第4話 意見交換会
翌日。
首相官邸。
首相官邸には歴代の内閣において外務大臣を務めあげた人物が集まっていた。
集まった人物は昨日外務大臣経験者として安斎と会話した朝間副総理以外に10人。前に外務大臣を務めてい人である。
「では、今回は対韓政策について意見の交換を行いたいと思います。なお、ここで交換した意見についてはテレビ局や新聞各紙などマスコミへ情報を伝えることをなるべく控えていただきたくお願いいたします。では、細川官房長官から説明があります」
安斎は、そう言って話の進行を細川に任せる。
「はい。総理より話がありましたように私、細川が今回の意見交換の議事進行を行います。では、今回の案件ですが、駐韓大使の一時帰国による今後の対韓政策をどのように行っていくかを考えていきたいと思います。皆様にはお忙しい中迷惑をかけます。では、意見がある方はいますか?」
細川が進行する。
何人かから手が上がった。
「では、外務大臣に就任した順に意見を聞いていくことにしましょうか。では、中野さんから」
「はい。私が大臣をしていた時と状況が違いますが、一応の意見として。私は外務大臣だけでなく防衛大臣も経験しています。そのため、隣国との対立というのは日本の防衛政策上避けたいものだと考えています。しかし、それと同時に別の隣国を仮想敵国としているのでありまして隣国との対立した際に経済的に影響が出ないのであれば私は大使の帰還をさせなくていいものと考えます」
最初に発言したのは、中野一成元外務大臣だった。中野氏は当選回数12回を誇るベテランであり、年は66歳。初入閣は47歳の時に第2次佐藤第2次改造内閣で防衛大臣として入閣した秀才だ。しかしながら、54歳、村上健一内閣の時に外務大臣として入閣したものの時の村上総理と対立したうえ、自身の秘書が関与した政治資金問題で大臣を更迭。それ以後、表舞台にはあまりでなくなった経緯がある。ただ、総理候補でもあったため地元での影響力は依然として残っており当選をいまだに重ねている。
中野の意見をまとめると隣国と敵対関係になっても構わないというものだった。防衛大臣を経験している中野ならではの視点から見た答えだと安斎は思った。安斎自身は中野のことを嫌ってはいない。中野はかつて政治資金問題で失脚した。政治家として政治資金問題を起こすのは論外であると安斎は思っている。しかし、実際に中野は自分の無実を主張し警察にすべて調べてもいいと潔く認めたほどだ。警察、検察の調査が実際に行われた結果として中野自身に関係性は見られないというものだった。しかし、一度起きた事件の影響は計り知れなく結果として中野は失脚することになってしまった。安斎は、たまに中野の議員会館の部屋を訪れることがある。中野のことを政治家としての師匠として慕っているからだ。
だから、中野のこの話を聞いてなるほどと率直に感想を持った。
「次に鴨池さん」
「はい。私の意見はやはり帰還させるべきだと考えます。むろん、向こうに非があるのは確かです。そのため本来ならばこちら側が折れて帰還させるのはあり得ない話だと考えます。しかし、現在世界には190を超える国があります。私達が相手にするのはあの国だけではありません。我が国と韓国が対立した際に最も影響力を、いや干渉してくる国があります。アメリカです。我々としてはアメリカと韓国の同盟、日本とアメリカとの同盟、この軍事同盟の顔を立てるためにも帰還させるべきだと主張します」
鴨池昭三元外務大臣。外務大臣としての在職日数はわずか38日。これは、内閣改造により入閣するもその内閣が38日後に総辞職をしてしまったためによる短命大臣となってしまったわけだ。なお、鴨池氏はこの38日の外務大臣以外に大臣の職に就いたことがないので全体通しても通算38日の大臣である。だが、外務族の族議員であるため外交問題にはめっぽう強い。安斎も鴨池の意見はかなり大事であると思っていた。
その後も、中畑、南雲、村崎、赤羽、笹田、高崎、小林の元外務大臣が自分たちの意見を率直に述べていった。そして、最後に安斎内閣の前の赤井内閣の時に外務大臣を務めていた石川雅博総務大臣である。
「私の意見は中畑元外務大臣や高崎元外務大臣の意見と似ていますが、やはり帰還は難しいと言えます。外交問題は確かにこの国にとって重要な問題となります。しかし、本当に問題となるのは国内でしょう。弱腰だと批判され最悪内閣が倒閣する可能性もあります。ですので、まだしばらくは様子を見ておきましょう。一応、今のところは世論調査の結果で今回のこの対応はある程度評価されているようですから。それに向こうの方もこの件の対応をしているだけの余裕がないのではないでしょうか。金貞鉉大統領が国内から激しい批判を浴びていますし、政権は汚職事件や経済危機などの失策ですでに死に体状態。史上初の大統領罷免にまで行く可能性もあります。今、こちらから動くわけにはいかずしばらくは様子見という形になるでしょう」
安斎は、石川の意見について頷いた。石川の意見はしっかりしている。個人的に安斎は感じていた。安斎自身は今回の会議について意見交換を目的としているため、ここで取り上げられた意見を別段採用しようとは考えていなかった。あくまでも意見交換。安斎自身の持っている意見に対してプラスで他の経験者はどのように考えているのか聞き取ろうとしたわけだ。しかし、石川の意見を聞いて自分の考えが外交のすべてを見ていなかったと思い知らされた。
安斎は、自分が外務大臣を経験していおけばよかったと後悔した。そもそも安斎が49歳という若い年で総理になったのには理由があった。安斎はもともと前の赤井内閣において内閣官房長官を務めていた。隣国との像問題で対処しなくてはいけなかったのは前内閣の時からであるため内閣官房長官であった安斎はすでに像問題解決のために尽力を尽くしていた。しかし、そんな矢先に赤井総理が狭心症の悪化で辞任を余儀なくされてしまった。本人は無理してもやろうとしたのだが、安斎が官房長官として総理大臣執務室の中に入ったときに赤井総理が倒れているのを発見してしまった。幸いなことにすぐに発見でき救急車で緊急搬送され赤井総理は命に別状はなかった。しかし、内閣総理大臣をこれ以上続けることができないと医者からドクターストップがかかってしまった。結果として赤井内閣は総辞職した。そして、後継内閣総理大臣を誰にするのか選ぶ平和党総裁選挙が実施されることになった。安斎は当初は同じ派閥に属している佐藤源次郎環境大臣を支持した。しかし、佐藤が立候補を取りやめ突如として安斎に出馬を促した。安斎は、佐藤のこの行動には不可解な点がありどうして自分を総理にしたのかわかっていない。しかし、佐藤の熱心な説得に折れて総裁選挙に立候補した安斎は対立候補であった郷東恭平防衛大臣と鈴木匠農林水産大臣を下し平和党総裁になってしまった。佐藤は、その翌日に心不全で死去した。安斎は、佐藤自身が命が少ないことを理解していたため佐藤の数少ない政界での盟友であった安斎のために最後の仕事をしてくれたのだと理解した。
その結果として47歳で総理に就任してしまったのだ。
それから2年。安斎は外交問題でかなり苦戦しつつも今日まで総理を続けてきた。外交問題を何としても解決させる。赤井内閣内閣官房長官時代からの懸案となっていた像問題も解決させる。安斎は、自身の内閣の仕事はこのことだと信じ歴代外務大臣との意見交換会を終了したのだった。