14.智か勇か、そして、美か。
亜希の父親が研究の資料として持っている本の挿絵に、こんな感じの衣装を身に纏った女人の絵があったような気がする。
父親はそれを漢服だと言っていた。かつて漢民族が着用していた衣装のことだ。
「それって、なんのコスプレ? 髪型もすごいよ」
早苗は頭の上でおだんごを作り、余った髪を三つ編みにしてわっかをつくっている。
あれ? 早苗の髪って、こんなに長かったっけ? ふんわりボブヘアだった記憶が……。
「もう! いい加減になさいませ! 先程から、わけの分からないことばかりおっしゃって!」
「わけがワカランのは、あんたの方じゃんか! 変な格好しているし、変な服着せようとするし。勝手に私の部屋に上がり込んでるし!」
「私が阿葵様の私室に入ってはいけないんですか! では、他にどなたが阿葵様のお世話をするんですか!? 貴方のような、とっても、とぉーっても手の掛かる方のお世話ができるのは、私くらいなものです!」
ぴしゃりと雷に打たれたような衝撃があった。どうやら自分は非常に手が掛かる主らしい……。
とんでもないことを聞いてしまったと居心地が悪くなり、頭の後ろをガリガリと掻いた。
「ええっと……、いつも苦労ばかりかけて申し訳ない」
「いいえ」
ペコリと軽く頭を下げると、彼女は背を反らして鼻を高くした。
彼女は芳華だ。 早苗ではない。芳華は蒼潤の侍女である。
しかも、ただの侍女ではない。蒼潤の乳母の娘であり、幼い頃からずっと一緒に育った友のような存在だ。
先程、誰かと誤ってしまったようだが、蒼潤が彼女を見誤るなど、あるはずのないことだった。
(寝惚けていたのだろう。そうとしか考えられない)
もはや、いったい誰と芳華を間違えたのかさえ蒼潤は忘れてしまった。どこか目覚め切れていない心地で、芳華の手を借りて身支度を整え、片手に龍笛を持って私室を出た。
今、冱斡城には客人が来ている。
峨鍈という男だ。字は伯旋という。
峨鍈は自分たち姉妹の中から妻を娶るつもりでここまでやって来たが、父――蒼昏は、どうにかこの話を断りたいと考えている。だが、容易には断ることができない理由があった。
父は、峨鍈の祖父から恩を受けたことがあるからだ。
蒼潤が回廊を進むと、宴が催されている宴室の前で蒼彰と蒼麗が廊下に座して控えていた。
「姉上」
蒼潤は龍笛を腰帯に挟むと、蒼彰の隣に座す。ちらりと蒼彰が蒼潤に視線を向けて言った。
「潤は、けして目立ってはなりません」
蒼彰は綺麗に眉を描き、唇に紅を差している。萌黄色の裙に、常盤色の深衣と青磁色の深衣を重ねて纏っている。髪は横髪を頭の後ろでまとめて結い、山吹の花を模した簪を挿していた。
「誰かが嫁がねばならぬのなら、私か麗が嫁ぐのです」
蒼潤は思わず妹に振り向いた。妹の蒼麗は今年12歳の幼い少女だ。それなのに、蒼彰と同じように眉を描き、唇に紅を差している。
茜色の裙に、菖蒲色の深衣と薄紅色の深衣を重ねて纏い、二つに分けて三つ編みにした髪を頭の左右でおだんごにしている。まっすぐに切り揃えた前髪が可愛らしかった。
蒼潤も宴の席なので、いつもの男童のような格好で客人の目に触れるわけにはいかず、紺藍色の裙に、天色の深衣と白縹色の深衣を重ねて纏っている。髪は二つに分け、三つ編みを編んで『8』の字によじって左右の耳の近くで纏めて紐で括っていた。
眉を描き、紅を差して、まあまあ見られる顔になっていると思う。
宴室の中から蒼昏と峨鍈の声が交互に聞こえて来る。まず蒼昏が峨鍈を見定めて、娘を嫁がせても良いと判断したのなら、三人を宴室の中に呼び入れるという算段だ。
三姉妹は息を潜めて宴室の様子を窺い、蒼昏からの合図を待った。
「姉上か麗が、あの男に嫁ぐことに利はあるのでしょうか?」
「あの男の財力と軍事力が手に入ります。あの女が死んだ今、私たちには力が必要です」
あの女、と蒼彰が瞳に憎しみを宿して呼んだのは、恙太后のことだ。
蒼昏が廃位した後に皇太子となり、胡帝の後に玉座に着いた礎帝の生母である。胡帝の貴人だった彼女には蒼家の血は流れていない。
そのため、蒼家に流れる血の真実を知る者は、礎帝を陰でこう言った。
――龍ではない。本物の龍は、渕州冱斡国にいる。
蒼昏こそが玉座に座るべきだと囁く者は、恙太后がいくら排除しようとしても絶えることがなかった。
――恙太后が死んだ。
長らく蒼昏一家の命を脅かしていた女が死んだ今、蒼昏には立つべき時がやってきたのだ。
だけど、と蒼潤は昨日ひと足早く出会ってしまい、わずかながら言葉を交わした峨鍈のことを思い浮かべた。
(あの男は、父上に使われる駒になり得るだろうか)
父よりもずっと強い覇気を纏った男だった。
男の堂々とした立ち姿や低く落ち着いた声を思い出して、蒼潤の胸がざわつく。
聞いた話によると、渕州互斡国は男にとって敵陣にも等しい土地なのだという。そんなところに、僅かな手勢だけで潜んできたのだから、よほど肝が据わっているのだろう。
そんな男が、他の誰かの下につく男だとは思えなかった。
(それに父上は……)
蒼潤が物思いにふけていると、宴室の中から蒼昏の声が響いて、引き分け戸がゆっくりと開かれる。蒼彰、蒼麗が流れるような優美な動作で頭を下げたので、慌てて蒼潤も室の中に向かって頭を下げた。
蒼昏が三人の娘たちの名を順に告げて、峨鍈に紹介する。
「この通り、わたしの娘たちはまだ幼く、峨殿の目に敵う娘がおるかどうか……」
蒼昏は娘たちを室の中に入れたものの、未だ峨鍈という人物を計りかねているようだった。ひどく消極的に、娘たちの幼さを強調している。
事実、三姉妹は幼く、一番年上の蒼彰でさえ16歳だ。昨年、笄礼を行ったばかりである。
一方、峨鍈は37歳の男盛りである。たとえ今、蒼昏の娘を妻に迎えたとしても、夫婦の契りを結ぶには数年待たねばならない。待つ意思があるか否かも重要なところだ。
「郡王殿下の郡主たちは、それぞれ、智と勇、そして、美に優れているとお聞きしました。こうしてお目に掛かり、なるほど、三人とも素晴らしい郡主たちですね」
にこやかに笑みを浮かべた峨鍈を、蒼潤はそっと窺い見て、胡散臭いと顔を顰めた。
どうやら父は峨鍈という人物を婿として見込んだわけではなく、押し切られて、娘たちを室の中に招き入れるしかなくなったようだ。
蒼彰が父親と目配せを交わし、琵琶を抱き抱えるように手に取ったのを見て、蒼潤は腰帯から龍笛を引き抜く。
ことりと小さく音を立てて蒼麗が自分の体の正面に琴を置いて、ぽろんと弦を指先で弾いた。
「お耳汚しでしょうが、娘たちの演奏を聞いてやってください」
蒼昏の言葉を合図に三人はそれぞれの楽器を奏で始めた。
そして、一曲奏で終えると、引き分け戸が左右からゆっくりと閉められる。三人は自分たちの出番を終えたことに胸を撫でおろすと、再び廊下で息を潜めて宴室の声に耳を澄ませた。
「長女の彰は幼い頃から利発で、時に周囲の大人が舌を巻くようなことを申します。物事をよく見通しているので、わたしなどは彰に相談することが多いのですよ。三女の麗はあの通りの美しさです。まだ幼いですが、あのようにはっきりとした顔立ちをしています。あと数年もすれば、息を呑むような美女に成長することでしょう」
「そうですね」
「智、勇、美。――峨殿はどれをお好みですか?」
思案しているのか、妙な沈黙があった。
峨鍈が答えないまま蒼昏が言葉を重ねる。
「歳を考えれば、彰がよろしいのでは? すぐにでも婚礼を挙げられます。お待ちくださるのなら、麗が良いでしょう」
「――では、阿葵殿は?」
「潤でございますか!?」
蒼昏の声が裏返る。父親のその不自然なほどの反応に、三姉妹は揃って顔を顰めた。
頼りない父親をもどかしく思って、三人はそれぞれ、ぐっと拳を握る。
「潤はどうにも……。峨殿は昨日、厩であの娘と会われたそうですが、あの通り、あの娘は嗜みがなく、とても嫁がせられません」
「そうであろうか? なかなかの笛の音でありましたが」
「いいえ! とんでもない! かろうじて笛は何とかなっていますが、他の楽器は非道いものです。琵琶も琴も……。ああ、琴など平気で踏みつけるような娘でございます。裁縫よりも武芸を好み、絹や玉よりも馬を好む娘なのです!」
「そのようですね」
峨鍈は昨日の一件を思い出したのだろう。くくくっと笑い声を立てた。
蒼潤は姉妹の顔を順に見やり、肩を竦める。
「あそこまで言う?」
「真実でしょう? --それより、潤。峨様に幼名を教えたの?」
「いや、教えていない。きっと、みんなが呼んでいるのを聞いていたんだろ。勝手に呼びやがって馴れ馴れしい」
阿葵とは、蒼潤の幼名だ。
家族は『潤』と名で呼ぶが、それ以外の親しい者たちは『阿葵』と呼ぶ。
親しくなければ『君主』だ。『深江郡主』という称号も持っているが、面と向かって称号で呼んでくる者は、互斡国には滅多にいない。『二番目の郡主』、含みを持って『あの郡主』と言えば、蒼潤のことである。
「お父様は言い方を誤ったわね。峨様は潤に興味を持たれてしまったわ」
「姉上、それはどういうことですか?」
ぽつりと零すように言った蒼彰に蒼麗が問いを返すと、蒼彰は人差し指を立てた。
「私と麗に関しては大いに褒めて薦めておいて、潤だけは貶して渋る。どう考えても可笑しいでしょう? これは何かあるなと考えるのが普通ね」
【メモ】
笄礼…女の子が15歳の誕生日に行う。髪結い式。
洗髪して、髪を結って簪を挿す。これを行って、成人したと見なす。
字もこの頃に貰える。
宴室…宴を催す部屋。引き分け戸。
引き分け戸…左右に開く戸。後漢時代には、たぶん、ない。