11.陸上部の練習に参加してみた
「今から陸上部に行くの? 私も陸上部に入ろうかなぁ。太りたくないから、どこか運動部に入りたいんだけど、別にやりたいことないし。亜希と一緒だと、なんか面白そう」
――面白そう?
言い方に若干の含みを感じながら亜希は志保に振り向く。
「私も志保と一緒なら楽しそうだと思うけど、でも、まだ陸上部に入るとは決めてないよ?」
「えっ、そうなの?」
「うん。ずっと陸上部しかないって思ってたけど、……迷ってる」
漠然とした迷いが、もっと他に何かがあるのではないかと、亜希の耳元で囁きかけてくるのだ。
「亜希が迷っている姿、初めて見た。何をどう迷っているの? 走るの、嫌になった?」
「なってないよ。走るのは好き。風になったみたいで気持ちいいからね。でも、なんか違うんじゃないかって気がして。もっと他にやりたいことがあるんじゃないか、って」
自分でも、取り留めのないことを口にしているなぁと思う。だから、きっと志保には亜希の胸のモヤモヤは伝わらないだろう。
帰り仕度を終えた早苗が亜希に視線を向けてきたので、亜希は早苗に話を振った。
「早苗は部活どうするの?」
「私はどこにも入らないわ。まして陸上部はないわね。知ってるでしょ? 私が運動ダメダメなの。放課後は図書室に通うことにするわ。一冊でも、一行でも、一文字でも多く読みたいのから」
志保は、やれやれと肩を竦めた。
「中毒だね。活字中毒」
「けど、1人で図書室に行けるようになったの?」
「うん、大丈夫。市川君も放課後は図書室にいるから」
「市川って……、あの市川?」
「志保、知ってるの?」
驚いたような声を上げた志保に、亜希は意外そうな表情を浮かべる。
図書館仲間だという早苗は別として、小学校6年間ずっと亜希と同じクラスだった志保が市川を知っているとは、どういうことだろうか。
だが、亜希はすぐに思い直す。志保は意外と情報通だ。いつだって、どこからか噂話を仕入れてくる。
「亜希、知らない? あいつ有名だよ」
「そうだよ、市川君は天才なんだよ!」
「天才?」
些かオーバーな響きに感じて首を傾げると、早苗が瞳を輝かせ、両手を組んで説明してくれる。
「市川君って、すっごく頭がイイの! 大学受験で出るような問題もスラスラ解いちゃうんだよ!」
「それほんと? 本当にそんなに頭がいいのなら、なんで私立受験しなかったの? 公立じゃなくて、私立の中学に行けば良かったのに」
「えーっと、それは分からないけど……」
「それに学校の勉強ができるくらいじゃあ天才とは言えないかな。うちの姉ちゃんも勉強はできるし。そしたら、姉ちゃんも天才っていうことになっちゃうじゃん」
実際、姉の優紀は学校で『才女』とか言われているけど、それは別の話なので置いておく。
大学受験の問題を解けるということは、中1で高3までの勉強が完璧ということだ。確かにすごい。
すごいとは思うけれど、それは人よりも勉強が進んでいるというだけのことなので、天才というほどのことではないと思うのだ。だって、何年かすれば、他の誰かだって解けるようになるかもしれない。
本物の天才は、けして常人には追い付けない場所にいるべきだ。
そう思っていると、亜希の表情を読んだ志保が人差し指を立てて左右に振った。
「市川が有名なのは、あいつの頭が良いからってだけじゃないんだ。--あいつ、小さい頃に誘拐されたんだ」
「は? 誘拐⁉」
予想もしていなかった言葉に亜希は大きな声を出す。天才の話から急に誘拐の話になってしまい、一瞬、聞き間違えたかと思ってしまった。
志保は心なしか声のトーンを下げて続けた。
「なんでも、小学校に上がる直前に誘拐されて、丸一日、行方不明だったらしい」
「だから、市川君、小学校の入学式に出られなかったんだよ。可哀想だよね。しかもね、誘拐犯、捕まっていないんだよ。怖いよね」
志保が醸し出したシリアスな雰囲気は、瞬時に早苗の軽い口調で台無しになる。
しかも早苗は、さらりと恐ろしいことを口にする。
「よく無事だったよね。誘拐って、大抵、殺されちゃうのに」
「だから、誘拐じゃなくて家出なんじゃないかって話もあったんだ。ただの迷子説もあった気がする」
「は? 迷子? 誘拐か家出か迷子か、本人に聞けばいいじゃん」
「それが、覚えてないらしいの」
「覚えてない?」
「その24時間分の記憶がないんだって」
「えー、そんなことある?」
「よほどショックだったのね」
可哀想な市川君、と早苗は目をうるうるさせた。
そういうわけで、いろいろと有名なんだ、と志保は市川のことをそう結論付けて話を終える。
亜希は図書室で少しだけ話した市川のことを思い出した。
「――まあ、悪いヤツではなさそうだよね。友達少なそうだけど」
「うん。市川君は、いつもひとりで本を読んでいるイメージだよ。でも、案外、私と読む本が同じで、話してみると気さくなんだよ」
「そう言えば……」
亜希は、ふと思い出して鞄の中から本を取り出した。
「市川と言えば、1巻読み終わったよ。次は市川が借りるんでしょ? 渡しておいてくれる?」
廊下で待たせている優紀がそろそろ怒鳴り込んできそうだ。少し待っててと言っておきながら、かなり待たせている。
陸上部の練習に行くので自分の代わりに本の返却を頼みたいと早苗に言うと、早苗はその本を一度受け取ってから、志保の方に差し出した。
「志保も読まない? 市川君ね、先に3巻を読み始めちゃったの。1巻はいつでもいいんだって」
「えー、どうしよう。結構分厚いね、その本。……本当に面白いの?」
最後の言葉は亜希に振り向きながら志保は言う。早苗に尋ねれば、面白いと即答するだろうことは、尋ねる前から分かっているからだ。
亜希は、うーんと大きく首を傾げながら答えた。
「世界観とか、言葉がちょっと難しいけど、まあ、読めるかな。いろいろと納得できないこともあるけど、まあまあ読めるかな。馬、出て来るし」
「馬……。えっ、競馬の話なの?」
「ぜんぜん違う! 競馬関係ないからっ! 亜希、変なこと言わないでよ! ひどい!」
「あははは!」
奥義『笑って誤魔化す』を発動させた亜希にちらりと視線を向けて志保は頷いた。
「わかった。ちょっと読んでみるよ」
早苗と亜希が近頃『蒼天の果てで君を待つ』の話をよくしているので、話題に入って行けないのが志保には少し寂しかったようだ。
亜希同様、志保も読書は得意な方ではないが、読んでみると決めた志保は早苗と共に図書室に向かう。
二人の背中を見送ってから、亜希は鞄を肩に担いで教室を出ると、廊下の壁に背中を預けて待っていた優紀のもとに駆け寄った。
更衣室で体操着に着替えてから校庭に出ると、陸上部員たちが集まっている場所に優紀と共に向かう。優紀は妹の付添いという態で練習を見学するのだという。
高野に迎えられ、大半の部員からは友好的に接して貰えたが、女子部員の一部からは冷ややかな視線とトゲトゲしい言葉を浴びせられた。
なんでだろうかと考えてみれば、たぶん優紀のせいだ。
優紀が高野と付き合い始めたらしいという噂があるため、高野ファンの女子は面白くないのだろう。当然、優紀の妹に対して当たりが強くなるというものだ。
「ラスト、100を10本!」
それは100メートルを10回走るという意味なのだが、ラストと言いながら10回の意味が分からない。ラストと言ったら1回だろうと、亜希は内心憤慨した。
ぽたりと亜希の額から頬へ、頬から顎に流れて落ちた汗が、じわっと地面に染み入っていった。
肩を上下させ、荒く呼吸を繰り返しながら亜希は両手で両膝を押さえて前屈みの姿勢になる。ピッと笛の音が響いたので、笛を口に咥えた高野の横顔を仰ぎ見た。
練習を始めてから2時間が経っている。軽いランニングから始まって、スタートダッシュの練習や太腿を高く上げて走る練習。ダッシュしたり流したりを繰り返して走ったり、短距離を続けて何本も走ったりしている。
それなのに、高野の表情からは、ほとんど疲れが見えなかった。
これが敗因かと思った。体力に差がありすぎる。
つい最近まで小学生だった亜希は50メートルを過ぎたあたりで失速してしまう。小学生の短距離走は50メートル、長くて100メートルだからだ。200メートルは小学生にとって中距離だ。
対して、高野は200メートルを全力疾走できるのだという。200メートルなど短距離だと涼しげに笑うのだ。 その笑顔がなんとも悔しい!
実際、高野の言う通りで、短距離とは400メートルまでの距離をいう。
800メートルや1500メートルを中距離、3000メートル以上は長距離である。
(勝てないわけだ)
亜希はようやく自分の敗北を心から受け入れられたような気がした。すると、心がすっきりと軽くなる。ずっと両腕に抱えていた重たい荷物を手放すことができたような、そんな気分だった。
笛が鳴る。コースに並んだ二人がスタートを切った。
列の最後に並んでいた亜希の番が来た。笛の音で駆け始めるが、足が思うように上がらない。
縺れて、体の軸が大きく揺れてしまう。
(そっか)
もっと速く、もっとたくさん走れるはずだと思っていたのだけど、そうではないと分かって、むしろ亜希の心は晴れやかだった。
「――どうだ? 久坂の妹。……あれ、弟? いや、妹か」
「もう『亜希』でいいです」
「亜希……ちゃん…」
にっこりして高野は亜希の名前を『ちゃん』付けして呼んだ。
「俺たち、ちゃんと練習してただろ?」
高野の隣には笠原と嶋根という二人の少年が並んで立っている。
他にも多くの取り巻き達がいるのだが、この二人とは特別仲が良いらしい。 どちらも高野と同じ三年生だが、大人かと思うほどガッシリとした体格をしている。筋肉の付き方が中学生とはとても思えない。
【メモ】
高野 俊弘
中3。陸上部。優紀とは別のクラス。天性の人たらし。
スポーツ万能で、頭も良く、その上、性格も良い。
格好良いと評判だが、その顔の造形は美形と言うほどではなく、むしろ平凡。
これから伸びるのかもしれないが、身長もさほど高い方ではない。
清潔感があって、とにかく、よく笑う。活発で明るく、誰とでも気さくに話す。