解釈の多様性と恣意性の違い
言葉と意味との関係は、恣意的であるか否か。これは、難問である。常識的に、すなわち学問的にではなく直感的に答えるならば、言葉と意味との関係は、恣意的ではなく、社会的である、となろう。これの主張するところは、言葉の意味を個人で確定することはできず、必ず他者の承認がなければならぬ、ということである。
この主張が一見正しそうに見えるのは、以下のような場合である。ある男が、朝の挨拶のつもりで「こんばんは」という言葉を使ったとしても、複数の他者がそれを夜の挨拶であると受け取ったときは、発言者の意図と無関係に、夜の挨拶となる。つまり、男の発言の意味は、男の意図ではなく、他者によって確定される。
けれども、話はそこまで簡単ではない。もっと別の例を見よう。男性Xが、朝方、隣人のYらに、「こんばんは」と挨拶して、そのまま去ってしまった。このとき、Yらは、Xの口にした言葉が、夜の挨拶ではなく、朝の挨拶を言い間違えたものと解するであろう。すなわち、Xは「おはよう」と言うつもりで、「こんばんは」と言ってしまったのである。この解釈の場合、Xの「こんばんは」の意味を確定するのは、Xの意図でもなければ、Yらの意図でもない。そうではなく、現在が朝であること、それにもかかわらず、Xは「こんばんは」と挨拶したこと、このふたつの事実である。
以上のことから、次の事柄が分かる。
1 言葉の意味は、発言者が任意に確定することはできない。
2 受け手が任意に確定することもできない。
これらのテーゼは、言語哲学の簡単なおさらいに過ぎない。重要なのは、発言者を書き手に、受け手を読み手に置き換えても、それが成立するということである。すなわち、書き手が小説の解釈(各文の意味)を任意に決定できないように、読み手がそれを任意に決定することもできない。この事実のうち、前者はしばしば強調されがちであり、後者はしばしば見落とされがちである。私的な書き方ができないように、私的な読み方というものも、実際には成立しない。
しかし、それでは解釈の多様性とは何なのか、という疑問が生じるであろう。けれども、以上の事実は、解釈(正確に言うと、書き方と読み方)の多様性と、矛盾しない、解釈が多様であるという主張と、解釈は恣意的であるという主張は、同じではないからである。簡単な例を見てみよう。ある小説の中に、次のような文章があったとする。
「今朝は、雨が降っていた」
この文章の解釈は、複数可能である。まず、「今朝」が何時のことなのか、それは読み手に任されている。6時くらいかもしれないし、もっと早い可能性もある。あるいは、もっと遅い可能性もある。結局のところそれは、この場面で、読者がどのような情景を想定するかという問題に帰着する。
けれども、読者が文章の意味を勝手に決めているわけではない。なぜなら、この文は夜の8時くらいのことで、外は晴れていたのだ、とは解釈できないからである。つまり、解釈の多様性には、どこかしらに、限界が存在している。そして、このような突飛な解釈をする読者は、自己の言説を根拠づけえない。なぜなら、そのような読者は、「自分は日本語とは別の言葉を使いたい」と主張していることになるからである。すると、この読者の発言は、他者にとっては理解不能となる。そもそも「夜の8時くらいのことで、外は晴れていた」という解釈自体が、日本語の意味通りなのかすら、分からないからである。もしかすると、この読者は「夜の8時くらいのことで、外は晴れていた」という発音あるいは文字群で、「今は水族館にいる」ということを意味させたいのかもしれない(当該読者は、この危惧を払拭することができない)。端的に言うと、コミュニケーション拒否なのである。
このことは、書き手にも言える。「今朝は、雨が降っていた」という事実を伝えるとき、「夜の8時に外は晴れていた」とは、表現できない。書き方と読み方の多様性は、書き手はどのようにも書けるし、読み手はどのようにも読める、ということではない。ある遊び幅の中で、表現や読解のずらしを行うことができるだけである。
もちろん、その遊び幅の境界線は、容易には確定されえない。そして、この境界線付近に生じる問題が、解釈論争なのである。ひとつの文章について、複数の解釈が主張され、かつその解釈が学術的に分析されるのは、多くの場合、この境界事例である。
したがって、作者の解釈における意義は、この遊び幅の中で、作者がどのような役割を果たしているか、と言い換えることができよう。次回は、その役割について考察したい。