1懐かしい夢を見た
十六歳になると、当たり前のように貴族の家に奉公に出された。
この国では、高等科の四年生からは義務教育ではなくなるため進学せず働く者もそれなりにいる。
ヴァルフレード=マッツカート自身は高等科の四年に進学し、だから働く、ということと縁は薄いかと思っていた。
同期生の中に短時間労働している者はいるはいるが、そう多くはない。
ましてやヴァルフレードのように貴族の屋敷に雇われるなどかなり珍しいものだった。
貴族はこの国に七家族しか存在しない。
貴族の屋敷は良縁に恵まれやすく、働くのは週に三日だけ、給料もいいということもありかなりの人気がある。
だからヴァルフレードが貴族に雇われたのは運がいいと言うほかなかった。
まあ、十代のパートタイムは進学や結婚などでやめやすい、という事情があるので、そこそこ入れ替わりがあるらしいが。
「初めまして、エリーザと申します」
そう言って頭を下げた少女は、この貴族の屋敷、バルディ家の長女エリーザだった。
ふわふわの金色の髪に、晴れた空のような曇りのない青い瞳。
初めて会ったとき、彼女はまだ九歳だった。
可愛らしい少女はまるで妖精のように飛び跳ねて遊ぶのが好きだった。
庭の木に登り、下りられなくなっているところを見つけたときはどうしようかと思った。
貴族のお嬢様なのに、彼女はとてもそんな感じはしなかった。
黙っていれば可愛いおしとやかな少女だけれど、動けばずっと走り回っているような、そんなお嬢様だった。
「お嬢様」
広い広い庭の大きな木の上で泣いているお嬢様に向けて、ヴァルフレードは声をかけた。
すると、エリーザは驚いた顔をしてこちらを見下ろす。
彼女は大きく太い枝に座り、幹にしがみ付いている。
薄紅色のワンピースを着て、よくこんな木を登ったものだと感心してしまう。
けれど下りられなくなるとか、子猫かなにかだろうか?
エリーザはぐすぐすしながら、
「おりられなくなっちゃった」
と猫の鳴くような声で言った。
困ったお嬢様だ。
「すこし、待てますか?」
そう声をかけると、小さく頷く。
ヴァルフレードはその木を離れ、庭師にエリーザのことを伝えると一緒に木まで戻った。
庭師が梯子を抱えているのを見たエリーザは、幹にしがみ付いたまま表情を輝かせた。
「またずいぶんと高いところに上られましたなあ」
そう言って、庭師は笑う。
「……ごめんなさい」
涙声で言い、少女はうつむく。
「お待ち下さい、お嬢様」
庭師は梯子を木に立て掛けると、ひょいひょい上り、エリーザを抱き抱えた。
そしてゆっくりとおりてくる。
庭師と共に下りてきたエリーザは地面に足がつくと、ほっとしたのか、その場に座り込んでしまった。
「お怪我はありませんか」
ヴァルフレードはしゃがんでエリーザに尋ねると、彼女は首をふった。
「ありがとう」
涙声でエリーザが言うと、庭師は彼女の頭を撫で、
「お怪我がなくてよかった。では、俺は戻りますので」
と言い、梯子を抱えて去っていった。
静かな庭に、鳥のさえずりだけが響く。
どうしたものか。
エリーザは動かない。
「エリーザ様、歩けますか」
すると、少女は首を横にふった。
やはり、動かないのはそういうことかと、ヴァルフレードはひとり納得をする。
仕方ない。
「失礼しますね」
そう声をかけて、ヴァルフレードはエリーザを抱き上げた。
想像よりは軽い。
一瞬驚いた顔をしたけれど、エリーザは大人しくされるがままになっていた。
「ヴァルフレードさん」
屋敷に向かって歩いていると、エリーザが小さく言った。
「なんですか、お嬢様」
「ありがとうございます」
「なんで、登ろうとおもったんですか?」
「登りやすそうだなって思って」
子供らしい、単純な答えが返ってくる。 ヴァルフレードは苦笑して、
「今度登るときは声をかけてください。
そうすれば、すぐお助けできますから」
「ほんとう?
止めないの?
みんなはやめろっていうのに」
やめろと言われて子供がやめるわけないことも、ヴァルフレードはよくわかっていた。
というか、止められてもやってるのか。
なかなかお転婆なお嬢様だ。
「止めませんよ。
ただ、危なくなったら俺が助けますから」
するとエリーザは笑い、
「ありがとう」
と言った。
懐かしい夢を見た。
目を覚ませば室内はまだ薄暗い。
あれから八年がすぎ、二十四歳になるヴァルフレードは、今そのバルディ家の護衛として働いている。
ずっと奥様であるモニカ様付きだったけれど、今年になり長男であるエーリオ様の婚約者、ミサ=アイマーロの護衛を命じられた。
出来ればずっとモニカ様のそばがよかったのに。
モニカ様のそばならば、屋敷にいる時間は少ない。
そもそも奥様はとても自由奔放で屋敷にいる機会が少なかった。
しかも貴族はそれぞれ地方に領地をもっていて、貴族の家長たちは年の半分はそちらで過ごすことになっている。奥様はついて行ってもいいしいかなくてもいい、という感じらしいが、じっとしていることができないモニカ様は嬉々として領地について行き自由に国内を動き回っていた。
けれどミサ付きとなれば、屋敷にいる時間が増える。
エリーザは成長し、今年で十七歳になる。
お転婆なお嬢様は美しく成長し、見合いの話も数多くあるときいた。
それをきくと心がゆらぐ。
七も下の少女なのに。
あの頃は危ないことを平気でやるため、目が離せなかった。
ヴァルフレードも、本当に危険でない限り止めはしなかったけれど。
懐かしい思い出だ。
どれだけ感慨に浸っても、どうにかなるわけではないのに。
年の差もあるし、相手は貴族のお嬢様だ。そして自分はその貴族を守るための存在。
差がありすぎる。
昔と違い、身分の差や出自を気にすることは減っているとはいえ、さすがにこの差をどうにかできるとは思っていない。
ヴァルフレードが屋敷の侍従をやめたあと、ここに戻って来たときには三年が過ぎていた。
彼女は自分を覚えていて、
「ヴァルフレードさん」
と、美しい声で自分を呼んだ。
さらさらした金色の髪に、白磁のような白い肌。青い瞳はまるで晴れた空のように澄んでいる。
昔はかなりの身長差があったけれど、今は頭ひとつ分も違わなくなっている。
まるで物語の中に出てくるお姫様のようにおしとやかに成長した彼女に対して、心が揺らがないわけがなかった。
年の離れた少女に心が揺れ動くとか、どうかしている。
だから、できるだけ彼女に会わないようにし、何人もの女性と付き合った。
誰とも長続きしなかったけれど。
男女問わず、十八を過ぎれば結婚ができるようになるため周りがうるさくなってくる。
実際十八歳を迎えると同時に結婚する女性は多いし、男性は二十歳前後で結婚が当たり前といわれている世の中だ。
二十四になるのに独身であるヴァルフレードに対する風当たりは強い。
けれど誰とも結婚したいと思えなかった。
心の中でくすぶる想いに名前を付けるなら、なんとつけられるだろうか。
こんな想いなど抱いてはいけないと強く思っているのに。
屋敷にいれば自然とエリーザと顔を合わせる時間は増えていく。
「俺は馬鹿か」
ヴァルフレードは暗闇の中ひとり呟き、天井をじっと見つめた。