別れ
何の衝撃もやってこなかった。
恐る恐る目を開けると、少女が自らの前髪を切っている姿がそこにあった。
「なっちゃん?」
「わたしは、いつも……こうして……」
少女は泣いていた。
前髪をばっさりと切り、少女は涙を拭った。人形のように整った、美しい顔は、すぐに落ち着きを取り戻したかのように笑った。
「いつも、見たくない、見えてないって、自分に嘘ついてた。でも、仕方ないよね、見えるんだから。立ち向かわなきゃいけないんだよね」
「君は……」
少女が、夏乃の目の前まで来て、同じ目線になるようにしゃがんだ。
「わたし、君の叔母さんの幽霊なんかじゃないよ」
「なっちゃん……」
「なつの……夏野、ひより」
少女がふわりと笑った。
「え?」
「わたしの、名前」
夏乃の体から、力が抜けていく。勘違いだったのだ。
なつのという名前に、縛られていた。それが彼女にとって、苗字なのだとは考えもしていなかった。
ひよりは、夏乃の額にでこピンを食らわす。
「そもそも、フルネームを聞かない君が悪い」
「フルネームを言わない君も悪いよ」
「隠してたからね」
夏乃は眉を顰めた。
「なんで?」
「家出中だもん、家に帰されると嫌だから」
それより、とひよりは玄関に視線を送る。
「来たよ」
ピンポーーーン……
チャイムが鳴った。
亮介が上がって来たのだろう。
ピンポーーーン……
夏乃は立ち上がって、玄関に足を踏み出した。
「なつくん、ダメ」
ピンポーーーン……
ひよりの制止を聞かず、夏乃は玄関にたどり着いた。
もしかしたら、と彼は考えていた。
赤く見えていたのは、彼の服の色かもしれない。
オートロックが開錠されたようには見えなかったが、光の加減でそう見えてしまっただけで、実は停電していてもオートロックは外れるのかもしれない。
ピンポーーーン……
夏乃は、そっとドアに手を触れ、ドアスコープを除いた。
*
目を閉じたのがいけなかったのか。
亮介のピストバイクの前輪が、ぐらりと大きく動いた。
「やべ……」
腕の力で強引にハンドルを戻して、慌てて持ち直すが、車道に大きく飛び出してしまった。
「あ……」
そこで、彼の意識は途切れた。
*
ドアスコープを除いた先には、亮介がいた。
「夏乃ー?」
ドアの前で、自分の名前を呼ぶ友人は、赤く染まっていた。血の色だ。
頭をひどく打ちつけたのか、大きな裂傷がある。そこから、どくどくと血が流れているのが見えた。
右腕は歪に折れ曲がり、左大腿の肉が抉れ、白い骨が飛び出している。
医学的に、歩けるわけがない傷だ。
それは、きっと素人でも判断できるだろう、と夏乃は思った。
「おい、いないのか? おい!」
ドンッ、と亮介がドアを大きく打ち付けた。夏乃は思わず後ずさった。
「なつくん、離れたほうがいい」
「ああ」
ピンポーーーン……
夏乃は何度も鳴るチャイムを無視して、玄関から離れ、部屋の中に戻った。
ベッドに腰を下ろして、口元を押さえる。
「どうして……亮介……」
ひよりが夏乃の携帯を手に取った。
そっと目を閉じて、そして……
「亮介さん、あの電話、そうだったんだ」
小さく呟いて、涙を流した。
「なつくん、変な電話が掛かってきたの、覚えてる?」
「ああ」
「あれ、亮介さんからだったの」
*
体が動かない。
目が覚めて最初に思ったのがそれだった。
そして、次に感じたのが、激しい痛み。痛みなんてものじゃない。体が引き裂かれたんじゃないかと思うような感覚だ。
亮介は、何とか目だけを動かして、自分の体を確かめた。ひどい傷だ。
周りで人が騒がしくしている。うるさいな。少し静かにしてくれないかな。
救急隊員の顔が目の前に迫って、何事かを語りかけてくる。息が臭い。そう言ってやりたかったが、言葉は発せられなかった。
携帯、どこかな。
亮介は痛みを堪えて左腕を必死に持ち上げる。動いた。胸ポケットを探って、携帯電話を取り出す。
夏乃と、話したい。
初日に事故に遭うなんて、と笑ってほしい。
夏乃に、会いたい……
遠くで雷鳴が、聞こえた気がした。
*
「うそ、だろ……」
「霊視って、知ってる?」
いわく、物に触れて、その持ち主や関係者の強い念を感じ取る能力だと。
そしてそれは、携帯電話やテレビなどの電波とよく似ているらしい。亮介の念が、夏乃の携帯電話に残っていると。
「君、ほんとに何者?」
「うちの実家、神社なの。それも本物の能力を持った、由緒あるとこ」
「マジ?」
「マジ」
激しくなっていたチャイムの音も、ドアを叩く音も止んでいた。
「いなくなった?」
そう、夏乃が言ったとき。
カッと、窓の外が光った。ベランダに、人影が映った。それは、紛れもなく、友人の変わり果てた姿だった。
「なんだ、いるんじゃん」
いつも通りの笑顔で、亮介が笑う。
「開けてくれよ」
いつも通り、明るく、人懐こい笑顔だ。
「夏乃……」
夏乃は、泣いていた。
開けてやりたい。
抱きしめて、いつも通り笑って迎えてやりたい。
亮介が帰ってきたら、一緒にやりたかった事が、たくさんある。
「その子が、なつのちゃん?」
涙を流す夏乃から目を逸らして、亮介はひよりを見た。
夏乃を守るように立ちはだかる姿を見て、ふっと、笑みが零れた。
「なんだ……心配する事なかったんじゃん」
そして、彼は首を捻った。
「そしたら、誰が夏乃をいじめてたんだ?」
「……君が」
「え?」
ずっと黙っていた少女が、口を開いた。
「君が、なつくんを一人にできないって思う気持ちが、心配する気持ちが、歪んだ形でなつくんを追い詰めてるの。君の強すぎる気持ちが、なつくんを呪っているの。このままじゃ、なつくん、君に殺されるの!」
まっすぐと、亮介を見つめる。亮介は驚いたように目を見開き、何かを考えるように黙り込んだ。
それから、しばらくして、
「俺、夏乃が好きだったよ」
「亮介……」
「俺と違って、いつも一人でかっこいいなって思ってた。俺、周りにいつもいい格好してさ、でも、そんなことして集まってくるヤツとは、やっぱなんか壁があって」
でも、と亮介は笑った。
「夏乃は、違うから。俺から近づきたいって思って一緒にいたんだ。憧れてた」
「俺だって、お前に憧れてる!」
夏乃はベランダに近寄る。
鍵を開けようと、手を伸ばす。
「ごめんな、俺、初日に事故っちゃって、ご当地キティちゃん買えてないんだ」
「だから、いらねーって……いらねーから、亮介……戻ってきてくれ……」
夏乃の視界を、涙が奪う。
「夏乃、先いってるわ」
「待て……!」
ようやく鍵を開けて、勢いよく窓を開けた。夏乃は、涙を流して消えていく親友に手を伸ばした。
その手は、空を掻いた。