名前
湯屋の番台は、暖簾を潜り抜けて来る客を今日も今日とて眺めていた。
常連でよく見る顔が殆どで、台に置かれる品を小箱に収納していく。
そして、ふと見慣れない客に目が止まった。
銀髪の男だ。
妙に目を惹く人形の様な秀麗な男で、着物の前を大仰にはだけさせた格好をしていた。
黒い爪が伸びる指がコトンと音を立てて、台に扇子を置いた。
どうぞ、と番台が奥へと促すと男は黙って脱衣所の方へと消えて行った。
いやはや、独特な雰囲気を持った男であったと番台は品を仕舞い込んだ。
「ああ、サッパリしたわ」
先程の男と入れ替わる様に、口調が特徴的な男が奥から姿を現した。
まだほかほかと身体から湯気を立ち上らせいて、来た時よりも血色の良くなっている気がする。
男は隅に置かれている水瓶から柄杓で水を救い上げると、そのまま一気に煽った。
良い飲みっぷりである、水だが。
「はぁ~……ねぇアナタちょっと話し相手になって頂戴よ」
女口調男は番台が座る台にすすと近づいてきた。
台に凭れ掛かり、片肘をつく。
厄介な奴に絡まれたかもしれない。
だが、これもこの仕事の宿命。
大人しくこの男が飽きるまで付き合うしかあるまい。
「最近、殺生沙汰がこの辺であったでしょう?」
「ありましたねぇ。でもここいらでは日常茶飯事でしょうに。気にしてても仕方ないでさぁ」
「んもう!日常茶飯事だとしても、もう少し配慮して欲しいものだわ!道端に臓物やら血やら撒き散らすなんて、品性を疑うわ!」
いや、喰い汚い奴に品性を説いても骨折り損のくたびれ儲けというものだ。
番台は、はははと乾いた笑いを漏らした。
「其処を通り抜けるが憂鬱で仕方無かったのよ!お陰で行きたい所に行けなかったわ!」
「それはご愁傷様で」
「くぅ…!恨むわよ…」
唐突なドスの効いた低い声。
先程までの男にしては高い声は作っていたのか。
目も座っていて、中々の迫力である。
怖、と番台が心なしか気温が下がった空気の中で首を縮こませる。
「自警団は仕事しないわねぇ。凍りづけにしてやろうかしら」
「…纏め上げてた団長が、身罷られたって噂もあながち間違いじゃなかったんですかね…」
ぶつぶつと愚痴を吐き出しながら、どす黒い雰囲気を醸し出す男に番台はそう独りごちながら、更に身を縮こませる。
なんか寒、と番台がぶるりと身を震わせた時だった。
ぴたりと男の声が唐突に止んだ。
不思議に思って番台が顔を上げると、あの目を惹く男が出て来た所であった。
ふるふると女口調男は身体を震わせている。
そして、次の瞬間。
「みっちゃーーんっ!!」
まるで花が咲いた様なにっこりとした笑みを浮かべて、女口調男がその男に向かって飛び掛かった。
がばっと抱き着きついたかと思われた。
だが、女口調男の腕の中には誰も居なかった。
抱き着かれそうになっていた男は少し離れた場所で、その秀麗な顔を煩わしそうに顰めていた。
「んもう!みっちゃんは何時もつれないんだからぁ~!!」
「その呼び方は止めろと何度言ったらわかる。阿保氷一郎」
抑揚のない声色で、開口一番に悪態をついたみっちゃんなどと可愛らしい愛称で呼ばれた秀麗な男。
番台は目の前で繰り広げられている光景に開いた口が塞がらなかった。
「久々に会った馴染みであるアタシに開口一番に悪態をついてくるなんてーー」
抱き着くような格好から女口調の男は秀麗な男へと向き合いながらふるふると再び震え始めた。
ごくりと番台は生唾を飲み込んだ。
「ーー変わりない様で安心したわ!」
番台は思った。
さっきまでの緊張感を返してくれと。
からからと笑う氷一郎は、秀麗な男が結んでいた髪紐をいとも容易く解いて、それを手に暖簾の外へと消えて行った。
秀麗な男は小さく溜息をつくと、氷一郎に続いて暖簾を潜って外へと出て行った。
番台はその背中にまたのお越しを、と声を掛けたのだった。
正に嵐の様な騒がしさであったと、番台は肩から力を抜いた。
***
すっきりとした気持ちと、湯を浴びても朱色のままの自分の髪に少しばかり不思議な気持ちを抱きながら、女と書かれている暖簾を潜った。
少し湿った毛先を摘んでみては離す、を何度も繰り返す。
そう言えば、彼はもう出て来ているのだろうか。
もしかしたら、先に一人で店に帰ってるかもしれない。
試しに男湯の入り口へと視線を向けると、人影が二人分見えた。
一人は知った顔だった。
けれど、巫景の側にいる男性は見た事がない。
見知らぬ男性の背中越しに、彼とぱちりと目が合った。
と、続いて此方を振り返った男性とも目が合う。
その人が余りにもじっと見てくるもので、思わず視線を逸らして、再び巫景へと向ける。
すると、見知らぬ男性が此方に歩み寄って来た。
「そこの赤毛の娘さん。あの男は止めておいた方が賢明よ?これっぽっちも色恋沙汰に興味がないから」
何やら勘違いされたらしい。
それにこの男性は巫景の知り合いだろうか。
随分と癖の強そうなひとだ。
「あの、いえ…そういう目で見ていた訳では…」
「あら、そうなの?じゃあ、お仕事の依頼かしら?」
「えっと…居候させて貰ってまして」
「…え?」
きょとんとした顔で男性が固まった。
心底驚いたと様な表情。
おかしな事を言っただろうかと、首を傾げる。
ふと、気付くとすぐ側に巫景が居て男性が握りしめていた黒の髪紐を取り上げた。
「…みっちゃん…アタシが知らぬ間に女の子に興味持ってたのっ?!」
「誤解を招く様な言葉使いをするな」
「だってぇ!今までアンタが側に女の子なんて置いた処なんて、アタシ見た事ないわよ?!」
「…成り行きでそうなっただけだ」
「んまぁ!!何時も、女になんて興味が無いみたいな顔してたのに、みっちゃんにも春が来たのねえ!!」
男性の勘違い具合に言葉を返すのが面倒になったのか、巫景は否定する事もなく歩き始めた。
男性はそんな彼を他所に、ずずいと私に顔を近づけて来た。
「初めましてえ!アタシ、氷一郎っていうの。気軽にひーちゃんって呼んで頂戴!みっちゃんとは昔馴染みなの。宜しくネ?」
「あ、初めまして… えぇと…」
ああ、これは名乗らないといけない状況だ。
だが、私は今名無しだ。
氷一郎と名乗った男性はじっと此方を見詰めている。
どうしたものかと、視線を泳がせる。
「朱乃」
あけの。
耳慣れない名前だ。
声へした方へと顔を向ける。
彼の目は私を見ていた。
あけの、朱乃。
私の名前、という事で良いのだろうか。
「朱乃ちゃんっていうのね!……巫景の好みってこんな感じなのねぇ……」
なんだか聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしたけれど。
気のせいだろうか。
「ほぉら。行きましょ?」
とんと背中を押されて彼、氷一郎と巫景の後を追いかけたのだった。