海を創ろう
職場の連中と都合を確認し合ってやっと夏休みを取得し、男は妻ともうじき三歳になる可愛い盛りの娘を連れて、海水浴に来た。娘はほぼ初めて身に付ける水着に興奮しているようだ。浮輪を早く使いたいと、海はまだと舌足らずな言葉を繰り返す。
妻は機嫌よいようにしているようなので、男は気にしていない。どうせ海の家で何か買うだろうからと伝えていたが、物足りないと困るし、娘の好きな食べ物があるかどうか解らないしと、オニギリや水筒に氷水など用意している。飲み物は買うばかりでは確かに無駄だから重い荷物になっても持参するしかない。
妻は日焼け止めを塗りたくり、頑なに水着になるのを拒んだ。
――妊娠線があるし、体形が崩れているもの。
出産後、痩せるのに成功しているように見えるのに、女というものは解らない。Tシャツに膝丈くらいの細身のズボン(男にはどんな女物の服にどんな名称が付けられていてもズボンはズボンだ)を身に付けているあたり、充分若々しいし、スマートではないか。
――とにかく、家族がみんなで楽しむが一番だよ。
妻が水着を嫌がるのなら、自分が娘に海で泳ぐのを教えればいいのだ。泳がなくても、水際で妻も足を浸すくらいはするだろうし、娘がはしゃぐ姿を見るのは妻にとっても嬉しい光景のはずだ。
海に着いて、早速場所を取り、シートを広げて荷物を置き、妻が荷物番となり、帽子を被って座った。
「この子にも日焼け止めを塗らなくちゃ」
「まだ子どもだからいいじゃないか」
「後で真っ赤になってヒリヒリ痛いと泣かれたら困るでしょう」
女の子だからな、と男は妻が娘がくすぐったがるのを注意しながら、日焼け止めのクリームを塗ってやるのを待った。塗り終わり、男は娘と浮輪を持って波打ち際に行った。
娘は、お母さあん、と手を振ってみせ、妻もそれに応えた。
浮輪に頭を通して、水に浮くのをキャッキャッと声を上げて喜ぶ娘は、まことに可愛らしい。
「ほら、手足をバタバタさせてお父さんの方に来てごらん」
「ええん、こわいよ」
「怖くないよ」
浮輪を使いながらだが、娘はなんとか足をぱたぱた動かしながら前に進みようを覚えてきたようだ。時折強くなる波で体が上下するので怖がったり、面白がったり、夢中のようだ。
二人で遊んでいるうちに、大波が打ち寄せてきた。波が繰り返されてくるうちの現象の一つだから慌てることはない。今日は晴天で風も弱い。
しかし、娘の浮輪は大波に乗らず、くるりと引っ繰り返った。
逆さまになり足がにょっきりと出た浮輪を眺めて、自力で戻れるか、それとも少し怖がらせてみようかと、男が考えていると、妻が服が濡れるのも厭わずに飛び込んで来た。
大急ぎで、浮輪を掴み、娘を助け出した。
娘は妻の顔を見て、大泣きをはじめた。
「あなたったら何しているのよ!」
怒鳴りつけ、妻は娘を抱え上げ、荷物の方に歩いていった。よしよし、もう怖くないからね、大丈夫だからねと言い聞かせ、娘の顔や体を拭いてやっている。
「ちょっと波で引っ繰り返ったからって大袈裟だよ」
妻が男を睨みつけた。
「あなたが眺めている間にこの子が溺れたらどう責任取るのよ!」
「ちょっとの間くらい平気だし、子どもには危険なことも教えなきゃ」
「波で体が流されるって充分危ないって体験したでしょ。こんなに怯えて泣いているじゃないの。あなたってデリカシーが無いのよ」
涙を浮かべた娘が恨みがましい目で男を見ていた。
「たすけてくれないお父さん、きらい!」
妻から大目玉を喰らい、娘から嫌われ、男は悲しくなった。2対1では敵わない。
イカ焼きや焼きトウモロコシの食欲をそそる匂いが漂っていたが、もはや買ってみんなで食べようと声を出す元気は失われてしまった。
「折角海に来たのに……、おれは叱られに来たのか」
妻が小さく笑った。
「危ないことは注意しましょうでいいじゃない。落ち着いたらまた遊んでらっしゃい」
「こわいのもういや!」
休憩をしたら、娘はもう海に入ろうとせず、妻と砂遊びを始めた。男は独りで沖に泳ぎに行き、ゆっくりと戻ってきた。
お出掛けではしゃいでいた娘は昼寝中。もう娘のお昼ご飯や水分補給は済んでいるわよと、妻が言う。
「私たちも食べましょう。焼きそばかトウモロコシを買ってくる?」
やさしく微笑む妻に心和ませ、焼きそばがいいなと伝えた。
「じゃあ冷たい物でも飲みながら待っていてね」
ああ、家族でお出掛けは悪くないと男はささやかな喜びを感じるのだった。
一週間ほどしてのある日曜日、午後昼寝をしそうもない娘を連れて、男は近所の公園に遊びに行った。
砂場で山を作り、溝を作って川とか言っているうちに何かを思い付いて、「海をつくる!」と娘が言い出した。お砂場道具の中にあったお菓子の缶に砂を入れ、小さなバケツに水を汲んできた。
「すなはまになみがくるのよ」
そういってお菓子の缶に水を注いだ。缶に敷いた砂程度では浜のようにはならず、水と混じり、泥のようになってしまった。
「ああん」
娘は思うようにいかないので口をとがらせて、すっかりお冠になっている。
「お父さんがお家で海を作ってみるから、ここは片付けて、手を洗ってお家に帰ろう」
娘はぱっと顔を輝かせた。
「ほんとう?」
にこにこと期待と尊敬に溢れる眼差しに男はすっかり有頂天。
家に帰宅すると、仕事の資料を読んでいた妻がお帰りと声を掛けた。
「ただいま、これからお父さんが海を作ってくれるって」
娘はお砂場道具の片付けや手洗いもそこそこに部屋をくるくる駆けまわっている。
「まあ、良かったわね」
「うん、嬉しい!」
なんとかお出掛け道具を一通り娘としまい、別のお菓子の紙箱を出してきた。男そこに白い小さめのブロックを敷き、水色の折り紙を出してきて、箱に合わせた大きさに折った。そして、箱の半分を占めるように、水色の折り紙を置いた。
「ほら、海だよ」
しかし、娘は難しい顔をしていた。
「こんなの海じゃない」
ポン、と、箱を投げ出してしまった。
「こら、折角作ってやったのに! それにおもちゃを散らかすんじゃない!」
「お父さんの、うそつきー」
娘は部屋をまた駆けまわった。
「お父さんが一生懸命考えて作ってくれたのに、そんなこと言ったらいけないでしょう」
妻が娘をなだめて、散らかったおもちゃを一緒に片付けた。ちゃんとお父さんに謝りなさいと言われて、娘は「おとーさん、ごめんなさい」と拗ねたまんまで告げた。
ふて寝同然に娘は昼寝をはじめた。
「この子が本物志向だとはおもわなかったよ」
思わず男が呟くと、妻はきっちりと言い返してきた。
「あら、あなたに似たんでしょ。わたしの妊娠中に飛行機に乗れないとか、脂っこいものを控えなきゃいけないからと一人で好きに出掛けてたじゃない。ラーメンを食べるのには札幌に行かなくちゃとか、豚骨ラーメンは博多に行かなきゃ本物は味わえないとか言って実行しているのだから。ブロックと折り紙で海だなんて、誤魔化されていると腹を立てたんでしょう」
下手に言い返すと、何十倍と言葉が返ってきそうで、男は沈黙した。
海の水のように塩辛い気分だった。