湯屋
ぽつねんと一人店の中に残され、しんと静まり返った店の中を見回す。
そういえば、あれ以来新しい記憶を思い出さない。
巫景が物語の中の登場人物。
そして、その物語の主人公は撫子という美しい藍色の髪を持つ可愛らしい少女。
そんな彼女の側に付き従う護衛の桃馬。
登場人物がその三人しか思い出せない。
物語の内容もあやふやだ。
撫子は巫景に恋心を抱いているが、彼が彼女を振り向く事はなかった。
それしか、わからない。
詳細をもっと思い出せれば良いのだけれど、こればかりは自分の意思では如何にも出来ない。
私という存在がそもそも、その物語に登場しているのかすらもわからない。
右も左わからないこの状態を打破する事が出来るかもと思ったけれど、無理そうだ。
溜め息をついて、腰を上げる。
そして、店に置かれている姿見を覗き込んでぎょっとした。
前は耳辺りまで朱色だった。
今は後ろに一つ結い上げた根元まで染まっていた。
「染粉じゃあこんなに綺麗に染らないよね…」
見事に毛先まで朱色に染まった前髪を弄る。
そして、後ろ毛の毛先を摘んで目の前に翳す。
まだ白い。
このまま行くと完全に朱色に染まるんだろうか。
まるで、自分ではないみたいだ。
じっと鏡を見詰める。
同じように鏡の中の自分も、琥珀色の目が此方を見つめている。
「…………」
苦い記憶を思い出して、首を横に振る。
椅子に腰掛ける。
やる事がないというのは、もどかしく感じる。
もう寝るしかないと、半ばやけくそで目を閉じた。
ーーふと、煙たい臭いが鼻についた。
煩わしく感じて、もそりと緩慢な動きで鼻を手で覆う。
そして、気付いた。
まだ若干重たい瞼を開くと、座敷の段差に腰掛ける様に座っている巫景の姿が見えた。
そして、その手にはゆらゆらと白い煙が立ち昇る煙管があった。
煙たいのはあの所為か。
「起きたか」
「…すみません」
謝罪の言葉は寝起き特有の鼻声で、本当にしっかりと眠っていた事がわかる。
夢さえも見なかった。
座りながら寝ていたせいで身体が固まっていた。
「その様子…客は特に来ていないか」
「すみません…なんか途中から記憶がなくて…」
目を擦りながら立ち上がる。
唐突に、軽い仕草で巫景が何かを投げたのが見えた。
空で微かに光ったそれは、思わず差し出した掌にすとんと落ちて来た。
水晶の様な透明な球が黒い紐で編み込まれた飾り紐。
「なんです?これ」
「持っていろ」
彼はそう言うだけでまるで犬猫を追い払う様に手を振る。
と、同時にガラガラと引き戸が開いた。
其方に顔を向けると洋服を着た女の人が入って来た。
ふと、違和感に気付いた。
顔が見えない。
靄がかかった様に顔だけが見えない。
それに気配が希薄で、身体は透けている様に見える。
「ご用件は?」
彼が、女性にそう声を掛けた。
すると、彼女は彼の前へと歩み寄って言った。
「話を聞いて頂けませんか。お礼はいくらでも致します」
ぺこりと頭を下げた女性にどうぞと彼が促す。
私が居ても邪魔だろうから、裏に引っ込んでおこう。
女性が話し始める声を背に、勝手場への戸を開いた。
しくしくと啜り泣く声が聞こえて来る。
片付けを終えてから、淹れたお茶をお盆に乗せて、店の方に顔を覗かせる。
客人は壁際の長椅子に腰掛けていて、その顎から雫がぽとりと落ちるのが見えた。
ぽつぽつと話す彼女と彼の側にお茶を置いて再び奥へと引っ込む。
やる事を終えて一息。
ふと、思ったのだ。
「お風呂入りたい」
自分で自分の匂いを嗅いでみるが、あまり分からない。
お風呂に入っていいかを、接客が終わったら直ぐに聞こう。
勝手場の扉をそっと開いて、店の中を通り抜けて二階へと上がる。
与えられた部屋へと入ると、箪笥を開ける。
確か肌着は何着か入っていた筈。
目当てのものを取り出しておく。
そして、手持ち無沙汰になってしまい。
すとんと畳に腰を下ろした。
商品の手入れは客人が居る間は控えた方が良いだろうし。
茶も出したし、勝手場の片付けも終えてしまった。
ふと押入れが目に入り、開けてみた。
布団と木箱が幾つか入っていた。
その木箱を取り出して、開けてみると女物の袴が入っていた。
まともな着物あったんだ。
でも、今はそっと仕舞っておこう。
パタンと蓋を閉めて、押入れに戻しておく。
「はぁ~~~………」
ころんと畳に横になる。
さっきまで寝ていたが、まだ寝足りないぐらいだ。
そう思ったらまた瞼が落ちて来た。
少し、少し目を閉じるだけ。
ほんの少ししたら、下の様を窺いに行こう。
落ちるがままに、瞼を閉じて視界が真っ暗になった。
ーー何かが聞こえてくる。
なんだろう。
………嗚咽…?
『ーーーって、くれーーー』
・
・
・
「………っ!」
はっと目が覚めた。
目を閉じるだけと言いながら、完全に寝ていた。
若干痛む背中をさすりながら起き上がる。
ここは何時も夜の様に真っ暗だから時間の感覚が全く掴めない。
部屋から抜け出して、突き当たりの壁に掛けてある時計を確認する。
時計の針は5時半を指していた。
朝か夕方か、分からない。
取り敢えず、寝る前に見たときは4時過ぎだった。
ざっと一時間は寝ていた。
寝すぎて逆に頭がぼぉっとしている。
目を擦りながら、そっと階段を降りた。
店の方へと顔を覗かせると、壁際の長椅子に腰掛けていた女性がすぅ…と溶ける様に消えていった。
ぎょっとしていると、客の相手をしていた彼が此方を見た。
「…すみません」
彼は何も言わなかったが、何となく反射的に謝ってしまった。
しかし、寝すぎだ私。
座敷の段から脚を下ろして座っていた彼は座敷と上がり、座椅子に腰掛ける。
その姿を見ていて、思い出した。
「あの、お風呂って沸かせます?」
「風呂?そんなのもう数年も使ってないから汚れ放題だ。風呂に入りたいなら湯屋に行く事だ」
「…湯屋ですか…」
今は湯屋で身体を洗う。
そして、一刻も早くこの家にあるお風呂を使える様にしなければならない。
「ああ、俺も偶に行くが。騒がしい」
「た、偶に…?」
偶にって、じゃあこの人は身体を何週間も洗わないって事。
男の人ってそう言うものなのだろうか。
「頻繁に湯に浸からなくとも、行水やら湯につけた手拭いで拭くぐらいで事足りる」
「そうなんです、ね…?」
私には毎日風呂に入るという固定観念が、染み付いていた。
一日でも入らない事なんて、ありえない。
更に言えば行水なんて逆にした事がない。
「えっと、それで湯屋はどの辺に?」
返答はなく、先程腰を下ろしたばかりの座布団から立ち上がった彼は二階へと姿を消した。
しばらくぽつんと店に立ち尽くしていると、彼が降りてきた。
そしていきなり目の前にずいと差し出された桶を反射的に受け取ってしまう。
中を覗き込むと、固形石鹸と手ぬぐいが二枚ほど入っていた。
なんだか、此処は時代錯誤が激しい気がする。
支度をして、あれよあれよと言う間に湯と暖簾が掛けられた建物の前までやって来た。
女と男で分けられた暖簾。
彼はさっさと男湯の方の中へと入って行ってしまった。
私も、恐る恐ると女湯の暖簾を潜り抜けた。
番台で料金になる品を置いて、奥へと進む。
中は結構賑わっていた。
湯から上がったばかりなのか、着物を際どく着崩している人が何人か長椅子に座っている。
そして、脱衣所とを仕切る木の引き戸の向こうに、ちらりと隣で裸の女性たちが身体を洗っている姿が見えた。
「銭湯だ…」
古めかしいけれども、何処か懐かしい雰囲気の湯屋を見渡しながら、着物を脱ぐ。
今日こそは髪と身体を洗わなければ。
着物と共に一つの手拭いを残して、木の引き戸を開けた。