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表現行為としての小説論  作者: 稲葉孝太郎
問題の提起
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作者の死

みんなはそれぞれ最善のやり方で眠った、それぞれが自分の秘密の夢を抱いて。夢は人間のようなものであって、あるものは互いに似ているが、まったく同一ということは決してない。私は一人の男を見たと言うのは、今日、流れ去る水の夢を見たと言うのと同じく、正確ではないであろう。これではその男が誰だったか、あるいはどんな水が流れていたかを知るのには不十分だ。夢の中で流れていた水は、ただ夢見ていた人だけのものだ。その夢見ていた人について何も知らなければ、われわれは流れている水が何を意味するのか決して分かるまい。だから、われわれは夢見た人から夢見られたものへ、また、夢見られたものから夢見た人へと、答えを求めてあちこち移動することになる。


ジョゼー・サラマーゴ〔著〕=谷口伊兵衛〔訳〕『修道院回想録』155頁

 神は6日間で世界を創造し、最後の1日を安息日とした。世界を創造するとは、事物を生み出すことに留まらない。世界の諸事物にどのような法則を与えるのか、これが創造主としての神の仕事である。「物が有る」ことと「法則が有る」こととは異なる。プラトンが提起したこの問題は、2000年以上の歳月が経過した今も、人類を悩ませている。

 「仮にたったひとつの統一理論があったとしても、それはただの方程式の集まりでしかない。いったい何が、これらの方程式に火を吹き入れ、そしてそれによって記述されるような宇宙を作ったのか?」(ステファン・ホーキング[著]=林一[訳]『ホーキング、宇宙を語る』1988年、174頁)

 作家の仕事もまた、その規模を捨象するならば、ひとつの世界を創造することである。これを物語と言う。物語は観念の集合であると同時に、その諸観念を結合する法則の集合でもある。「雨が降ると悲しくなる」という一文は、「雨」「降る」「悲しい」という観念に、作家が一定の関係を与えたものに他ならない。

 キリスト教文化圏の人々は、神に関する物語を持っている。『聖書』である。旧約か新約かという点は、ここでは重要ではない。大切なのは、西洋の解釈学が、この『聖書』に端を発しているということである。

 『聖書』が神から与えられた書物であるとするならば、それは神の意思の反映である。したがってそこには、「唯一の正しい解釈」が成立するはずなのだ。かくしてキリスト教文化圏の解釈学は、この「唯一の正しい解釈」を探求する道を歩み始めた。解釈の多様性というものが考慮されたのは、プロテスタントが登場してからのことである。『聖書』の解釈は聖職者の専権であり、その頂点には教皇がいた。彼らは「唯一の正しい解釈」を保持するため、教皇は誤らないという原理を打ち立てる。教皇不可謬説がそれである。

 神学的解釈学は、ヨーロッパに劇的な影響を及ぼし、明治維新を通じて今日の日本にまでその勢力圏を広げた。そんな中、解釈学が最も苦心したのは、「文章を文字通り読むと不合理な結論が生じる」という問題であった。神学者たちは細かい定義や手法を導入し、これを克服しようと努めた。その方法論は、現代でも日常的に使われているものである。本来の意味よりも狭く解釈する制限解釈、広く解釈する拡張解釈、比喩的解釈等々……。彼らの目標は「唯一の正しい解釈」を見出すことであり、それは現在でも到達されていない。むしろ高等批評の登場により、その根幹が揺らぎつつさえある。

 これはほんの数ヶ所を変じるだけで、およそ小説にも当てはまる。神は作家自身であり、聖書は彼の小説であり、信者は読者である。ただひとつだけ違うのは、文学は教皇を持っていないので、「唯一の正しい解釈」が不可能となっていることだ。そういう意味で、我々は最初から万人司祭=万人読者なのである。解釈は個々人に開かれており、その真偽を決する術は用意されていない。

 そしてこの点において、神学と文学の決定的違いが生じる。それは、創造者の意思の問題である。プロテスタントがいくら万人司祭を説いても、『聖書』を神の意思から切り離して読むということは是認されなかった。『聖書』の解釈の多様性は、神の意思を蔑ろにしてよいということを意味しなかったのである。これに対して、文学は全く異なる回答を与えうる。すなわち、「作者の意思は決定的ではない」ということだ。重要なのはテキストと、そのテキストに対する読者の態度である。ある人々はそのように主張する。

 「神は死んだ」。有名なニーチェの言葉であるが、これに倣うならば、「作者は死んだ」のである。作者は自己の作品の運命を知らない。ある作品の作者が「公式解釈」(authentica interpretatio)を行っても、それは「数ある解釈のうちのひとつ」に過ぎない。無論それを崇拝する読者がいることは、また別の話である(比喩的に言えば、そのような人々は神の声を聞く信徒に似ている)。


 だが、本当に作者は死んだのだろうか?

 亡霊となってどこかを彷徨ってはいないのだろうか?

 そんな亡霊を追う人々を、世間は「文献学者」あるいは「歴史家」と呼ぶ。

 彼らはなぜ亡霊を追うのか、次回はそのことについて書いてみたい。

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