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評価、ブクマありがとうございます。
明日で終わります。
彼との行為に嫌悪を感じたのなら、わたしはそれを簡単に振りほどけるだろう。わたしをとどめておく身体がないのだ。生首を自身から遠ざけて、離れてしまえばいいのだ。
しかしそんな考えは頭の中でも隅のほうにだけあって、それを押しのけてしまうほどの別の何かに追われてしまった。
首に痛みが走るたび、わたしは声を漏らした。震える指先で彼の頭を抱きしめて耐えていれば、彼は唇をそこから放した。彼の熱を受けた肌は熱を持っていた。急に解放されたことで、教室に漂う冷たい空気がまとわりついてきた。
「どうして逃げない? きみは恐ろしく素直に受け入れている。……慣れているわけではないだろうな」
銀色の光りを帯びたような瞳に当てられ、わたしは首を横に振って否定した。
「そんなの……は、はじめてですよ」
「断れない性格とか、貞操観念が低いとか? ああ、いや、それをできる身体が俺にはないし、そもそも無理やりなんてしないが。……さっきのは、すまない」
「……いえ。ただ、なんか、すごく焦ってます?」
開いた口を閉じて、彼は黙った。彼が始めたことだったのに、なぜだか、わたしがそれに身を任せたことにたいそう驚いているようだった。何を言おうか考えているのか、眉を寄せてしばらく目をふせた。
じっくり考え込む彼の姿を見て、わたしは落ち着くことができた。胸から喉に詰まっていた息を外へ逃がせば、身体に寄り添っていた熱が一緒に溶けていった。
わたしは膝を立て、彼の後頭部をなだらかな坂となった太ももへ預けた。
「きみが俺に合わせようとするからだ。俺のすることすべてを受け止めようとするから、逆に不安がだな」
「不安?」
「だって、きみは」
彼の瞳に先ほどの鋭利さはなく、わたしをそこに映して揺れていた。
戸惑っている。わたしが見てきた飄々とした姿からは想像できなかったけれど、今、わたしの目の前にいる彼は、確かにうろたえていた。
「きみはかおりであって、そうじゃなくて」
「あなたが、言ったんじゃないですか。かおりはかおりだって。わたしは」
自分の首に触れる。汗なのか、彼の唾液なのか、水分をふくんでしっとり柔らかくなっていた。
「かおりになりたい」
名前が同じだからだろうか。彼の口から語られる彼女に、わたしは自分を重ね始めているのかもしれない。彼が廊下を通る時、かおりはどこを見ているのか。彼が図書室にいる時、かおりはどこに座るのか。彼がこうして顔を寄せた時、かおりは……。
わたしはやはり、彼の頬に指を添えた。薬品に浸かっていたせいで硬く、当時のままの記憶を残した頬。余計な肉をそぎ落とし、顎にかけて緩い弧を描くそこを確かめるように撫で下ろせば、彼はくすぐったそうにまつげを震わせた。
顎下のくびれたところから、喉仏に指を載せた。不自然に浮き出たそれを、彼は動かしてみせるように息を呑み込んだり、声を発して共鳴させたりした。
「きれいです、すごく」
白い首。なまめかしい筋。
彼が顎を持ち上げると、よりいっそう筋が浮いた。肌から盛り上がったそこは、彼の内側に隠されている秘密の場所だった。
「切れ落ちたままでも?」
吐息が混じったようなうるんだ声で聞かれて、わたしはうなずいた。
「ねえ、宮本さん」
「なんだ」
「出ましょう」
焼け焦げた紙の端のようにいびつな線の、切れた首の皮膚を、わたしは親指で撫でた。そうするためには自然と彼の首に腕を回す形になったけれど、わたしは決して強くこすらないように、圧迫しないように、削らないように触れた。ちぎれた皮膚や肉の感触だけを、指の腹に与えるようにした。
「出るって、何を。どうやって」
「ここをです。学校……旧校舎を。わたしが。わたしの家の二階の、わたしの部屋で。クローゼットの奥に。子どもの頃のものが段ボールに詰められたまま放置されたあそこなら、きっと、あなたがいてもばれない。小さな声なら、夜なら……話していても、何をしていても、気づかれないです」
「きみが出払っているあいだは? 高校を卒業して、その先は? 一人暮らしをして、俺はどうなる」
「……わたしは、ずっとあなたを隠して、持っています。嫌、ですか」
「きみが結婚したら? ほかの男に目を奪われ、愛され、寄り添うところを隠れて見ていろと言うのか」
「そ、そんな先のことなんて」
「そんなの、許さない」
まっすぐにわたしを睨みつけ、静かな声で言った。
「眺めているだけでいい? そんなの嘘だ。何もできなかった口実にすぎない。嫌われたくないだけだったんだ。俺を知って、離れてゆく彼女を見たくなかった。……でも、きみは。きみが」
窓から差し込んでいた光りが途切れ、わたしは見上げる。空の奥にあった月は、流れてきた厚い雲に隠されていた。
「同じことは、もう繰り返さない」
暗闇に沈んだ教室。わずかに届く虫や蛙の鳴き声を聞きながら、閉じたのか閉じていないのか分からない目蓋で、あるはずのない彼の腕がのびてくるところを思い浮かべた。
わたしの首を簡単にぐるりと覆って、両方の親指を、喉の真ん中に添えて。荒く、熱い息をゆっくり落としながら、獣のように夜闇に目を光らせて、わたしの喉を絞め上げてゆくのだ。
「好きだったんだ」
すべての感情がごちゃまぜになった声を、腹の奥底から絞り出すように。
わたしはそれを聴きながら、身を震わせた。遠くなってゆく意識のまま、押しつぶされた喉の奥で返事をする。
「わたしも」
光りを受けて輝く彼は、見惚れてしまうほど、美しく微笑んでいた。