当たり前
「ねえ…まだ着かないの」
骨董屋を出て暫く、華やかな大通りから離れて迷路の様にジグザグと入り組んだ道を進み続けてどれくらい経っただろう。
「もう直ぐにゃス」
灯りを持ち歩いて居ないから辺りは真っ暗である。
月だろうか、満月が暗い空に浮かんでいる。
ふと、ひやりとした刺す様な冷気が肌を撫でた。
此処だと鼓太郎が妙に声を潜めて言った。
顔を半分だけ覗かせて、鼓太郎は細い路地を覗き込んでいる。
その尾はピンと立ち、ぶわりと毛が逆立っていた。
習う様に路地を覗き込んで見ると、暗がりの中で何かが蠢いていた。
あれは、何だ?
「なに、あれ」
「オイラにも分からにゃいっス。ただあれを見ているとゾワゾワするにゃス…」
身の危険は感じなかった。
ただ、そこに在る筈のないモノ。
そう感じた。
しかし、どうしたら良いのか。
此処で眺めていても仕方がない。
命の危険を感じないし、近づいてみよう。
一歩、路地に足を踏み入れた。
後ろで鼓太郎が息を呑む音が妙に大きく聞こえた。
一歩、また一歩と奥へ進んで行く。
立ち止まって、じっとそれを見詰めて見る。
ーー私は此れを知っている。
それは、蛇の様に蜷局を巻いていたがふっと溶ける様に消えてしまった。
肌を刺す様な冷気は唐突に消え去り、何の変哲も無い人気の無い路地にただ私は立っていた。
「す…すごいにゃス!!」
鼓太郎の歓喜の声が路地に響き渡る。
これでやっと仕事が滞りなく、進められると喜びを身体中で表していた。
店主に報告しようと、飛び跳ねる様に来た道を戻り始めた。
そんな背中を追いかけたいが、酷く息苦しくなって喉を押さえた。
ごくりと喉が何かを飲み込んだ様に上下に動いた。
「ーーは…っ」
漸く息が真面に出来る様になった。
息を整える為に、何度か深呼吸をしてゆっくりと背中を追いかける為に脚を踏み出した。
***
ガラッと勢いよく鼓太郎が引き戸を開けた。
相変わらず薄暗い室内の奥に、居た。
側に灯籠を置き、本を読んでいた彼は顔を上げた。
「…なら、滞ってた運び屋の仕事もし易くなったんだろう?早急に俺が頼んでいたものを持ってきてくれるかい?」
「はいにゃ!直ぐさま届けに致しますにゃス!」
駆け出そうと足を上げた鼓太郎だったが、ふと私を振り返った。
「そうにゃ。姐さんは何をご所望で?」
「…羽織が欲しい」
なんだか、呼ばれ慣れない呼び方をされたが、姐さんって…堅気じゃない人みたいじゃないか。
ピュン!と効果音が付きそうなぐらい身軽に素早く、鼓太郎は去って行った。
ふわりとそれで起こった風で、前髪が拐われるぐらいには速かった。
開けっ放しの扉を潜って中に入り、扉を閉めると大通り雑踏の喧騒が遠くなった。
彼へと視線を向ける。
本へ視線を落としたまま此方を一瞥すらしない。
この態度の落差が大き過ぎないだろうか。
本当に不思議でならない。
呼びかけようとして、はっとした。
そういえば、私は彼に名を教えて貰っていない。
危なかった。
危うく名を呼ぶところだった。
「…そういえば、名乗っていませんでした」
私も同じだ。
名乗っていなかった。
短くはないけれど長くもない時間を共に過ごしていたけれど、お互い名乗らずにいたのだった。
「私はーーー」
そういえば、何と名乗れば良いのだろうか。
生家で名乗っていた渾名?
そうだ。私には真面な名前というものが無い。
名を教えて貰うなら自分からと口を開いたが、肝心な名乗れる名が無いとは、困ったものだ。
「…巫景だ」
「…!」
黙り込んでから暫くの間。
その後に、彼が唐突に口を開いた。
やはり、その名は知っていた。
けれど、本人の口から聞いた事によって漸く本当に知る事が出来た気がした。
「ごめんなさい…、私には、貴方に名乗れる様な名がなくて」
思い返せば、酷い親だ。
乳母に育児を押し付けて、さも自分達の子供などではないと名を付けなかったのだから。
だから、私には名前がない。
渾名の様な、自分が考えた適当なものを名乗るのも憚れた。
「名がなくとも生きていける。気にする事はない」
「そう、ですね」
だが、少し寂しいと思ってしまう。
名があるという当たり前を思い出してしまった。
そんな当たり前な事を、今の私は持っていないのだ。
「私は、此処に居ても良いんですか?」
そして、居場所もなかった。
生家に帰れる訳でもない。
行く場所がなかった。
だから、唯一私に手を伸ばしてくれた彼の側に居たいと思った。
「好きにすれば良い」
素っ気ない言葉だが、嬉しかった。
心の中が暖かくなって、自然に顔が綻んだ
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