16甘い匂い
通りにでると少し早いお昼をとるためか、会社員らしき男性たちの姿が多くなっていた。
時折吹く冷たい風に、人々は肩を震わせて歩いている。
服屋に入る前には開店していなかった飲食店の前には、看板が出始めていた。
とある喫茶店の前でエリーザが立ち止まり、窓から店内を見つめる。
その店は最近人気のカフェテリアだ。
開店したばかりだろうに、店内にはすでにたくさんの客が入っている。
エルマー=トロイから何かがおいしいからおすすめだと言われた。
「このお店、雑誌で見たことある。
パンケーキがおいしいって」
ああそうだ、パンケーキだ。
果物や生クリームなどいろんなものを盛り付けたパンケーキがおいしいとか聞いた。
そこまで興味もないし、行くことなどないと思っていたのですっかり忘れていた。
「今なら入れそうだけど……」
などとエリーザが呟いているのが聞こえる。
この店は休みの日やお昼を過ぎるとかなり並ぶと聞いた。
今なら並ばず席に案内されるだろう。
エリーザは入りたいのだろうか。
彼女は店頭に出ている看板に書かれた品書きと、パンケーキの絵を見つめて動かない。
そうしている間にもお客が店内に入っていく。
「……入りたいのですか?」
背後から声をかけると、エリーザはばっとこちらを振り返り目を瞬かせた。
そして首を横に振り、
「そ、そ、そういうわけじゃあ……」
と上ずった声で答える。
どうする?
荷物もあるし、あまり長い時間外にいたいとは思っていないのだけれど。
ヴァルフレードは首を振り、
「まだ時間はありますから、入りましょう」
と言った。
すると、ぱっとエリーザの顔が明るくなる。
「ほんとうに?」
男装していることを忘れているのだろうか?
声が完全に素に戻っている。
ヴァルフレードは黙って頷き、エリーザの腕を掴んだ。
「え、あ……」
店の扉につけられた鐘が、からんからん、と音をたてる。
「いらっしゃいませ、お二人様ですか?」
若い女性の店員とは珍しい。
茶色いワンピースのその店員は、ヴァルフレードが頷くのを確認したあと言った。
「お席にご案内致します」
店内は女性客でわりと混んでいた。
男性客の姿もあるが、圧倒的に少ない。
ひとりならば絶対にこんなお店には入らないだろう。
店内にはパンケーキの甘い匂いとお茶の香りが漂っている。
「ね、ねえ、本当にいいの?」
席に着き品書きに目を通している状況であるのに、エリーザはまだ戸惑いの表情を見せている。
声も相変わらず素のままだ。
ヴァルフレードは品書きを見つめ、
「何になさいますか」
と尋ねた。
するとエリーザは慌てて品書きに視線をおろす。
二枚重ねの厚いパンケーキに、生クリームとチョコレートのソースがかけられたもの、果物がふんだんにのせられたものなどの写真が品書きにはのっている。
さすがに二枚も食べられないし、これをお昼代わりにするつもりもない。
「決まりましたか?」
品書きを置きエリーザへと視線を向けると、彼女は目を輝かせて頷いた。
店員を呼び、注文を済ませ硝子のコップに入った水に口をつける。
「こういうお店って、よく来るの?」
「いいえ」
「そうなの?」
「ひとりで入る店ではないですし」
「……たしかに」
そして、エリーザは苦笑する。
「領地では、お付なしで外に出るのなんて当たり前だったけれど、こちらではなかなか出られなくって」
「そんなことしたら大騒ぎでしょうね」
執事のサルトリオが絶対にそんなことさせないだろう。
跡取りである兄と違い、エリーザは広く顔が知られているわけではないが、時折貴族が襲われることがある。
それを考えたらひとりで外出など許すわけがなかった。
「でも、結婚したらどうなるんだろう?
ひとりでおでかけとかできるかな?」
たぶんそれは無理だろう。
結婚すればエリーザは貴族ではなくなるが、実家との縁が切れるわけではない。
結局護衛がつくのは変わらないだろう。
エリーザは頬杖をつき、にこりと笑って言った。
「家族のために食料買いにいって、料理するの夢なんだあ」
中流以上の階級なら侍女や侍従を数人雇うのは当たり前だ。
そもそもそういう相手でなければ、両親が結婚を許さないだろう。
ヴァルフレードの家だって、侍女はいた。
「他に、したいことはないのですか」
そう尋ねたとき、パンケーキとお茶が運ばれてくる。
エリーザが注文したケーキは、二段重ねに果物や生クリームがふんだんに使われたものだった。
見ているだけでお腹いっぱいになりそうなそのケーキを、エリーザは目を輝かせて見つめている。
対してヴァルフレードの前に置かれた皿には、分厚いパンケーキに生クリームとジェラートがのった飾り気のないものだった。
エリーザは首をかしげ、
「それだけで足りるの?」
と言った。
まさか彼女はこれをお昼として考えているのだろうか?
ヴァルフレードは首を横に振り、
「別にこれを昼食と考えている訳ではありませんから。
充分です」
「え、そうなの?」
その言葉から、エリーザがこれを昼食と考えてたことが伺える。
さすがにどうかとおもうけれど、それを口にする気にはならなかった。
ヴァルフレードはフォークを手に取り、
「食べましょう」
と声をかけた。
食事中は静かに。
というふうに育てられているはずなのに、エリーザは次から次へと話を展開させていった。
食べては話をし、話が一段落するとケーキを口にする。
そんな風なため、ヴァルフレードが食べ終わる頃、まだエリーザは一段目の半分しか食べていなかった。
男装している、ということも忘れているのか、口調もすっかり普段に戻ってしまっている。
そこまでうるさいわけでもないし、屋敷にいるわけではないからいいかと、ヴァルフレードはエリーザが話すことを相槌をうって聞いた。
店を出たあと、ふう、とエリーザは大きく息をついた。
そしてこちらを振り返り、晴れた日の太陽のような笑顔で言った。
「ありがとう、付き合ってくれて」
その笑顔を見て、心の中でゆらゆらとゆれるものがある。
認めてしまえばきっと楽だろうに。
いや、何を?
思わずエリーザから視線を反らすと、甘い、花のような匂いがヴァルフレードを包み込む。
目の前にエリーザの顔があり、不思議そうな表情で、
「どうしたの?」
と言った。
ヴァルフレードは思わず一歩後退り、首を横にふる。
「な、なんでもないです」
出た声が僅かに裏返っているのはきっと気のせいだ。
そうだ、そうに違いない。
エリーザは目をしばたたかせて、
「本当に?」
と言い、歩み寄ってくる。
エリーザから漂う甘い匂いに目が回る。
ちがう、そうじゃない。
ぐちゃぐちゃと頭の中で思考が巡り、ひとつの想いが浮かんでは消えていく。
ヴァルフレードはエリーザから視線を反らし、
「大丈夫ですから、参りましょう」
と言い、エリーザの腕をつかみ歩きだした。




