12.本好きの戯言
「仮入部に来たヤツらには、いかにもラクできそうな部活だと思わせるんだよ」
「じゃねぇーと、誰も入って来ねぇからな」
どちらも見上げるほど背が高いが、人当たりが柔らかそうな方が笠原で、口が悪いのが嶋根だと亜希は覚える。
彼らに向かって、亜希は頭を下げた。
「そうとは知らず生意気なことを言って、すみませんでした」
「いや、やる気があって嬉しいよ。亜希ちゃん、入部してくれるかな?」
たぶんここは即答すべきところだ。離れたところから優紀の視線をひしひしと感じる。
姉同伴で練習に参加して、やっぱり入部しませんなんて言えば、なんなんだって話になる。それに、厳しい練習に怖じ気づいたと思われたら癪だ。
そう思うものの、亜希はなかなか答えられずにいた。
走るのは楽しい。
厳しい練習も、足が速くなるためなら、きっと耐えられる。
だけど、何かが違うと、今日はっきりと分かった。満たされない何かが違うと亜希に訴えてくる。
「練習に参加させて貰えて、すごく楽しかったです。ありがとうございました」
でも、と言いかけて亜希は唇を固く結ぶ。結局、亜希は、入部するともしないとも高野に告げられないまま部活動を終えた。
亜希が制服に着替えている間に、優紀は先に帰ってしまったらしい。おそらく高野と一緒に下校したのだ。
ちぇっと不貞腐れた気分になりながら、亜希は図書室に向かう。図書室が閉まる時刻まで、あと3分。走れば間に合うかもしれない。
校舎の中を駆け抜けて、階段を一気に駆け上る。
ガラリと大きく扉を引き開けると、カウンターの中で浦部が驚いたように亜希に振り向いた。
「あら、亜希ちゃん。ギリギリセーフね。2巻を借りに来たの?」
はい、と答えて亜希は乱れた呼吸を整える。図書室の中を見渡せば、すでに他の利用者は下校した後だった。早苗の姿も見当たらない。
亜希の視線に気付いて、浦部が唇を横に引きながら言った。
「早苗ちゃんは、5分くらい前に帰ったわよ。そうそう、借りた本の返却を人に任せたらダメよ。自分でちゃんと返しに来なきゃ」
「ごめんなさい。今日は部活の練習に参加してて」
「何部なの?」
「陸上部です。でも、まだちゃんと入ったわけじゃなくて仮入部で……。たぶん、入らないと思います」
「あら、そうなの? どうして?」
「もっと他にやりたいことがあるような気がして……。それが何かまだ分からないですけど」
「そうなの……。そういう時は、とりあえず、本を読みましょ」
図書カードを出して、と浦部は亜希に向かって手を差し出した。亜希は生徒手帳を胸ポケットから取り出すと、その中に挟み込んでいた図書カードを出して浦部に手渡す。
「本を読むとね、本の登場人物たちもいろんなことで悩んでいるなぁって知ることができるの。悩んで、悩んで、立ち向かって、物語が終わる頃にはその悩みに打ち勝っているのよ。本を読むとね、私も頑張らなきゃって思うのよ。本の登場人物たちみたいに悩みに向き合って、ちゃんと戦わないと、って」
「本が好きなんですね」
早苗みたいなことを言うなぁと思って、亜希は小さく微笑む。
「亜希ちゃんは、本を読むのは苦手なのよね? それなのに、この本を読んでくれてありがとう」
浦部は『蒼天の果てで君を待つ』の2巻の貸し出し手続きを終えて、図書カードを添えて本を亜希に差し出した。
「本を読んでいるとね、主人公の気持ちに寄り添って、その主人公の生き方を擬似体験しているような気持ちになれるのよ。たくさん本を読めば読むほど、たくさんの人生を経験したような気持ちになれて--。もしかしたら、その経験の中に亜希ちゃんが求める答えがあるかもしれないわ」
「本の中に答えが書いてあるかもしれないってことですか?」
亜希は図書カードを仕舞うと、本を手に取って、そのずっしりとした重さを感じながら鞄の中に入れた。
浦部の話は、正直、本好きの戯言程度にしか聞いていなかった。本なんかに答えが書いたあるなんて思えなかったからだ。
それでも亜希は『蒼天の果てで君を待つ』を読むだろう。乗りかかった船のようなもんだ。血筋コンプレックスの峨鍈の生き様を見届けてやろうではないか。
「また来ます」
「ええ、待ってるわ」
下校を促す放送が校舎に響き渡り、亜希は、さようならと言って図書室を出た。
△▼
玄関を開けると、黒光りする見慣れぬ靴が目に入って、嫌な予感がした。
(誰が来てる)
来客だと思って、もう一度、玄関の外に出ようとしたが、その前に妹の美貴が二階から軽い音を立てて階段を下りてきた。
「亜希ちゃん、おかえり」
美貴はそのままリビングに入ろうとドアノブに手を伸ばしたが、ふと亜希の方に振り向いて顔を顰めた。
「靴下、汚い」
亜希が運動靴を脱ぎ捨てて玄関を上がる様子を目撃して、信じられないという眼差しを放ちながら美貴は抑揚のない声で適格に助言をくれる。
「そこで脱いだ方がいいよ。汚い靴下でウロウロすると、お母さんに絶対怒られるから。あと、亜希ちゃんはそのまま自分の部屋に行った方が良いよ。日岡さんが来てるから」
「え、また?」
亜希は眉根を寄せた。日岡といえば、一昨日の日曜日に来たばかりだ。
また来てくださいねと確かに亜希の家族は言った。だからと言って、本当に来るとは。しかも、ほとんど間を開けずにやって来るなんて、ちょっと普通じゃない。
亜希は美貴の言う通りに階段を上って二階に逃げることにした。日岡には泣き顔を見られているので、顔を合わせるのは気まずい。読んでいる本の著者だと思えば、さらに気まずい。
だって、『蒼天の果てで君を待つ』を読んでいると、まるで日岡の頭の中を見せられているような気持ちになるからだ。
両腕で鞄を抱き抱え、階段を数段上がった時だった。ガチャリと、嫌な音が響いた。
「亜希、帰ってきたんじゃないの?」
リビングの扉が開いて母親が顔を覗かせる。亜希はうっかり足を止めて振り向いてしまった。
「やっぱり帰ってきてるじゃないの。ただいまくらい言いなさいよ」
「ただいま」
「おかえり。――やだっ、靴下が汚い! 真っ黒! すぐに脱いで。ああっ、その靴下で、あちこち歩かないで!」
「亜希、こちらに来なさい」
今度は父親が出てきて亜希を手招く。
靴下を脱ごうとしていた亜希はその手を止めて、何? と父に視線を向けた。
「日岡さんがお前と話をしたいそうだ」
「えっ、話?」
(――ちっ。しくじった。すぐに二階に逃げておけば良かった!)
母親の声に足を止めてしまったことを後悔しながら亜希は学生鞄を美貴に押し付け、父親に従ってリビングに足を踏み入れると、視線を巡らせる。すぐに、ソファに腰掛けた日岡の姿が目に映った。
日曜日に来た時とは異なり、スーツをびしっと着込んで、会社帰りのサラリーマンといった格好をしている。
日岡は亜希と視線が合うと、柔らかく微笑んで言った。
「こんばんは。制服、スカートじゃないんだね」
亜希がスラックスを穿いているのを見て言っているのだ。
「髪も男の子のように短いよね。お姉さんみたいに長く伸ばさないの? せっかく女の子に生まれたのに、可愛い服を着たりしたくないの?」
「……」
なんなんだろう! 亜希は日岡が言葉を放つたびにイライラとしてきた。
髪が短くて何が悪い? スカートを穿いていないのは悪なのか?
せっかく女の子に生まれた? はぁ⁉ こちとら生まれたくて女に生まれたわけじゃない!
亜希の胸に苦々しい記憶が蘇る。
脳裏に浮かんだ祖父の手。鮮やかに蘇ったその手の記憶と共に、悔しさが苛立ちと共に押し寄せて来る。
胸ぐらを掴んで殴ってやりたい。そう思って日岡を睨み付けながらローテーブルを挟んで日岡の正面に移動すると、ソファに腰を下ろした。隣に亜希の父親も腰掛ける。
リビングの入口では美貴が亜希に押し付けられた鞄を抱えて、むっと顔を顰めて、それから踵を返すと、亜希の鞄を持って二階に上がって行った。亜希の部屋まで運んでくれるらしい。なんだかんだ言っていても、優しい妹だ。
亜希は日岡に視線を戻した。
「私に話があると聞きました」
「ああ、そうなんだ。今日は亜希ちゃんに会いに来たんだよ」
日岡は亜希を見つめて、にっこりとする。
「ぼくの本を読んでくれているんだってね。是非、感想を聞かせて貰いたいな」
「感想?」
思いがけないことを言われて、亜希は戸惑う。
だけど考えてみれば、著者が自分の本の読者に感想を聞きたいと思うのは自然なことなのかもしれない。そう思い直して、亜希はしゃんと背筋を伸ばした。
「まだ全巻読んだわけじゃないです」
「どこまで読んでくれたのかな?」
「峨鍈が瓊倶を盟主にした反呈夙連盟を結束して、呈夙軍と戦うんだけど、呈夙の配下にめちゃくちゃ強いやつがいて――晤貘っていうやつ――そいつに大敗して、琲州の霖国に引き籠もっているところです」
「1巻の終わりの方だね」
「はい。1巻を読み終えたところで、今日2巻を借りて来たところなんです。――あっ、すみません。本は購入しているわけではなくて、学校の図書室で借りているんです」
タダ読みしているようなものなので、著者の前ではひどく居心地が悪い。
日岡は片手を軽く振って笑った。
「いいんだよ。あの本は自費出版した本だから、冊数も少なく、流通もしていないんだ。普通には手に入らないはずだよ」
「そうなんですか」
どうりで早苗が続きを読みたいとあちらこちら捜し回っても見付からなかったわけだ。
【メモ】
浦部 律子
亜希が通う中学校の司書教諭。
大学を卒業したばかりに見える、落ち着いた雰囲気の美人。
しかし、その実は、かなりのミーハーで、早苗と気が合う。
『蒼天の果てで君を待つ』をお薦めコーナーに並べている。