作者⇄読者というコミュニケーション行為
前回は、朝と夜の描写を用いて、記述とその解釈が、必ずしも恣意的ではなく、作者の側にも読者の側にも、意味を確定する権限が与えられていないことを見た。今回はその前提の下で、小説の解釈における作者と読者の役割を、順次分析する。
文章をランダムに生成する一部の分野を除いて(自動筆記など)、執筆行為は何らかの形で、コミュニケーションである。これは日記についても当てはまり、日記とは、過去の自分からの、現在の自分に対するコミュニケーションであると言える。このとき、言語はその目的から自立しているのではなく、依存している。そして、コミュニケーションは双方向的であるがゆえに、この依存関係は、作者による単独解釈も、読者による単独解釈も、禁じている。というのは、一方が自己の考えのみにもとづいて文章の意味を確定することは、もはやコミュニケーションではないからである。このことは、特に例を挙げるまでもなく、「あなたの発言の意味は私が確定する」と主張することが、明らかに意思疎通の拒絶であることから、容易に判明しよう。
このような見方を採用するならば、作者の執筆行為と、読者の読解行為とは、分離したものではなく、むしろお互いに補完的であり、協同的である。したがって、この協同における作者の役割を考察することが、解釈に対する作者の位置づけの端緒となる。
まず、文章におけるコミュニケーションは、その背景を考慮に入れない限り、作者から始まり、読者の側へと向かっている。ここで「その背景を考慮に入れない限り」というのは、執筆の先行原因を考慮に入れると、どの地点が出発点か、曖昧になるからである。例えば、BがAに、テーマを与えている場合である。このときは、Bによるテーマの決定が、何らかの形でAの執筆行為に枠組みを与えるわけであるから、A→Bであるとは言えない。さらにこの事案を拡張して、Aが先に「きみのために小説を書くから、何かテーマをくれ」と述べた場合には、Bのテーマ決定の前に、Aの依頼が先行するわけであるから、B→Aであるとも言えず、A→B→A→Bということになろう。このように、「その背景を考慮に入れない限り」という限定は、重要なものである。さもないと、考察の対象が、際限なく広がることになってしまう。
次に、作者→読者と始まったコミュニケーション行為は、読者の読解行為によって、双方向的なものになる。このことは、現代の商業出版全盛期には忘れられがちであるが、小説の本来的な起源は、おそらく、ある特定の個人が文章を書き、その文章を仲間内に配って、その仲間が何らかのリアクションを行う一連の趣味ないし技芸と考えられる。この推測は、インドの古典が何百年にもわたって集団によって作成され続けたこと、ホメロスの詩についても、その可能性があること、『源氏物語』も、宮廷内部で回し読みされていたと考えられることなどから、間接的に証明されうる(そもそも、流通が発達していない段階では、仲間内で回し読みする以外に、手段がない)。このように捉えるならば、小説というコミュニケーション行為は、双方向的であり、一方通行的に見えるのは、現代の(商業出版の)特殊な事情によるものである。また、この特殊な事情に関しても、評論やファンレターなどを考えれば、基本的には双方向的であると言える。口述においてもそうであり、母親が子供におとぎ話を語るのは、少なくとも潜在的に双方向的である。
さて、このとき、読者→作者の流れは、作者→読者の流れほど、明確ではない。作者→読者は、文章の作成とその交付によって為される。それ自体が、コミュニケーションであり、規模を無視するならば、ほぼ一様であると言えよう(潜在的読者の可能性を考慮すれば、そもそも読者が現時点で存在しなくてもよい)。これに対して、読者→作者の流れは、かなり多様なはずである。まず、読者→作者のコミュニケーションは、読者が作品を読み、その作品の内容を解釈することから始まる。日常におけるコミュニケーションと同じで、受け手が話し手の言葉を、何らかの有意なものとして受け取らなければ、コミュニケーションは開始しない。例えば、AとBがお互いに「おはよう」と挨拶するのは、先に発せられた「おはよう」を、受け手が朝の挨拶であると認識し、同じ反応を返すからである。Aが「おはよう」と言ったにもかかわらず、その言葉の意味がBに読み取れないならば、コミュニケーションは不成功であり、別の対応が行われることになろう。
この解釈の開始を起点として、読者は様々な反応を見せる。まず、途中で読むのを止めるかもしれないし、あるいは読んだだけで、すぐに忘れてしまうかもしれない。内容が気に入るならば、感想を寄越すかもしれないし、あるいは逆に、内容が気に入らないので、批判をするかもしれない。実のところ、筆者の見解では、解釈において読者の権限の方が強い(ように錯覚する)のは、この多様性に起因しているからであり*、解釈において読者の方が優越的な役割を果たしているからではない(本の売買については、買い手=読者の方が優越的な役割を果たしているかもしれないが、それは解釈論とは別の問題である)。
かくして本稿は、この読者の多様なリアクションの中で、作者がどのような役割を演じているのか、という問題に言い換えられる。次回は、それを考察したい。
* リアクションが多様ならば、やはり読み手の方が権限において優越しているのではないかと、そう考えられるかもしれない。しかし、リアクションの多様性は、解釈レベルでは、何らの優越性も与えない。例えば、Aが隣人Bに「おはよう」と挨拶したとき、Bにはリアクションの多様性が与えられている。「おはよう」と返すことも、無視することも、あるいは「何だ、いつもは俺に挨拶しないのに、頼み事でもあるのか?」と訝ることもできる。しかし、Bにリアクションの多様性があるからと言って、受け手Bの方が話し手Aよりも優越的地位にあるのだとは、到底言うことができない。ABは、明らかに対等である。ただ、後発のBの方が、時系列的に自由度が大きい(Aは既に態度決定してしまっているが、Bは未着手である)、ということに過ぎない。