えた方だろう。その頑張りに免じて、園林を少し散歩するくらいなら問題ないのではないか、そう甄燕は思い直して、園林の池の方へと蒼潤を促してきた。
「池? 俺は馬に乗りたいんだ! ――そうだ。狩りに行こう。客人のために兎を狩りに出かけたってことにしよう」
「――っていうことにしよう? 実際には狩らないんですか?」
「狩るよ。でも、客人のためじゃない。自分の享楽のためだ」
「でしょうね」
もはや引き留めることを断念した甄燕が後ろについて来るのを確かめて蒼潤は厩に向かった。
厩で二人の馬を下男に曳き出させると、弓矢を取りに向かった甄燕が戻ってくるのを待ってから、二人で馬の手綱を引いて門の外に出て行こうとする。
「どこかに、お出掛けだろうか?」
不意に声を掛けられて蒼潤は、びくんと肩を揺らした。振り向けば、峨鍈が共も連れずにひとり、蒼潤に向かって歩み寄って来る。
なぜこんなところに、と蒼潤は眉を顰めた。
蒼昏や蒼彰に見付かる面倒を避けて正門ではなく、脇門から宮城を抜け出そうとしているところだ。脇門は厩から近いため、その点でも好都合だった。
こんなところ、客人がうろうろするような場所ではない。
「これは峨殿。このようなところに何用だろうか?」
ずっと年下の少女に尊大な口調で話し掛けられたにも関わらず、峨鍈は気を悪くした様子を見せず、それどころか笑みさえ浮かべて答えた。
「阿葵殿の賑やかな声が聞こえたので、何事かとやって来ました。宴以来ですね。再びお会いしたいと思っていたのですよ」
甄燕が蒼潤を庇うように、峨鍈と蒼潤の間に立って、その背に蒼潤の姿を隠そうとしている。
しかし、峨鍈は甄燕の姿など見えていないかのように蒼潤に話しかけてきた。
「初めてお会いした時もそのような格好でしたので、宴の時のお姿には驚かされました。本当に郡主様だったのですね」
蒼潤は一刻も早くこの目の前の男を振り切って、外に出掛けたくて堪らなかった。話し掛けられている内容がちっとも耳に入ってこない。そもそも峨鍈の話には中身が無いように思えた。
イライラと手綱を握ると、蒼潤の馬が嘶き、数歩足踏みをした。
「どちらに行かれるのですか?」
馬の様子を一瞥して峨鍈が聞いた。
「狩りに」
「狩り? 阿葵殿は狩りを嗜まれるのですか?」
女のくせにと言われているようで蒼潤はムッとする。
「誰かと競って、負けたことはありません!」
「ほう。大した腕前をお持ちのようですね。是非、見せて頂きたい」
「ならば、共に来られるが良い」
阿葵様、と甄燕が窘めた。だが、蒼潤は片手を上げて、その声を制す。
「大丈夫だ」
「その言葉に根拠はありますまい」
「自信はある」
「自信? そんなもの、当てにはできません」
「大丈夫だ」
頭に血が上っていて断言するばかりで甄燕の言葉を聞かない蒼潤に、甄燕がため息を付く。
峨鍈が厩から馬を曳いてくるのを待って、共に出掛けることとなった。
宮城を出た後、大通りを南へと馬を歩かせて 外郭門を出る。城の外には青々とした草原が蒼い空の果てまでずっと続いていた。
仰げば、澄んだ空に白い雲が薄く流れていて、その雲の姿は、まるで翼を羽ばたかせる白い鳥のようだ。
風が蒼潤の背を軽く押して、足元の草花をくすぐりながら蒼潤を置き去りにしていく。
蒼潤はその一面の景色に吸い込まれるように馬を駆けさせた。思いっきり、馬が欲するままに。
しばらくして満足すると、蒼潤は馬の足を徐々にゆっくりなものにして甄燕が追って来るのを待つ。
「燕、弓を」
蒼潤が手を差し出すと、甄燕が背中に担いでいた弓と矢をその手に握らせた。蒼潤は再び馬を走らせる。
草原に目を凝らせば、小さな影が跳ねるように動いたのが見えた。
ビュッと矢が風を切る。
トスッと、小さな音を響かせて兎の腹を矢が貫いた。
「見事」
手を叩く音が聞こえて振り返ると、峨鍈がすぐ後ろまで追ってきていた。
蒼潤と峨鍈は馬を並べて、軽く流すように馬を歩かせる。
「弓の腕もさることながら、何と言っても馬の扱いが素晴らしい。人馬一体とはこのことかと感心致しました」
「5つの時から乗っていますから」
「ほう」
誉められて悪い気はしない。特に馬の扱いについて言われると、自然に口元が緩んでしまう。
乗馬には自信があった。
馬を駆けさせると、峨鍈の言う通り、その馬と一体化しているという実感が湧く。馬と共に旋風になった心地がするのだ。
峨鍈の目が細められる。更に何か言おうとする様子を見せたが、その前に蒼潤は彼から目を逸らした。
甄燕が、蒼潤に射られた兎を拾いに馬を走らせて、素早く馬から降りると、兎を拾い上げて高々と掲げた。
兎の体が小さくピクピクと痙攣しているのが見える。その小さな体から甄燕が矢を引き抜いて、首に短刀を滑らせ、とどめを刺した。
赤い血がボタボタと草原の青を染める様子を見つめていると、峨鍈の声が蒼潤の近くで響く。
「馬がお好きですか?」
蒼潤は、ぼんやりと眺めていた兎のちっぽけな命から目を逸らして峨鍈に振り向いた。
「ええ、好きです。馬が駆けている姿が好きです。駆けている時の蹄の音が好き。それから、馬の背に乗って、共に駆けることが何よりも好きです」
言葉を繕うことなく、普段から心の内にある想いをそのまま口にする。
――馬が好きだ。
馬は、幼い頃から蒼潤の心を惹きつけてやまない美しくて勇ましい生物である。
好きで、好きで、どうしようもなく好きで、一日中だってずっと眺めていられる最愛の生物なので、馬のことを考えるだけで、わくわくと気持ちが浮かれてしまったり、力強く走る姿に胸がキュンと、ときめいてしまったりする。
この時も蒼潤は、自分がいかに馬が好きなのか、どういうところが好きなのか、馬のことを考えて知らず知らず笑顔を浮かべていた。
自分が今、誰を相手に話しているのか、そんなこと、すっかり頭から抜け落ちている。
「時々、言葉が通じたと感じる時があります。彼らは目で語り掛けてくるんです。それから、私が落ち込んでいる時は慰めてくれる。馬って、一頭一頭、個性があって、すごい美人もいるし、正直、ブサイクだなぁっていうのもいて、でも、ブサイクなやつでも可愛くて、めちゃくちゃ甘ったれなやつがいるんです。逆に、矜持が高くて、最初ぜんぜん懐いてくれないやつがいて、だんだんこっちも腹が立ってきて、もう知らねぇって言ったら、急に鼻面を擦り付けて来て……、それが、すっげぇ可愛いの! だから、すっげぇ好きってなった! ――あっ」
両手で拳を握り、力説していたことに気が付いて、蒼潤は短く声を上げると、つと甄燕に視線を流した。
【メモ】
城…二重の壁で囲んだ都市のこと。
郭…都市の外側を防御する壁。外郭。その扉は、外郭門。
城…都市の中心の重要拠点を防御する壁。城壁。その扉は、城壁門。
内城…城壁の内側のこと。城の主の私的な宮殿が宮城。
宮城の南側で、官庁が集中する場所を王城(※)。宮城と王城(※)を合わせて、内城。
外城…城壁で囲んだ都市全体
※皇城、王城、郡城、県城……皇帝、王、郡の長官(太守)、県の長官(県令)が中心となって政務を行う宮殿。