3暇な時間
翌朝、ヴァルフレードは寝台の上で大きな欠伸をした。
エリーザに腕を掴まれたことが頭をちらついて、よく眠れなかった。
シャワーを浴びたけれどまだ眠い。
紺色のスーツに着替え、ヴァルフレードは髪形を整え部屋を出た。
ヴァルフレードたちの使う宿舎は屋敷とは別棟にある。
本館一階と渡り廊下でつながっており、日中であれば自由に行き来ができるようになっている。
部屋を出るのが少し遅れたせいか、従者用の食堂にはほとんど人影がなかった。
「おはようございます、ヴァルフレードさん」
いつも食事の用意をしてくれる侍女のロミーナが微笑んで言った。
金髪や茶髪が多いこの国でも珍しい赤い髪の彼女は、ヴァルフレードが席に着くとすぐに食事を用意してくれる。
「珍しいですね、ヴァルフレードさんが遅いのって」
言いながら、彼女がヴァルフレードの前にお皿を並べていった。
丸いパーネに野菜のインサラータ、腸詰や卵料理という一般的な朝食だった。
それに温かいお茶の入ったカップが置かれる。
「ありがとう、ロミーナ」
「いいえー」
遅かった理由については答えず、そして彼女もそれ以上は触れてこず。
ヴァルフレードは朝食を黙々と食べた。
窓の外はだいぶ明るい。
エリーザも今頃朝食だろう。
彼女は寝起きがすこぶる良くない。
それは昔からだった。
彼女を起こすのは大変だろう。
「ヴァルフレードさん、お聞きになりましたか?」
お茶のおかわりを持ってきてくれたロミーナが、髪と同じ紅い色をした大きな瞳を好奇心に染めてヴァルフレードを見下ろす。
「何が」
「エリーザ様です。
お見合いされてお断りされたそうですが、お相手からお手紙をいただいたそうですよ」
「……断られたのに?」
心の奥底がずきん、と痛むけれど極力冷静にヴァルフレードは言った。
ロミーナは頷くと、
「はい、あちらはエリーザ様にご興味がかなりおありだとか。
何かのパーティーでエリーザ様をお見かけして以来ずっと忘れられない、という話ですよ」
「へえ」
エリーザであればそういう話がいくつかありそうだ。
そもそも七つしかない貴族のお嬢様だ。
結婚すれば貴族の地位は失うが、持参金は相当なものだし、相手の家は貴族の後ろ盾を得ることができる。
エリーザは貴族を離れても自立できるようにと、家事は一通り教え込まれている。
見た目はおしとやかなお嬢様なのだから、かなりモテるだろう。
「でもエリーザ様、浮いた話はいくつもあるのに全然恋人などはできないみたいなんですよね。
というか、作らない?」
「浮いた話……」
ヴァルフレードが呟くと、ロミーナは大きく頷いた。
「はい。
昔からご学友の誰がかっこいいとかそういう話が多いと伺いましたが。
あと以前ご出席されたパーティーでも気になる男性がいたとか。
でも具体的に何かっていう話は聞いたことないですね」
そういえば、幼少の頃、同じ学校の誰がかっこいいとか誰が優しいとか聞いたような気がする。
もうすっかり思い出の底に沈みこんでいた。
ヴァルフレードは食事をすべて平らげお茶を飲んで言った。
「貴族だから、慎重になるんだろう。
結婚前に数人と付き合うのが当たり前とはいえ、貴族がそう何人も恋人を作るわけにはいかないだろう」
「あぁ、それもそうですねー」
太陽のように笑い、ロミーナはあいたお皿をさげていく。
「エーリオ様もご婚約されましたし、エリーザ様は今年で十七歳。
そろそろお相手を決めるころですよねえ。
お嬢様が十八でご結婚されるおつもりであれば、ですが」
「どうだろうな」
と言い、ヴァルフレードは立ち上がる。
ロミーナに礼を言い、ヴァルフレードは食堂を後にした。
護衛対象はまだ帰ってこない。
午前の見回りが済めばまた暇な時間がやってくる。
貴族の屋敷と言うこともあり、敷地も広ければ建物も広い。
だから見回る、といっても屋敷内を回るだけで相当時間を潰すことができる。
けれど午前中いっぱい時間をかけることは不可能だった。
屋敷の侍従や侍女は仕事が細分化され、掃除だけをする者、洗濯だけをする者などに分かれている。
掃除が済めば彼ら彼女らは家に帰って行くが、普段使わない部屋もすべて掃除するので終わるのに午前中いっぱいかかるらしい。
それはそれで大変だろうが、今することのないヴァルフレードにはうらやましくて仕方なかった。
見回りが終わったら訓練をしようか。
引きこもってばかりいたら身体がなまる。
屋敷の庭の一画に訓練場があるので、時おりそこで格闘訓練をすることがある。
とはいえ相手がいない。
ひとりで鍛錬するしかないか。
そう思いながら屋敷を歩いていると、エリーザが侍女と廊下を歩いてくるのが見えた。
そうか、今日は休日か。
平日も休日も関係ないため、その辺の感覚は狂っている。
彼女は廊下の端に寄り頭を下げるヴァルフレードに気が付くと、走り寄ってきて目の前に立った。
甘い、花のような香りが彼女から漂ってくる。
「ヴァルフレードさん、おはようございます」
「おはようございます、エリーザ様」
声を掛けられたら仕方ない。
ヴァルフレードが顔を上げると、彼女はふんわりとほほ笑んで言った。
「もう少ししたら私お出かけをするのだけど、ヴァルフレードさんもいかが?」
「ちょっとエリーザ?」
慌てた声で言ったのは、エリーザ付の侍女であるフローラ=マルケイだった。
彼女はエリーザとは幼なじみであるため、時おりエリーザを呼び捨てにすることがある。
フローラはエリーザとヴァルフレードの顔を交互に見た後、
「連れていくの?」
と戸惑いと驚きが混じったような表情で言った。
するとエリーザは不思議そうな顔をしてフローラを見る。
「だめなの?」
「だめっていうか……エリーザの護衛はいるじゃないの」
「そう……だけど、でもヴァルフレードさん、ミサがいないから時間があるでしょう?
それでお誘いしたのだけれど」
きっと、ヴァルフレードを誘ったことに深い意味はないだろう。
フローラの言うとおりエリーザには護衛がちゃんといる。
であるにもかかわらず自分がついて行くわけにはいかなかった。
彼らの仕事の邪魔になってしまうだろう。
それは避けたい。
ヴァルフレードは首を横に振り、
「申し訳ございません、お嬢様。
ついて行くことはできかねます」
そう答え、頭を下げる。
するとエリーザの目じりが下がり、見るからに哀しそうな顔になる。
まるで子犬のようだ。
そう思ったけれど口には出さず、
「仕事がありますので」
と淡々と言い、ヴァルフレードはその場を離れた。
心臓が激しく鼓動を繰り返している。
エリーザから誘われた、という事実が心に突き刺さる。
なぜ彼女はあんなことを言ったのだろうか。
突拍子もなく急なところはやはり母親と似ているのだろうか。
そうひとり納得をして、ヴァルフレードは屋敷を歩いた。