10.妹には言わない
「亜希、おはよう」
教室に足を踏み入れようとしたとたん、名を呼ばれて振り向くと、志保が下駄箱の方から歩いて来る姿が見えた。彼女を待って並んで教室に入る。
「おはよう」
「どうしたの? 腰が痛いの?」
「うん、ベッドから落ちた」
「はははっ。またか」
「それに、変な夢を見てさ。めちゃくちゃリアルな夢で、男が出て来るんだけど、そいつが……っ」
「男? そいつが?」
妙なところで言葉を切った亜希に志保は怪訝顔を向ける。亜希は拳を握って胸に押し当てた。
夢に出て来た男のことを思い出そうとすると、胸がドキドキと騒いで息苦しくなる。深く息を吐いて吸って、志保の顔を見やると、言葉の続きを吐き出した。
「そいつが、すっごい偉そうで、思い出したらムカついてきた!」
「は?」
溜めに溜めて言った言葉がそれか、という表情をして志保は肩を竦める。
「そうそう、聞いたよ。亜希さ、陸上部に入るんだって?」
亜希の夢の話などまったく興味がないらしく、志保がスパッと切るように話を変えてきたので、亜希は頭の中から夢の男を追い払って、志保に聞き返した。
「誰に聞いたの?」
「誰って……。あちこちで噂になってるよ。姉同伴で謝って陸上部への入部が許可されたこと」
「えっ、うそ! そんなに知れ渡っているの!? ――っていうか、私、入部許可されたんだ? 知らなかった!」
「なんだ、それ。知らなかったとか、意味わからん」
志保は呆れたように苦笑すると、続けて言った。
「高野先輩、人気者だからね。すぐに噂になるよ。あと、あんたのお姉さん、高野先輩と付き合うんだって?」
「はあ⁉」
思わず動きを止め、亜希は体ごと志保に振り返った。よほどすごい顔をしていたのだろう、志保が目を見張って亜希を見やる。
「あれ? 違うの? さっき上級生たちが話しているのを聞いたんだけど?」
「知らないよっ! 私、聞いてない!」
亜希の大声が教室に響き、クラスメイトたちが一斉に亜希の方に振り向いた。亜希と志保の会話から、高野の話をしていると気が付いた彼らが固唾を呑んで二人の声に耳を澄ませている気配がした。
亜希は親指の爪を前歯にカツカツと当てる。
そりゃあ、確かに姉の方は高野に好意を抱いている様子だった。だけど、高野は誰に対しても微笑むし、みんな平等に優しい。優紀のことを特別に想っているようには見えなかった。
「お姉さんから何も聞いてない?」
「聞いてない! だぶん、それ、デマだよ!」
「妹には言わないものかもね」
「言うよ。言うでしょ! 妹だよ? だから、デマだ!」
「さあね」
志保が両手を広げて、肩を竦めた。
「亜希って、何だかんだ言って、お姉さんっ子だもんね。あんたがケンカすると、いつもお姉さんが出てきてさ。先生に怒られた時だって、お姉さんが一緒に謝りに行ってくれてたし。小6の時の授業参観、お姉さんが来てなかった?」
「お母さんが仕事で来れなかったからね! ――っていうか、うちの姉ちゃんを妹想いの優しいお姉さんみたいに言わないでくれる? あの人の本性はね。妹を道具としてしか見ない非情なヤツなんだからっ!」
「いや、普通のお姉さんは、妹の授業参観に来ないからね」
「うちの姉ちゃんが普通じゃないことは認める。だけど、けして妹想いではないのだ! そこ、大事!」
大声を響かせて、はっきりと告げると、肩で大きく上下させて荒い呼吸を繰り返す。
「えっ、何々? 朝から大声出して。どうかしたの?」
おはよう、と背中から声を掛けられて振り返ると、早苗が教室に入ってきたところだった。
早苗は自分の席に荷物を置いて、すぐに亜希と志保のもとにやってくる。
「早苗、おはよう。 亜希のお姉さん、高野先輩と付き合うらしいよ」
「えっ、それ本当!?」
「さあ、亜希は違うって言ってるけど?」
「どういうことなの?」
怪訝な顔をする早苗に、志保は肩を竦める。
じっと二人から視線を向けられて、亜希は昨日のことを話さざる得なくなる。つまり、姉の優紀に、高野に近付くためのダシにされたことだ。
「昨日の放課後、姉ちゃんに3年生の教室に連行されたじゃん? んで、高野先輩の前で姉ちゃんに頭を押さえつけられて、姉ちゃんが高野先輩に、妹を入部させてあげて、と言ったんだ」
「うん、いつも通りな展開だよね。亜希の不始末をお姉さんが尻ぬぐいするという」
「その後、私は早苗と図書館に行く約束をしていたから、1年の教室に戻ったんだけど、たぶん姉ちゃんは、その後も高野先輩と話していたと思う」
「そこで告白したのね!」
「……」
亜希の口から言葉が出てこなくなると、早苗は手を叩いた。
「なんか蒼潤と蒼彰みたい!」
「は?」
本を読んでいない志保にはサッパリの単語だったが、亜希にはすぐに『蒼天の果てで君を待つ』の話だと分かった。
蒼潤も蒼彰も本の登場人物なのだと志保に説明すると、志保は自分の分からない話だと口を閉ざして、自分の席に座った。
亜希の席は志保の席の斜め後ろなので、亜希も早苗を連れて自分の席に移動する。
「どのへんが似てるって?」
鞄を机の横に掛けて椅子に座ると、亜希は早苗を見上げるようにして訊いた。早苗は亜希の席の前の席の椅子を引いて腰を下ろす。
その席の主は、教室の後ろの方で友人とおしゃべりをしている。担任が教室にやってくるまで、早苗が席を占領していても大丈夫そうだ。
「蒼彰は蒼潤のことをすごく可愛がっていて、蒼潤が何か問題を起こす度に蒼彰が出てきて、万事丸く収めていたの」
「へー、すごく可愛がって……ねえ…?」
似てないじゃん! と思わず、声を荒げて立ち上がった。
だが、すぐに斜め前から志保に宥められる。どうどうと、まるで馬のように声を掛けられて亜希は再び椅子に座った。
「――それで?」
「蒼彰は蒼邦という男に惚れ込むんだけど、蒼潤は彼が気に入らないの。同じ蒼姓を名乗っているけれど、得体が知れない奴だって。思い浮かぶ限りの蒼邦の欠点を上げて、猛反対するのよ」
「その蒼潤ってやつ、シスコンじゃん」
「そう! そうなのよ‼」
よくぞ言ってくれたとばかりに早苗は腰を浮かせて腕を伸ばすと、志保の手を両手でガシッと掴む。
「幼い頃から、姉上、姉上ってカンジだったんだけど、峨鍈に嫁いだ後も月に一度は手紙を出してたの。姉上、春がやって来ました。お元気ですか? 姉上、困ったことが起きました。兵糧が足りません。どうにかしてください。姉上、峨鍈が腹立たしいです。こんなことがありました――って、蒼潤は蒼彰に何でも話しちゃうし、蒼彰は蒼潤のためなら峨鍈に文句の手紙まで書いちゃうような人だったわけ」
近ごろ『蒼天の果てで君を待つ』の話になると早苗が熱い。
力説している彼女を、亜希と志保はひたすら、うんうん、と頷いて見守るしかない。
「それがね、蒼彰ったら、蒼邦に心奪われちゃったでしょ。とたんに蒼潤なんてポイッよ、ポイ!」
「それは蒼潤が可哀想だね。その男が気に入らないはずだ」
志保は苦笑しながら、早苗の両手から己の手を引き抜いた。
「そう。そこで蒼潤は勝負を申し込むの。蒼潤の得意の乗馬でね。どちらが速く駆けられるかを競ったの」
「へぇ……。それで、蒼潤は……勝ったの…?」
亜希は勝敗が気になって尋ねるが、その声は自分でも驚くほど震えていた。
どちらが速く馬を駆けさせられるか。どちらが速く100メートルを走れるか。
勝負の内容に多少の差違はあるが、蒼潤も勝負を申し込んだのだ。亜希が高野に勝負を挑んだように。
早苗は亜希の顔を正面から見つめて言った。
「負けたわ。蒼彰は、どうしても蒼邦と一緒になりたかったの。蒼潤に負けて欲しかったのよ。だから、勝負の前に蒼潤に一服盛ったの」
「は?」
なんか今、サラリと凄いことを聞いたような気がする。
「一服盛った? なんで⁉」
「毒というわけじゃないけど、お腹がゴロゴロになっちゃうようなものをね。――実は、蒼邦との結婚は蒼潤だけじゃなくて、父親の蒼昏にも反対されてて。蒼昏は、まさか蒼潤が負けるとは思ってなくて、蒼潤が負けた時は自分も認めようって軽々しく約束しちゃったの。 だから、蒼彰は蒼潤のおかげで、蒼昏の反対も押し退けることができちゃったってわけ。父親を納得させるのは至難の業だけど、黙らせるためには蒼潤を使えばできると思ったのね」
「ひどい……」
「蒼潤って、哀れ……」
おそらく蒼潤は、大好きで大切な姉を失いたくなくて、必死の覚悟で蒼邦に勝負を申し込んだはずだ。
そして、全力で相手と対決しようとした。それなのに、よりによって姉に裏切られるなんて。
「確かに。勝負に負けた上、その相手にお姉さんを取られるところが、今の亜希にそっくりかもね」
大好きな小説の話ができて楽しそうな早苗を横目に、志保は亜希の様子を見ながら静かに言い放った。
△▼
午後の授業が終わり、机の中から教科書とノートを出して学生鞄に詰め込んでいると、優紀が亜希の教室にやって来た。
また来たかと、亜希は教室の後ろの扉から自分を呼ぶ姉にうんざりとした顔を向ける。
「亜希、陸上部に行くわよ!」
「はあ?」
「高野が亜希に、もう一度、体験においでって言ってくれてるの。ほら、行くわよ!」
今にも腕を掴まれ、教室から引っ張り出されそうになる。だが、なんとか躱して亜希は必死に懇願した。
「待って待って。鞄持ってくるから。あと、早苗に話がある。少し待ってて!」
亜希は優紀を廊下で待たせると、再び自分の席に戻る。
すると、志保が帰り仕度を終えて亜希の席にやって来た。
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