5表情の少ないあの人は
エリーザ=バルディが彼に初めて会ったのは、エリーザが九歳になる年だった。
お屋敷にはたくさんの従者がいる。
十代半ばの少年少女も多くいて、少女たちはエリーザの遊び相手になってくれた。
ヴァルフレードは、そんなたくさんいる従者のひとりだった。
ちょっと目つきが悪くて、珍しい紅い瞳をした癖のある金髪の少年。
特に目立つこともなく、たくさんいる従者の中のひとりという認識しかなく、エリーザは名前くらいしか覚えていなかった。
エリーザは学校ではおしとやかに、貴族らしくあるように言われている反動か、家では広い広い庭を駆け回り、木登りをしたりするのが大好きだった。
「お嬢様、危ないですから下りてください」
木の下から、侍女がそう声をかけてくる。
この木には何度も登っているし大丈夫なのに、何をそんなに心配しているのだろうか。
エリーザはすぐ下にいる侍女ににっこりと笑いかけた。
「心配しなくても大丈夫よ」
「ですが、サルトリオさんに見つかったら」
執事の名前を出され、エリーザはため息をつく。
たしかに執事に見つかったらくどくどと叱られることだろう。
それは嫌だ。
仕方なく、エリーザはするすると木からおりた。
明るい茶髪の侍女は苦笑してしゃがみ込み、エリーザを見上げた。
「危ないですから、木登りはおやめください。
ほら、お召し物が汚れております」
言いながら、侍女はぱっぱっと服の汚れを払っていく。
確かに着ている服はところどころ黒く汚れている。
彼女も執事も、皆木登りはやめろと言う。
けれど木があったら登りたくなるのが子供心ではないだろうか。
学校でも、男女問わず登りやすそうな木があれば登るのが普通だ。
けれど貴族のお嬢様、という立場からそういう危なそうな遊びは控えて、我慢するのが常だった。
だから家でくらい自由にさせてほしいのに、皆やめろと言う。
「楽しいのに、木登り」
その日もエリーザは庭にいた。
侍女に黙ってこっそり庭に出てきたので辺りには誰もいない。
木の枝の間からこぼれる木漏れ日が、きらきらと輝いている。
エリーザの目の前に、幹の太い大きな木がある。
手の届くところに太い枝があり、幹の丁度いい高さに足をかけるのによさそうなこぶがある。
どこまで登れるだろう。
そこからは何が見えるだろうか。
エリーザは太い枝に手をかけた。
生い茂る木の葉の隙間から、屋敷を囲む高い壁と王都の町並みが見える。
屋敷の自室から見える景色と同じはずなのに、違うものに見えるのはなぜだろう。
部屋より高い、なんてことはないと思うのだけれど。
そこで初めて、エリーザは下を見た。
「あ……」
想像よりも地上は遠く、足が震えてくる。
その時風が吹きわずかに枝が揺れ、思わず幹にしがみつく。
どうしよう、降りられない。
今更になり、誰にもなにも言わず庭に出てきたことを後悔し始める。
誰か来ないだろうか?
庭師の誰かが通らないかと心の中で期待する。
けれど、誰も通らないし足音も聞こえない。
「どうしよう……」
でた声は僅かに震えている。
大声を出したところで屋敷には届かないだろう。
また風が吹いて枝が揺れ、葉がこすれあう音が響く。
普段なら心地いいと感じる風なのに、今はただ恐怖しか感じない。
太い幹にしがみ付いたまま、エリーザはまた呟く。
「どうしよお……」
呟きは、葉がこすれあう音で消されてしまう。
いなければそのうち気が付くだろう。
母からもらった首飾りを服の上からぎゅっと握りしめる。
「お嬢様」
そんな若い男の声が聞こえ、エリーザは下を見た。
木の根元に立ってこちらを見上げているのは、癖のある金髪に鋭い紅い瞳の少年――ヴァルフレードだ。
やった。人が来た。
「おりられなくなっちゃったの」
出た声は震え、涙声になっている。
「すこし、待てますか」
静かに彼はそう言い、エリーザは小さく頷いた。
しばらくして、ヴァルフレードは庭師を連れて戻ってきた。
庭師が抱える梯子を目にして、エリーザは心底ほっとする。
梯子を木に立て掛けると、庭師はひょいひょいとそれを上り、笑顔でエリーザに言った。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
庭師にしがみ付くと、彼はまたひょいひょいと梯子を下りていく。
地面におろされ、エリーザは思わずその場にへたり込む。
よかった、下りられて。
「おけがはありませんか」
ヴァルフレードは言いながら、エリーザの前にしゃがんだ。
「エリーザ様、歩けますか」
てっきり怒られると思ったのに、この人は怒らないのだろうか。
立ち上がりたいけれど立てない。
身体が動かない。
エリーザは首を横に振り、下を俯く。
「失礼します」
そう声をかけられたかと思うと、ひょい、と抱き上げられてしまう。
驚いてヴァルフレードを見ると、彼は微笑んで、
「行きましょう」
と言い、歩きだした。
この人、怒らないんだ。
皆やめろと言うのに。
「今度登るときは声をかけてください。
そうすれば、すぐお助けできますから」
とまで言い出した。
こんなこと言う人初めてだった。
やめろと言わず、止めもせず、本当にヴァルフレードはエリーザが何をやろうとしても止めなかった。
危なくなれば助けてくれる。
「やはりお母様やお兄様によく似ておいでですね」
服を汚して帰ると、執事には呆れた顔をされたけれど諦めたのか怒られることはなくなった。
前はやるなと怒られたのに。
「どうして怒らないの?」
そう尋ねると、執事はああ、それはと言った。
「ヴァルフレードが、自分のいるときだけは好きにさせてもいいかと。
何かあれば助けると言いまして」
「そんなこと言ったの?」
「ええ、ですから彼との約束を破らないようにしてくださいね」
そんなことがあってから八年が過ぎた。
エリーザはもうすぐ十七歳だ。
いくつかの恋もしたけれど、実ったことはない。
そんな時に彼はここに戻ってきた。
姿を見ると心がゆらゆらと揺れ動くのはなぜだろう。
気がつけば、視線が彼を追いかける。
七も年上の人。まだ独身と聞いたけれど。
けれど自分は貴族、向こうはその貴族を守る護衛。
「恋……かしら?」
廊下の窓から庭にいる彼を見つめ、エリーザは呟く。
笑顔は少なく、表情に乏しい人なのに。
「なんでこんなにドキドキするのかしら」
恋はしてきたはずなのに、こんな感覚今まで体験したことがない。
「私、どうかしているのかしら」
彼がこちらを見上げる。
一瞬目が合い、思わずエリーザは窓から身を隠した。
「なにしてるの?」
たまたま通りかかったのだろう、幼馴染みで今はエリーザの侍女であるフローラが首を傾げて言った。
エリーザは首を何度も横に振り、
「な、な、な、なんでもないわ!」
と裏返った声で言う。
すると、フローラは窓の外をちらりと見たあとにやっと笑って言った。
「顔、赤いわよ」
そして手を振り、
「がんばってね」
と言って去っていく。
がんばるって何を。
聞きたいような聞きたくないような。
エリーザは迷いながら去っていくフローラの背中を見送った。