【00.00:20】
犬のようなもの――少女が『深淵の犬』と称したソレは、低い唸り声をあげながら二人を追って駆けだした。
――ああ、犬から走って逃げるとか無理なんて考え、しなけりゃ良かった。
再び迫りくる青い影を見て、裕は数秒前の思考を苦々しく思う。
あっという間に追いついた深淵の犬の一匹が、口を大きく開けた。
「っ、と」
「うわっ」
少女が急に方向転換。勢いあまって裕は投げ捨てられる形で床に尻もちをついた。
乱暴だな、と思える自分に対してか、その余裕に対してか。裕は少し自分の思考に呆れつつ少女を見る。
彼女の手には先ほどまでは存在していなかった――と思われる――氷の塊があった。
それは氷柱のように鋭利であり、一種の剣のよう。
それを、大きく口を開けた深淵の犬の中へと押し入れる。
口に異物を突然入れられた深淵の犬は悶絶し、その隙に少女が腹へと蹴りを入れて吹き飛ばす。
床にバウンドしたその犬は青い何かをぶちまける。
それを見たもう一匹は怒気を含んだ唸り声を上げ、前足を少女に伸ばす。
しかし深淵の犬の攻撃は想定済みらしく、ひらりと少女はその攻撃を避けていた。
――よく、避けれるなぁ。
尻もちをついたままの体勢で、裕は感心していた。呆然と見ていた、というのが正しいかもしれない。
ただただ眺めるだけの時間。それは決して、追われている状況ではやってはいけない。
少女に攻撃をした犬のその伸ばした腕は、まるで最初から狙いは裕であったかのように真っ直ぐ裕の方へと向かってきたのだった。
あ、死んだわ、と心の中で呟く。
「――はっ」
再び死を覚悟した裕を救ったのは、やはり少女であった。軽く息を吐き、少女が犬の横っ腹に蹴りを入れる。
床と平行を維持して吹き飛ぶその異様な光景を見て、裕は現実逃避をしたくなる――いや、今までも散々現実逃避はしてたが。
少女の非力な蹴り、なんて考えない。この少女は深淵の犬を――裕の前で少なくとも二度は――蹴飛ばしているのだから。
しかもその犬の一匹は廊下に青い何かをぶちまけて、一匹は床と平行を維持して吹き飛んでいったのだ。
そんな威力の蹴りを、非力な少女の蹴りである、と裕は言い切れない。
でも自分より年下であると分かるこの華奢な少女が蹴っ飛ばしたとは信じがたく、現実逃避で正常を保つしかない。
きっと、そう――格闘技かなにかを、体得しているんだろう。
体得するだけで見た目は華奢な少女が犬を吹き飛ばすに至るほどの力を得られるとは到底思えないが、今は体得しているから彼女は強いんだ、と無理矢理納得することにする。
現実逃避もここに極まれり。
「ぼーっとしないで。死にたいの?」
少女の底冷えした声が頭上から降りてくる。その声によって裕は現実へと戻される。
弾かれたように立ち上がった裕は、一瞥だけされて顎で促された方角へ足を動かす。
足を動かし、向かう先を見れば、左右に伸びた廊下が見える。ついでにこのまま真っ直ぐ進んだら、壁だ。
どっちに? と視線で問うよりも早く、少女は「左」と淡々と言う。
左折してすぐに、また壁とご対面する。
行き止まりという訳ではない。引き戸のドアが曲がる前から確認出来ていたのだから、おそらく少女の目的地はこの部屋だ。
そう結論付けたところで「部屋の中に」という少女の声が聞こえた。裕は急いでドアをスライドさせ、その中へと駆けこむ。
――部屋の灯りが、ついている。
その事実に、ほっと裕は息を吐く。助かった、と思う反面、もうしばらくは廊下に出たくないと思った。
裕が胸をなでおろしている間に少女も部屋の中へと入り、そして素早く扉を閉めていた――閉まった直後、ガン、と鈍い音が聞こえた。
思わずびくりとその音に反応し、じっと見る。
鈍い音を立てた引き戸を見ていたが、音はあの一回っきりだった。
今度こそ、緊張の糸を解いてもいいのだろう、と判断した裕は、引き戸を未だに見つめている少女の存在に気付く。
少女は警戒を続けていたが、裕の視線に気づいたのだろう。引き戸から裕へと視線を向ける。
その瞳には、何の感情も込められていない。
首を傾げ、瞳と同じく何の感情も込められていないその声で言葉を発する。
「……何?」
首を傾げる動作は、華奢な体躯と白い肌、漆のような黒髪がさらりと流れる様は箱入り令嬢と言われたら納得しそうな程だった。
残念なのは人形よりも酷い無表情であること――いや、無表情だからこそ余計に現実離れをしていて、一枚の絵になりそうでもある。
ただし、裕は芸術的な観点など持ち合わせてもいなければ、この少女があの不気味な怪物を蹴り飛ばしていたのを見ているため、綺麗、とも、美しい、とも思わない。
不気味なまでに感情が見えないな、と頭の中で思い、結果でいうなら命の恩人に対して不気味とはなんだ、と一人苦い感情になる。
内心では一人百面相をしている訳だが、目の前の少女に悟られないようにと気を付ける。
「えぇっと……誰かは知らないけれど、助かった」
「死んでないなら、別にいい。慣れてる」
淡々と。機械のように紡がれたその言葉に、感情の色が見えなかった。
だが――慣れてる。そう、彼女は言ったのだ。
あんな死ぬかもしれない状況や戦いながら逃げる状況が、そうそうあるとは思えない。
だからこそ、置いてあった手紙の中にあった気になる単語を思い出す。
「――『非日常を愛する同胞』……?」
「愛してないけど、非日常には属している」
感情のない声はそこで区切りだと言わんばかりに息を吐くと、部屋の奥を見た。といっても、マンションの一室を繋ぐような短い廊下の先にある開き戸は閉められているので、彼女の見つめている先はその閉ざされた開き戸なのだが。
しかし裕は少女の視線をたどって、ようやくここが自分のスタート地点――つまり、あのボロボロの教室風の小部屋とは全く違うと驚く。
古めかしいのは同じだが、備品も違えば広さも違う。
この短い廊下の中にだって、扉は二つあるのだ。
正面と左手側に開き戸が、右手側には引き違い戸――のように戸は二戸あるが、引き戸らしい。
それぞれが左右の壁の中に納まるタイプの引き戸みたいだ。
少女の視線の先を辿れば、用事があるのは開き戸の方だというのは分かっている。
だから少女が動く前に、裕は引き戸を少しスライドさせて中を見る。
備品は好きに持ち出して良いとあったのだから、何があるのか把握しておきたい故の行動だ。
引き戸を動かした先は、クローゼットだった。ハンガーパイプには服がかかっている。
男物と女物それぞれ三着ずつ厚手のコートがあり、あとは全て同じ種類の服が並んでいる。
服というより、ボディアーマーである。数は十はありそうなほど。
これはこの部屋に置いてあったものだろうと予想ができる。
誰かがたまたま同じ種類の服――それもボディアーマーなんてものを持っている人がいるとは思えない。
仮にもし一人だけでこれだけの数を持っていたとしたら、その人はボディアーマーが十着くらい必要な何かがあったのだろう。
服の下、つまり床の方にはリュックサックやボディバッグ、ベルトポーチなど大小さまざまなバッグが置いてある。
中身は空っぽさそうなので、荷物を持ち出す際は利用しようと心に留めておく。
クローゼットを軽く見終わった後は、次は開き戸だ。
そう思って反対側を向けば、行動を予測していたのだろう、じとりと感情のわからない瞳で少女がその扉の前に立ち、裕を見ていた。
う、と少し息が詰まる。
少しの間二人の視線は交差していたが、裕が根負けし、奥の引き戸へと歩いて行く。
そして裕はそのままレバーハンドルへ手をかけると、ノックをすることなく扉を開けた。
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