序.生まれ持った敗北
――いい子だねぇ、拓巳は。
祖父は皺だらけの手で拓巳の頭を柔らかく撫でた。
亜希は唇をグッと閉じて、祖父の手を見つめていた。
もはや、この世にはいない祖父。
祖父のその手ばかりが記憶に残っている。
深く刻み込まれた皺と、それと区別がつかない幾多の傷跡。肉は削がれ、皮と骨ばかりのゴツゴツした大きな手だった。
だけど、亜希は祖父のその手に一度も触れたことがない。触れられたことなんて――。
拓巳みたいに頭を撫でて貰いたくて、幼い亜希は無邪気に祖父に話しかけた。
『おじいちゃん、あのね』
『亜希、待ちなさい。今、わたしは拓巳とお話をしているからね』
『でも、おじいちゃん。私、良いことがあって……』
『うるさい! 女はあっちに行って、母さんの手伝いでもしていろ!』
煩わしいとばかりに片手を大きく振った祖父の顔は、記憶から抜け落ちている。
その時ばかりではない。記憶の中の祖父の顔はどれも真っ黒い。墨で塗りつぶされてしまったかのようで、笑顔は疎か、怒った顔も、機嫌の良い時の顔も覚えていない。
ただ、その手のみが鮮明で、亜希の記憶の中で暖かみを帯びた色を放っていた。
祖父がその手で触れるのは拓巳だけだ。
従弟の拓巳は、生まれながらにして祖父を喜ばせることが得意で、亜希の誕生にため息を漏らしただけだった祖父を、拓巳は産声を上げただけで歓喜させたのだという。
待ちに待った孫息子が可愛くて仕方ないのは分かる。けれど、一度でも良かった。祖父が亜希の頭を撫でてくれていたのなら、亜希がこれほど苦しむことはなかった。
男だったら――と、これまでに何度そう思ったことだろう。
もしも亜希が男の子だったら、祖父は幾度も頭を撫でてくれただろう。いい子だねぇ、と言われていたのは亜希だったかもしれない。
【注意書き】
この物語は、現世は現代を、前世は後漢時代をモデルに書いておりますが、調べてもよく分からなかったり、私の妄想上どうしても必要な変更があったりで、後漢時代から外れた設定もあります。ご承知おきください。