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昨日は鍵を返却していたけれど、勉強しやすいことを伝えると、先生はテスト期間が終わるまで鍵を持っていていいと言ってくれた。
わたしは手の中にある鍵を握りしめ、旧校舎の生物室へとやってきた。
重たい鉄の扉の奥にあるその部屋へ入り、カバンを昨日の机に置く。カーテンは両脇に集められたままだった。わたしは順番に窓を開け、空気を入れ替えた。
旧校舎にいく前に寄ったコンビニの袋からマスクを取り出し、耳に掛ける。わたしのしていることが、良いことなのか悪いことなのか、分からない。しかしまた明日会うと約束した手前、いかないわけにはいかなった。
床下は足音がよく響くと彼が言っていたから、わたしがここにいることも知っているのだろうか。
わたしは準備室の鍵を開け、暗がりの室内へ入り込む。光りの当たったあの床は、薄いしみだけが残っていた。
昨日ここを去る前、わたしは落とした瓶の掃除をした。ガラスのかけらも、床にできた水たまりも、球根も、処理した。においはした。鼻につんとくる、小学校の実験で嗅いだアンモニアのような、不思議と懐かしいにおい。皮膚には触れないよう、ハンカチやティッシュを使って片づけたからなのか、刺激はなかった。
外せる床の部分をノックし、下に向かって声を掛ける。
「昨日の、山村かおりです。開けてもいいですか」
「やっときたか。早く出してくれ……」
昨日耳にした、あのはつらつとした声ではない。わたしは急いで床を持ち上げてのぞき込んだ。やはり窮屈そうな角度で、彼は見上げていた。
「暗いしなんかじめじめしている気がする。明るい場所に出たからだろうか……気分が落ち込むな」
苦笑いのような、あまり体調が良くなさそうな表情の彼を、昨日と同じく外へと持ち出す。瓶の中にいるから気づかないのかもしれないが、床下は意外と風通しが良く、暗所のせいか外より断然涼しくて、湿気も少ないように思う。いや、彼が過ごしにくいと感じるのは、彼が瓶の中で液体と一緒だからかもしれない。
生物室に移動した最初だけ、彼は昨日と同じように目をつぶっていた。
机の上で目蓋をぴったり閉じる彼を、しばし眺めた。目蓋の奥にある眼球の滑らかな丸みが、薄い皮膚に包まれている。その境目を縁取るまつげはすきまなく密集し、長く、頬に影を落としていた。
ゆっくり目蓋を持ち上げてゆく彼と、目が合った。
「無防備な俺に見惚れたか?」
彼は一瞬、開いた目をさらに丸くして驚いたふうだったが、次第に笑みへと変えてゆき、わたしへ挑発的な視線を投げた。
「綺麗ですね」
「ああ、もっと言ってくれていいぞ。嬉しいからな。ところで、今日はマスクなんだな」
「先生、生物の先生にホルマリンの瓶を割ったって伝えたんです。そしたら、その液は危ないからって。準備室、手をつけなくてもいいって」
「ほう? しかしかおりは大丈夫そうだが」
「そうなんです。わたし、大丈夫みたいなんです。先生も言ってました。すぐ逃げたんだなって、言われて」
「落ち着け。きみの言葉はちゃんと聞いてやるから、ゆっくり考えて話してくれ」
わたしは口を閉じ、乾いた喉へ、空気とともに少しのつばを飲み下す。夏につけるマスクは蒸れて暑かったので、耳に引っ掛けたゴムを指で取り去った。
「その。宮本さんは、意識を飛ばしていたって、言ったじゃないですか。でも先生は、気化したホルマリンも危ないって」
「ああ、俺も昨日言ったことだな」
彼はあっさり受け入れた。
「わたし、どうして何ともないのかなって。不思議で」
「どうしてだろうな」
「え?」
「かおりは、どうしてだと思う?」