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 了承なくいきなり行動を起こしたとしても、彼はとがめたり、怒ったりしないという確信がなぜかあった。わたしは腰を浮かし、両手を蓋に掛けた。視界のすみで、彼がこちらを見ている姿をぼんやり捉えた。


 きつく閉ざされた蓋を、回す。手だけが滑った。


 手の幅から大きくはみ出すそれは簡単に開けられなかった。わたしは瓶を身体で押さえ込み、腕ごと瓶に絡ませた。無機質な冷たさが肌をこすり、皮膚がねじられる。開かないジャムの瓶に苦戦するように、奥歯を噛みしめてひたすらに蓋を回した。


 わたしの体温と瓶の温度が混ざり合った頃、懐かしささえ覚える、ホルマリンのにおいがした。


「あいた。あいた、みやもとさん」


 詰めた息ごと彼を呼ぶ。丸く開いた中をのぞき込む。鼻や皮膚につんとくる刺激に目をつむりかけたけれど、彼がわたしに優しく微笑み掛けている顔を垣間見てしまえば、それくらいの痛みは我慢できた。


 素手で触れていい液体ではないだろうけれど、わたしの指はゆっくりと瓶の中へ沈んでゆく。温かくもなく、冷たくもない、体温のような生ぬるさがまとわりついた。


 わたしの指は液体の中でしばしさまよったものの、彼が「耳らへんを支えたら持ち上げられるよ」とアドバイスをくれた。わたしは両手を突っ込み、言われた通りに耳のあたりを手のひらで覆い、一息に持ち上げた。


 瓶から出た彼は、てらてらとあやしく濡れていた。雨のようなしっとり感はなくて、人工的な、つやのある機械のようだった。


 支えもなくそのまま持ち上げていたら落としかねなくて、わたしは片手を首の底にやった。切断された断面が触れた。刃物で切り落とされたのか、その円周の皮膚は少しぶさぶさしていた。ゴムのような質感の肉と、硬い骨。血はない。


「セルロイドの人形みたい」

 彼はわたしの手の中で笑った。

「ホルマリンはものを固めるからだろうね。思っていたような感触ではなくて、がっかりしたか?」

「ううん……でも、なんだろう。不思議な感じ」


 ガラス越しだった彼が、生首が、手にある。生首の抱き方なんて知らないので、どう扱うことが正解なのか分からない。持ち上げ続けるのも腕が痛いし、ほこりまみれの机に置くのも悪い気がした。


 そうやって宙に持ち上げ続けていたけれど、彼の首からしたたり落ちる液体がスカートへぽつぽつとしみを作っていて、もういいかとやけになって、わたしは彼を膝に載せた。


 ずっしりと、重い。


「猫のように俺を触るな、きみは」

「生首を人のように扱うのはむずかしいです」

「怖くはないのか」


 わたしは首を縦に振っていた。

 彼があまりにも普通に喋り掛けてくるからだろうか。やはり、最初から彼を怖いものとしての認識はなかった。

 彼はうなずくように息をこぼした。わたしはそんな彼の反応を、安堵しているのかもしれない、なんて勝手に解釈してしまった。


「くすぐったい」


 許されたような心地で、わたしは彼の頬を撫でる。肌の上にとどまっていた保存液をぬぐうように、親指を滑らせた。耳のすきまに入り込んでいたそれも、指先で掻くようになぞった。


 彼はよじる身がないから、されるがままだった。唇を噛み、まつげを震わせ、鼻から声を漏らした。


 彼が言ったように、猫を相手にするようだった。いや、彼は逃げないから犬かもしれない。わたしはおもしろくなって、しとどに水滴をたらす髪に、指をもぐり込ませた。濡れて重く、硬さのある髪だった。


 目に掛かった髪も流すようによけた時、うるんだ彼の瞳がまっすぐ、こちらを見ていた。ホルマリンで濡れているのか、それとも……。


「みやもとさん」

 口からこぼれた声は、思いのほか震えていた。

「かおり」

 彼の瞳の奥が、欲に溺れていた。

「……あ……わ、わたしは」


 めまいがした。今さらホルマリンのにおいに酔ってしまったのか、頭の中がぐるぐると渦を巻いていた。彼の声で紡がれた「かおり」が内側から溶け出して、波打っていた。


「かおり」


 彼が転げ落ちないよう支えていた手が、頬に添えていた指が。口元をくすぐってしまっていた親指が、熱を持った。しびれるようなそれに身体が震え、意識を呼び覚まされた。


 彼の赤い舌が、わたしの親指を舐めていた。


「ひっ」


 声にならない声が引きつった。呼ばれたと思ったのか、彼の目は指先からわたしの目へと移った。それでも彼は行為をやめることはなかった。指の肉と爪のあいだに舌をねじ込むように押しつけられ、彼から分泌された唾液が、すきまに溜まった。


 その体液が皮膚に溶け、肉にしみて、わたしは奥から這い上がる何かを抑え込むように、下唇を噛もうとした。しかし知らないうちにあふれていたわたしの液体が痛みを拒み、唇は自身の唾液にぬかるみ、濡れただけだった。


「指、さっきより近い」


 彼は親指の先だけを舐めていたけれど、そうつぶやいたあとには、わたしの親指を呑み込んでいた。わたしが彼の中へ突き刺したようにも見えてしまう格好で、彼は指を口にふくんだ。


「あ、や、ちが」

「違ってもいいよ。でも、俺はどきどきしてる」


 唇の奥へと隠されたわたしの指は、時折すきまからのぞいた。

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