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 終業式が終わり、教室内にはさまざまな声が飛び交った。夏休みの予定を立てる声、補習を嘆く声、しばしの別れを告げる声。わたしはそれを聞き、あるいは聞かれて返事をしながら、カバンを持ってそこを離れた。


 わたしに予定はなかった。いや、まったくないわけではない。仲良くしている友人らと遊びにいく話はしたし、テストの補習とは別の、自己申告制の補習授業を受けるために登校する予定も作った。


 旧校舎の取り壊しは休み中、補習授業が終わる頃だと聞いた。だから、わたしはまた彼に会うのだ。会いたかったのだ。


 彼に会うためには、旧校舎の、生物室の鍵を借りなければいけなかった。一人で静かに勉強することが気に入ったと伝えれば、優しい先生だから了承してくれるだろう。


 同じように帰宅する生徒や、部活の格好をした生徒が行き交う廊下を進む。彼らは玄関に向かう人が大半だったため、流れに逆らって一人、急ぎ足で校舎の奥へと吸い込まれるわたしの姿は、少し浮いていたかもしれない。いつもなた人目を気にしてしまうところだったけれど、今のわたしには彼のことしか考えられなかった。


 生物室の扉をノックし、声を掛けながら入った。やはり先生はここにいるらしく、室内は冷房で少し寒いくらいだった。


ぐるりと見渡してみたけれど、人の姿はなかった。しかし机には筆記用具や三年生の教科書が置かれており、足下には先生が持ちそうな黒くて硬そうな、大きくて四角いカバンが立て掛けてあった。


「先生?」


 口から滑り出た声は小さいものだったけれど、黒板の隣にある扉が、声に気がついたように開かれた。いつもの白いマスクをつけた先生は、白衣の腕にいくつか瓶を抱え、わたしのいる生物室へとやってきた。


「山村さん。何か用ですか?」


先生は教卓に瓶を置いた。わたしが旧校舎から運び出した、ホルマリン漬けの瓶だった。どこにもおかしいところはない、生きていそうなねずみ。割ったものとは別の球根。何かの組織片が沈んでいるもの。


 彼が置く時にそれらは揺れ、液体の中で眠るねずみが動いた。たとえ触れたとしても、柔らかい肌ではないのだろう。あれは硬直していて、つぶらな瞳にも何かを映すことはない。


「きみが持ってきてくれたこれをね、生徒たちに見せようと思ってるんです。なかなか見る機会のないものですから」

「運んだかいがありましたね。きっと、びっくりする人も、怖がる人も、興味を持つ人もいます。最初、すごくびっくりしたんです。そのねずみが揺れて、それで瓶を落としてしまったんです」

「生きているように見えますよね。血もなくて、皮膚もきれいで。それなのに息はないんですから。神秘的です。閉じ込められたそれに、自分だけがそれと目を合わせているような気分になります。とても素敵だ」


 わたしはホルマリン漬けをもっと近くで見ようと、机のそばまで歩いた。冷房の唸る音は大きいはずなのに、わたしには踏み出した足の音のほうがうるさく聞こえた。ひそめるように、慎重な動作で足の裏を床にくっつけて歩くと、靴底のゴム素材と水を弾きそうな床とが、ぺたぺたとまぬけな音を奏でた。


「旧校舎の生物室はどうでしたか。ほかの教科と違って不気味なものが多いでしょう? この瓶だったり、偽物とはいえ剥製があったり、内臓の図面だったり」

「最初は、です。慣れると興味が湧くものばかりで、しばらく観察とかしてました」

「先生もそうだった。生き物の外見にも、中身にも惹かれたんです。あまり細かく伝えるときみが怖がりそうだから言いませんが。いわくありげで、夢がありますね」

「いえ……。先生って変わってますよね。いつもマスクをしていて……あ、悪いとか、そういうのじゃないです」

「ええ、大丈夫ですよ。自分のことは変なやつだと思ってますし。このマスクも、別に意味があるわけではないです。学生の時からの癖というか、研究で薬品を扱うこともあったので」

「へえ……」

「それこそ、きみが落としてしまったホルマリンとか」


 白衣をまとった腕がのびてきた。ねずみの瓶に触れていたわたしの指の、すぐ近く。同じガラスの表面を、先生は撫でた。優しく、中のねずみを驚かさないような手つきだ。


 同じことをほかの教師にされたのなら、わたしはそこから手を離しただろう。理由などなくても、大して知らない人と触れ合うことは気持ちのいいものではない。友人ならまだしも、それが先生というだけの、得体の知らない他人ならなおさら。


「先生、わたし。旧校舎に……生物室に、もう一度いきたいんです」


動かなかった、動けなかったわたしの指先に、先生の指がこつんと当たった。短く切りそろえられた爪はわたしのそれより一回りも大きくて、でも指先は楕円形にほっそりしていた。わたしの指先は丸くて、隣にそれが並ぶとひどく不格好に見えた。


 異なる指先が隣り合ったところを、黙って見つめていた。側面の皮膚を添えただけのそれは、しばらく動かず、つがいの生き物のように寄り添っていた。次の瞬間、先生の人差し指が、ガラスに触れていたわたしの人差し指を、そこから剥がすように引っかいた。力が抜けていた指は簡単に宙へ弾かれ、残りの指も瓶から放れた。


 行き場をなくした指を、親指を、彼はつまんだ。親指と人差し指とで挟むように持ったあと、中指が増やされ、わたしの親指は三本の指で、付け根まで深くくわえ込まれた。


「山村さんが落としたホルマリンの状態をね、先生は見にいったんです。においとか、毒性とかを確認しに。そうしたら、床の一部が変なしみ方をしていたんです。叩いてみるとそこは空洞になっていたから、先生は気になって開けてみたんです」


 親指から付け根、付け根から手の甲へとのびた彼の指が、わたしのそこを撫でる。決して強くこすらないように、圧迫しないように、削らないように。彼の触れたところからぴりぴりと電流のようなものが走り、わたしは彼を見た。


 強い意志を宿した、赤茶色の瞳だった。


「それで、その先生は彼と会った。先生は生首の瓶詰めを見つけて、生物に対する興味に、美しさに惹かれたんだ。ためらいもなく蓋を取り去り、触れた。生首は目を覚まし、先生の首に噛みついて……」


 先生は自身の手で首に触れた。わたしにあの首の筋を見せるように反らして、ぐるりと首の周りをなぞって、あの瞳でわたしを見下げていた。長いまつげが、頬に影を落としていた。


 身を引こうとした時、わたしの肘が何かにぶつかった。ガラスが激しく散らばる音と、液体が飛び散る音、そして床にたたきつけられた、小さな、硬くなった生き物。


 足下に転がったねずみに目を奪われてすぐ、目の前が暗くなった。身を寄せた先生がわたしに影を重ねていた。濡れたような黒い髪のすきまから、赤茶の瞳がのぞく。わたしを教卓に追いやり、机に手をついた。両腕の中に閉じ込められたまま、わたしは彼を見上げる。


 マスクを下げる。その顔は、瓶詰めの彼だった。


「きみもそうだ」


 先生の――彼の指が、わたしの喉を覆う。植物のツルのように絡ませ、両方の親指で、わたしの喉の真ん中を押した。


 わたしは一瞬、襲ってきた圧迫感から逃げるように口を開いた。空気を欲する魚のようにあえぎ、自由な手を彼の胸へと向けた。手のひらに伝わる鼓動が、私の手を押し返す。


「かおりになりたい、じゃない。きみはかおりだよ。俺がきみの、山村かおりの身体をもらって、かおりにしたんだ。眺めるだけでは満足できなくなったから。もう一度、きみに会いたくなったから。だから、あの床下にある脳みそは。もう分かるな?」


 喉を絞めつけた手の力が緩み、さらけ出したその表面を撫でた。瓶に触れた時のような、傷つけたり、驚かそうとしたりはしていない優しい手つきだ。さするように指の腹が往復し、わたしはくすぐったさを感じて顔をそむけた。上から吐息が降ってきた。


「きみがまたほかのやつに取られるくらいなら、俺がまたきみを殺そう。きみの目に俺だけが映るように、俺の目にきみだけが映るように。今度は俺を殺してくれる先生がいないから、二人で一緒に死のう」


 彼はわたしへとすり寄った。額を合わせると、二人の髪が混じった。わたしの瞳を奪うように強く見つめたあと、頬に唇を這わせた。なま温かい舌の肉や、息が、頬を濡らしてゆく。時折その場所だけで小さく響く水音が、わたしを震えさせた。腰から這い上がってくるものは、やがて外へと吐き出した。彼の顔に拭き掛けてしまった息は、彼の表情をやわらげたようだった。


「でも、きみは。かおりは俺を怖くないと言った。美しいと言った。好きだと言った」


 それが合図となり、唇同士が触れた。最初は様子をうかがうように、優しく当てられただけだった。しかしわたしが抵抗しないと悟ると、彼の唇はわたしを食べた。熱を持った舌がわたしの唇のすきまを縫い、入り込んだ。じゅう、とすする音。わたしの奥から沸き上がるものを、すべて呑み込もうとした。


 わたしは呼吸を彼に任せ、腕をのばした。彼の首を覆うことはできなかったけれど、異物のように浮き出た喉仏に、親指をぴったりとあてがった。喉仏は指の腹を撫でるように、上下にうごめいた。


 どろどろの熱に浮かされうるんだ瞳が、優しく細められた。


「きみがずっと好きなんだ。首ったけというやつだ」


 耳によく馴染む声。昔のわたしはその一方的な告白を聞いているだけで、返事はできなかった。彼がわたしを絞め殺してしまったから。


「わたしも、本当はそうだったんだよ。宮本くん」


 彼は微笑み、わたしの首に顔を埋めた。

お読みいただきありがとうございました。

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