雷鳴
夏乃は、宅配用のバイクを走らせていた。
夏休みは、アルバイトに明け暮れて過ごそう。そう決めて、週休一日でシフトを組んでもらった。店長は、「労働基準が……」と少しばかり文句を言ったが、長期休暇以外はなかなか働けない夏乃のために、目を瞑ってくれたようだ。
あの電話から、一週間が過ぎている。
あれから、あのような電話は掛かってこなかった。
何事もなく過ぎていく夏休みに、あの体験の記憶が薄れていく。
「大越君、ちょっと早いけど、あがっていいよ」
配達から戻って、代金をレジに入れていると、店長が夏乃に声を掛けた。
店舗を任されている割に、若い店長は、アルバイト達と談笑しながら作業をしていた。
「はい」
夏乃は短く返事をして、携帯電話のディスプレイを見た。
勤務終了まで、十五分ほど時間があった。だが、今からもう一件配達に行くと、勤務時間が過ぎてしまう。
店名がプリントされたジャケットを脱ぐ夏乃に、店長がふと思い出したように、
「それ。間違って作っちゃったから、持って帰って」
そう言って、カウンターの上の箱を指差す。
「照り焼きスペシャルと、ジャーマンチーズのハーフ。好きでしょ」
「ありがとうございます」
夏乃は、大学に入ってから、ずっとこの店で働いている。
時給が良いのも魅力なのだが、こうしてたまに店長がピザを持って帰らせてくれる。
間違えたと言っているが、週に一度のペースで持ち帰りのピザを渡してくれるので、これが店長からのまかないなのだと気づいた。それを指摘すると彼は、
「学生の一人暮らしって、俺も経験あるんだよねー」
そう言って笑った。
帰り支度をして、ピザの入った箱を持つと、出来立ての熱さを感じた。
夏乃が配達から帰ってくるのを見計らって、焼いておいたのだろう。
「店長、お先に失礼します」
「はい、お疲れー。明日は休みだから、また明後日からよろしくね」
他のスタッフと作業をしながら、店長が手を振った。
店を出て、夏乃は駐輪場に向かった。納車したばかりのカワサキの大型車を停めているのだ。自宅から歩けない距離ではないが、夏の暑さに負けて、ついついバイクで通勤してしまう。
(ハタチすぎたしなー。歳か?)
夜だというのに、外は茹だるように暑い。
早く帰ろう。そう思って、ジーンズのポケットからバイクの鍵を取り出した時。
ブルーの車体の真横に座り込んでいる人影があるのが、夏乃の目に止まった。
ふと、夏乃の足が止まる。
(まさか……)
以前遭遇した、スーツ姿の男性が頭を過ぎる。
人外の者だったなら、どう切り抜けよう。
じりじりと近づいていく。
人影が、立ち上がった。
「早くない?」
「……なっちゃん、か」
白いワンピース姿の、少女だった。
クリーム色のサマーカーディガンを羽織って、長い黒髪は二つに結んでいる。
可憐な女子高生。だが、彼女が普通の女子高生と違うのは、
「せっかっく結んでるのに、前髪うっとうしくないの?」
顔を隠すように伸ばした前髪が、湿気で顔に張り付いている。
「別に。今日は、何もらったの?」
なつのが、ピザの入った箱を興味深そうに見つめる。
「……照り焼きスペシャルと、ジャーマンチーズのハーフ」
「毎回、照り焼きなんだ」
「テッパンだろ」
「ジャーマンチーズって何?」
「ジャガイモと、ソーセージとチーズ。これがまた旨いんだよね」
箱をなつのに渡して、夏乃はバイクのエンジンを掛ける。
Ninja1000。そのフロントスタイルに惚れ込んで、やっと手に入れたバイクだ。
「そう言えば、なっちゃん、ここまで歩いてきたの? なんで?」
「別に、なんでも……」
夏乃はヘルメットをホルダーから外して、バイクに跨る。
「なんで?」
「……なんとなく、なつくんが心配だっただけ」
なつのは、真剣な眼差しで夏乃を見る。
「……変なの」
乗りなよ、と夏乃はヘルメットをなつのに差し出す。
「なつくんのは?」
「すぐそこだし、大丈夫でしょ」
なつのは何かを考えるように、ヘルメットを見つめて、受け取った。
「安全運転してね」
結局、少女は一週間、夏乃の家に滞在している。
昼間はどこかに出掛けているようだが、夜になると帰ってくる。何度か夏乃がアルバイトで帰りが遅くなったことがあったが、その時は玄関先で待っていた。
夏乃は、どうしたものかと考えたが、最終的に少女に合鍵を渡した。
「なんか、若い女の子締め出してるみたいだよ。喧嘩かね?」
同じ階の住人の声が、夏乃の背中を押した。
一緒に暮らしてみて、何かが盗まれたりする心配もないだろうと判断した結果でもある。
(なんで今日は、店まで来たんだろう?)
アクセルを捻りながら、夏乃はサイドミラーを見る。
黒髪が大きくなびいているのが見えた。
「なつくん、止めて!」
夏乃は慌ててアクセルを緩め、ブレーキを握った。
自宅まで後数十メートルの、人通りの少ない道だ。
「どうしたの、いきなり」
「静かに……」
少女は声を押し殺して、夏乃を制止した。
夏乃の腰に巻きついている腕に、力が入る。
「何があっても、何を見ても、声を出さないで」
彼女はそう言って、バイクを降りた。
ふと、足元に冷気が当たった。真夏だというのに、冷たい空気が、辺りを覆う。
「な……!」
声を上げかけて、夏乃は口を噤む。
少女に言われた言葉を思い出した。
少女はバイクに片手を置いたまま、道の先を見つめている。
夏乃も、思わず目を凝らす。
そこに、白い動物のようなものが見えた。
(なんだ、あれ……)
少女はゆっくりと、だが慣れた動作でカーディガンのポケットから、数珠を取り出した。一対の鈴がついている。
それを、頭上に掲げて、振り下ろす。
リイーン、と澄んだ音が響いた。
白い動物が消える。
「……なっちゃん、あれって?」
「まだ!」
思わず声を出してしまった夏乃に、少女が一喝する。
白い獣は、いつの間にか夏乃の背後に迫ってきていた。そして、鋭い爪で夏乃に襲い掛かった。
その瞬間、夏乃は右腕に焼け付くような痛みを感じた。
なつのが反対側から腕を引いてくれなかったら、背中をまともに抉られていただろう。
リイーーーーーーン
少女が、獣の目の前に数珠を突き出した。
白い獣は、犬のような姿から、猫、鼠と姿を変え、消えた。
「……もう大丈夫、かな」
そう言って、少女は息をついた。
「何、今の」
「狐狗狸」
「は?」
「コックリさんって、知らない? なつくん、誰かに呪われてるみたいだね」
「呪いって……まさか……」
夏乃の頬を、汗が流れた。
さっきまで冷たかった空気が、暑い、真夏の夜の空気に戻っていた。
空が光る。激しい雷鳴が、鳴り響いた。
*
家に帰り着いてから、夏乃は痛む右腕の手当てをしようと、腕を持ち上げた。
狐狗狸に抉られたと思った腕には、傷が無い。
だが、確実に痛みがある。
「霊的な傷だから、身体的には問題ないはずだよ」
「これが本当のゴーストペインか」
ゴーストペインとは、本来、四肢のいずれかを失くした患者が、自分の腕が未だそこにあるように感じる感覚のことだが、少女に言わせると、
「今のなつくんとまったく逆のことが起きてるわけよね。身体的な傷に対して、霊的には何も問題が無いって状態」
「なっちゃん、君、何者?」
痛む右腕を押さえながら、夏乃は目の前の少女を見る。
「見えちゃう体質なの。ついでに触れちゃう」
そう言って、前髪を無意識に弄る。
そうか、と夏乃は思った。
見えてしまうから、極力見ないために、前髪を伸ばしているのだろう。
「触れるついでに、祓えちゃうんだ」
「祓えないよ。憑かれないように持ってる数珠が、すごーく霊験があるだけ」
そう言って、少女は数珠を大切そうに掲げた。
プルルルルルルル……
なつのの肩が振るえた。夏乃は、携帯電話を取り出して、ディスプレイを見る。
あれ以来、二人は電話の音に敏感になっている。
「……亮介からだ」
一週間、何度か夏乃は亮介に電話を掛けたが、一度も彼は出なかった。
走行中で気づかないのか、旅行中に充電が切れてしまっているのか。
何度掛けても出なかった友人から、やっと掛かってきた。
「もしもし」
『あ、夏乃? 元気?』
「あー、うん。たぶん」
『なんだよ、なんかあったのか? ……まさか』
亮介が、息を呑むのが聞こえた。
『今、最中だった?』
「ばかやろー」
亮介は明るい声で笑う。
「ちょっと怪我したんだけど、元気かな」
『お、早速バイクでこけたか?」
「あー、そんなところ」
なんと説明すれば良いのかわからず、誤魔化した。
それから、亮介が今どこにいるのかを聞いてみたが、
『お土産話として、会った時にはなすわ』
「なんだそれ」
『まあまあ。それじゃ、また近いうちに連絡する。夏乃……』
「なんだよ?」
『腕、お大事にな』
「おー」
電話を切って、夏乃は嬉しそうに顔を綻ばせた。
夏休みに入って、まったく連絡の無かった友人と、短い会話だがやっと話せたのだ。
「なつくん……」
少女が、思いつめたように夏乃の携帯電話を見つめている。
「ん? 何?」
少女は口を開いて、出しかけた言葉を飲み込んだ。
なんでもない、と少女は膝を抱えた。
部屋の外では、激しい雷の音が鳴っている。
「はたたがみ……」
少女の声が、聞こえた気がした。