5 裏山にて
秋を迎えようとしている山は、まだ青いが、少しずつ暖色を帯び始めている。
人の手は入っているが、過保護ではない。道は有るが、歩くのがやっと。
実のなる木は、村の近くに。少し奥に入ると、雑木は杉へと姿を変える。足元はふんわりと、羽毛のような感触。
三人はトゥエル村の裏山に来ていた。皮のブーツに腐葉土が付くのを嫌がりながら、コルトは看板を見つけて読み上げる。
「熊出没注意。ルグネスが喜びそうだ」
「その護衛さんって、強いの?」
いつものブーツはヒールもあるし、山歩きには適してない、とコーデュは安物のブーツを買って履いていた。選択は正解だったと言えよう。フラフラと足元がおぼつかないコルトを最後尾に、ウェル達は順調に山を登っていた。
「強いさ。試験は好成績で通過した」
「まぁ、試験と実戦は、違いますからね」
「悪口を言うと、ルグネスに殺されるかもしれないぞ」
「その後、ルグネスさんも殺されますよ、母上に」
山奥でもこの兄弟は言い争いを止めない。それはそれで仲がいいのかもしれない、とコーデュは思う。
「う、レンディア叔母様か……叔母様とルグネスだと……判らないな……」
「どういう王妃様なの、それ」
「いや、とにかく凄いのだ、ウェルの母は。ほんとに、もう」
「へぇ……」
何がどう凄いのかは全く判らないが、とにかく凄いらしい。コルトの表情から見ても判る。
「ともかく、ルグネスは私がまだ幼い時から、ずっと一緒に暮らして来た男なのだ。実の兄弟のようなものだとさえ思っている」
「……ところで……そのルグネスさんは、貴方が窮地になると来るんですか」
「来るだろうな。でないと、護衛の意味が無い」
「へえ……」
「なんだ、何を疑っている」
コルトが不愉快そうに顔を顰めると、ウェルは言った。
「だって、貴方の後ろに、熊さんが居ますよ」
「何? は、冗談はよせ。お前も下手だな、人を脅かすならもっと、大きなリアクションで……」
コルトは笑いながら振り返り、そして。
熊と目が合った。
「あ」
「熊さん」
コルトは笑ったまま、コーデュは無表情のまま固まり、そしてウェルはその間にもそそくさと逃げる。
ややして、熊が唸り声を上げた。その声に、やっとコルトは現状に気付く。
「うわぁあああああああ、助けてくれえぇーーー、ルグネスーーー!!」
コルトは叫んで走り始めた。その後ろを、熊が咆哮を上げて駆けて行く。コーデュはその間に、木に登った。ウェルがそうしていたからだ。
「あ、あれ? あれ? ルグネス? ルグネスさーん?」
コルトは逃げながら名を呼んだが、護衛らしい人物は現れない。その間にも、熊はコルトを追い掛け回している。
「ルグネスー! てめぇ、クビだー!」
コルトは叫びながら他の二人を探した。全力疾走しながら上を見ると、二人は木の上で傍観に徹していた。
「うおおーい、ウェル! コーデュ! 助けてくれ!」
コルトが必死に訴えるが、ウェルもコーデュも実に冷めた様子であった。
「貴方が襲われている隙に、僕達は逃げ延びます。せいぜい頑張って生きて下さい」
「ななな、何を言う、薄情者っ」
「愛の世界を作るんでしょう。さあ、愛するコーデュを守るため、熊と戦うんだ!」
「そりゃあ、私だってな、コーデュのためなら死ねるが、なんかこれは違う気がするぞ、なんか!」
コルトが叫ぶ。しかし、余所見をしたのが災いした。コルトは木の根に脚を引っ掛け、盛大にすっ転ぶ。
「はぶべ!」
腐葉土に頭から突っ込んだコルトは、慌てて起き上がるが、時、既に遅し。コルトの眼前に、熊の顔があった。
「ひっ」
いよいよコルトも終わりか……と、ウェルがコーデュに目配せする。
コーデュはスッと右手を伸ばし、熊に狙いをつける。方程式を組立て、その式がコーデュの手の平から漏れ、僅かに光を発し……。
と。
コルトの背後から、小さな黒犬が飛び出した。黒犬は熊の鼻先に噛み付く。
熊は咆哮を上げて、犬を振り払おうとした。が、熊が腕を振ると、黒犬の姿は霧散する。
「……召喚獣」
「召喚獣だって?」
コーデュの呟きに、ウェルは驚いた。となれば、近くに召喚師が居るという事だ。
更にどこからか黒犬が現れた。良く見ると、それはいわゆる「犬」という種族の生き物では無い。毛並みは霧のように揺れ、頭部には三つ目の金の瞳。
霧の体を持つ、牽制を主たる用途とされる召喚獣……フェロネスだ。
フェロネスは飛びついては消えを繰り返し、ついに熊を追い払った。熊の姿が見えなくなると、フェロネスそのものも姿を消した。
「……た、助かった」
体中に土や落ち葉を付けたコルトが、安堵の溜息を漏らす。
安全である事を確認して、ウェルとコーデュは木から降りると、コルトに歩み寄った。コルトは汚れを叩き落としながら、ウェルを睨みつけて叫ぶ。
「貴様、私を見殺しにしようとしたな!?」
「滅相も無い。人を悪党みたいに。的にしようとした事は否定しませんが」
「充分な悪党だ!」
「ごめんなさい、コルト。攻撃魔法を使うつもりだったんだけど、やっぱり的が安定しないと、当てにくくて……」
「本当かい!? 本当に助ける気、あったのかい、レディ!?」
さすがにコルトもこの時ばかりは、惚れた女に詰め寄った。コーデュは必死で頷く。
「何せ、こんな時代でしょ。私も攻撃魔法は取得してるけど、殆ど使った事が無いの。式を組み立てるのはすぐ出来るんだけど、実際に撃つのは結構、難しくて……特に、標的が動くと誤射する可能性も高いし、下手したら、コルトを苦しまないようにあの世に送れたかも……」
「そ、それはそれで、レディの手にかかって死ねるんだから、いいが」
「そこはいいんですか」
ウェルが思わずつっこむ。どうもコルトが怒っている部分は、ウェルのために死にそうになった、という点で、コーデュの事はいいらしい。
「全く、実の兄を餌にするとは……なんて奴だ。お前は本物の守銭奴だ。冷酷非道だ」
「なんとでも言って下さい」
コルトはしきりに罵言を浴びせていたが、当のウェルは全く気にかけていないようだった。
「第一、ルグネスの奴、こういう時のために雇っているというのに、何をしているんだ。後で痛い目に合わせてやる、おのれぇ〜……」
などとコルトは呟き続けていた。
と。
「皆さん、大丈夫でしたか」
三人に声をかける者があった。
見れば、壮年の男が立っていた。暗い茶色のローブに身を包んでいる。クセのある、手入れをしていないような黒い長髪に、少し伸びた髭。腰には皮の袋、右手には樫の杖。足元には、先ほどのフェロネスが一匹。
「……助けて下さったのですか」
ウェルが尋ねると、男は苦笑して答えた。
「この季節、熊達は少し気が立ってましてね。軽く脅してやれば落ち着くんですが。私も困っているので、フェロネスに見回りをさせているのですよ」
「という事は、貴方は、召喚師ですか」
「はは……自称、ですがね」
ここではまた、熊が出るかもしれません。狭いですが、私の住居においでなさい。
男はそう言って、三人と共に、山を登った。
熊に襲われた場所から、そう遠く無い場所に、その小屋は有った。
丸木で作られた、こじんまりとした小屋だった。母屋に、納屋が二つ。畑に井戸。その付近を、やはりフェロネスが何匹か、歩き回っていた。番犬として使っているのだろう。
召喚術は、魔術としては邪道の部類に入る。
シュレグ一族が、方程式を編み出し、その末に開発したのが、一連の召喚術である。
召喚、とは言うが、実際には何かを呼ぶ訳ではない。
元となる生物と、起動に必要な物質を魔術的に結合する。そうして出来上がったものが、召喚獣と呼ばれているに過ぎない。いわば、生物を交えた錬金術の事だ。
例えば、フェロネス。彼らは犬と、闇鉱石、蝙蝠等を合成して作られる。合成時に、彼らの神経及び精神に、ある種の式を書き込めば、術者の思い通りに動く駒になる。
ただ、下等動物の脳に書き込める式には限りがある。複雑な動きをさせるには、要領が足りない。一般に、If……(○○であれば、××をする)といった式を、数個組み合わせる程度。残りは自由領域になる。
それは戦時下においては非常に有効な魔術であったが、平時になると、途端に動物愛護の観点から非難を浴びる事になった。何せ召喚術の最高峰は、人間を材料とする事も有ったという。政府は公に彼らを弾圧し、召喚術をみだりに使ってはならぬ、と法で説いた。
そして召喚術と召喚師は、時代の波の中で、消滅していったのだった。
ただし明確な罰則等は無いため、研究所でも未だに取り扱っている。生活のため、密かに使い続けている者も多少は居るらしい。彼もその一人なのだろう。
「私も、召喚師の子として生まれて、色々と大変でした。両親は何とか魔術研究所に入れたんですが、私はどうにも落ちこぼれでしてね。そりゃあもう……苦労しましたよ」
男はベイトリオン・クレッセルと名乗った。
召喚師の血を引き、召喚術を会得したが、魔術研究所に入れなかったため、社会からもつまはじきにされた、と彼は語る。
「魔術師でさえ、近頃は民間に通用しませんからね。召喚師なんてなおの事で……仕方なく、こうして山ごもりをして、静かに暮らしているんですが……それでも、やはりダメなんでしょうかね。こうして見知らぬ人が、わざわざ訪れるという事は……」
ベイトリオンは苦笑しながら、三人を家の中に招いた。
小さなキッチンと、リビング。狭い母屋には、テーブルが一つと、椅子が四つ。
それだけの家だった。ウェル達は椅子に座らせてもらう。
(一人暮らしみたいだけど、それにしては椅子が多いわね)
コーデュは四つも有る椅子に首を傾げたが、普通家具屋はセットで売るし、多めに買ってしまっただけだろう、とそれ以上は疑問に思わなかった。
ベイトリオンはコーヒーを用意しながら、ウェルに尋ねた。
「それで、トゥエル村の人々は、私にどうして欲しいと?」
「随分と察しがいいですね」
「私に会いに来るのでもない限り、あんな奥まで人は来ないですからね。それにこれまでも何度か、あちこちの村から追い出されていますから。そういう気配は良く判る」
「……安心して下さい。僕らは、事実関係の調査に来ただけです」
「調査?」
出来上がったコーヒーが、カップに注がれる。
「はい。彼らは貴方がどういった人物なのか、気になっているようです。自分達に害が無いようであれば、このままの状態を維持するつもりだと思いますよ」
「害、ですか」
「……妙な儀式を、行っているとか。モンスターを拾っているとか、そういう噂が流れているようで」
「ああ」
ベイトリオンは小さく笑って、椅子に腰掛けた。ついでにラスクの入ったかごを、テーブルに置いて言う。
「あながちデタラメでもないですね。儀式は、召喚術の事でしょうし。拾っているのは、モンスターではありませんが」
「では、何を?」
「怪我をした動物をね、保護しているんです」
ベイトリオンは、窓から納屋を指差して言った。
「助かる範囲の動物は、一度保護して、その後で自然に戻しています。助からない動物は、可能な限り、召喚術で蘇生させているんです」
「何故?」
「山暮らしは、一人では寂しくてね。それに、召喚獣は、私を自然の驚異から守ってくれる。お互いの利益になると思ってしているんですが……」
「そうですか……」
「まぁ、疑われても仕方ありませんがね……召喚術などを使っていると」
ですが、私はここで静かに暮らせれば、それでいいと思っているのですよ。
ベイトリオンがそう言うと、ウェルも頷いた。
「では、その旨をトゥエル村に伝えておきます。きっと彼らも、貴方を追い出したりはしないでしょう」
「ありがたい」
ベイトリオンは深く頭を垂れて、それから尋ねた。
「ところで、どうして貴方は、額に……?」
「ははぁ。冒険旅行に。それは羨ましいですな。いや、若いという事は良いですね」
しばらくの間、ウェル達とベイトリオンは話をした。あくまで、王子云々の話は伏せて、ウェルは旅の目的と、広告収入の事を話す。その間、コルトは珍しく無口に、コーヒーを飲むだけだった。
「今の時代、何をするにもお金は必要ですしね。逆に言うと、お金さえあれば、多くの事はどうにでもなる」
「……そうですね」
ベイトリオンは苦笑しながら頷いた。ウェルの話は金の事ばかりで、ベイトリオンでなくてもウンザリするだろう。ウェルもその自覚はあるようで、特に気にしていない様子だ。
三杯目のコーヒーを飲み干して、ウェルは「さて」と立ち上がった。
「つまらない話ばかりして、申し訳有りません。長居をしてしまいました。僕らも、日が暮れるまでには帰らないと」
「いえいえ、いいんですよ。私も久しぶりにおしゃべりが出来て、楽しかった」
ベイトリオンはにっこりと笑って、コーデュを見る。
「美しいお嬢さんにも会えましたしね」
コーデュはその視線に少し困ったが、小さくおじぎを返す。
「清楚な方だ。どこか品格を感じますね。そのピアスも、高価そうですし……もしや、何処か名家のお生まれでは?」
「いえ……私は孤児でしたので……」
「そうですか、それは失礼を……。皆さん、お体に気をつけて、旅行を楽しんで下さいね」
麓まで、フェロネスに送らせましょう。
ベイトリオンとはそうして別れた。
フェロネスが前を歩いている。ユラユラと風に揺れる、紫の体に案内されながらの帰り道。
「コーデュは、本当に名家の生まれだったりしてね」
ふいにウェルが呟いた。コーデュはきょとんとして、ウェルを見る。
「どうして?」
「エルフは貴族が多いし。確かにそのピアスは高価そうだ」
「よしてよ。第一、仮にそうだったとしても、何の意味も無いわ。私は孤児として育ったし。今更何も変わらない。私、もう一九だもの」
コーデュはそう言って、溜息を吐いた。
物心付いた時にはコーデュは孤児院に居た。
メルティーナ王国の偏狭。小さな田舎村に、彼女は捨てられていたらしい。国を挙げて魔術研究を行っているメルティーナに捨てられたのは、コーデュにとって幸運だった。豊かな時代の孤児院である。学校にも行かせてくれたし、食事も部屋もきちんと用意をしてくれた。
コーデュは孤児院に来た時、既にピアスをしていたという。魔術の基礎は既に出来ていて「これは」と思った院長が、魔術学院に進学させてくれた。
瞬く間に全課程を終え、コーデュは国立魔術研究所に進もうとした。しかし、そこでは孤児という境遇があだとなった。彼女は履歴書でふるい落とされ、試験すら受ける事は出来なかった。
それからしばらくは、親が居ないという事を憎み、引きこもっていた。
ある時、友人も孤児と言う理由で職が見つからない、と泣きじゃくっていた。その時に、コーデュは多くの事を考えた。
理不尽という言葉に、甘えてはいないか。
孤児院は孤児である限り、その入居者を保護してくれる。コーデュは二〇歳を迎えるまで、職に就かなくても、食うに困らない。
何も出来ない、何もさせてもらえない。そう思い込んで、甘い殻の中に閉じこもっているだけではないのか。
コーデュは友人と約束し、もう孤児院に戻らない事を決め、そして職を探した。
境遇を乗り越えてこその人生ではないか。境遇に甘えていてはいけない。もう少し先に進んでみて、それでだめなら、それは境遇ではなく、自分そのものがダメなのだ。
コーデュはそして、境遇もさるものながら、自分に圧倒的に欠けている物がある事を知るに至った。
彼女は、魔術の事しか頭に無かったのだ。
社会を生きていく方法、効率的な消費の仕方。何もかも知らなかった。
それでは、境遇が変わったとしても同じだ。やはり自分は、受け入れられないだろう。
コーデュはそれらを手に入れるべく、アルバイトに徹していた。そして、いつか魔術の才能を、存分に発揮する機会を求めて。
今更生まれなど、どうでもいい。貴族だろうがなんだろうが、関係無いと思っていた。
「……」
コーデュはふと、隣が静かなのに気付いて、コルトを見た。彼はとても不愉快そうな顔をして黙っている。
「……コルト? どうしたの?」
「……うん? ……あぁ、レディ……」
コルトは慌てて笑顔を作ると、どもりながら答えた。
「その、……あぁ、そうだ。ルグネスをどうするか、考えていたんだ」
「あぁ、護衛さん」
「結局、何の役にも立ちませんでしたね、その護衛」
ウェルが言うと、コルトも唸る。
「どうしたものか……。後で問いただしてはみるが」
「今のうちにクビを切っておくのも手ですよ。護衛なんていうのは、居るだけで人件費を吸い取る負債ですからね。損切りするのも可能ですし、貴方がその護衛の今後に期待するなら、投資と呼べなくも無いですが……まぁ、良く話し合う事ですね」
「うむ……しかし……ううん」
コルトはしきりに悩んでいる様子だった。
コルトを一人きりにさせてやれば、そのルグネスというのも、顔を出してくるのだろう。今日は部屋を三つ取るか、とウェルが呟いていると、フェロネスが小さく吠えた。いつの間にか、村の明かりが近くにあった。




