ケータイ
『え? 今、なんて言った?』
携帯電話越しでもわかる程に、亮介は狼狽えていた。無理もないだろう、と夏乃は思う。
なぜなら、現在、夏乃の暮らすワンルームマンションの一室に、件の少女がいるのだから。
『……そうか、そうか』
「亮介?」
反芻するように頷いているのが目に見える。
『夏乃も、大人になったんだな。女の子とお泊りかー』
「って、違う!」
耳まで真っ赤にしながら、全力で否定する夏乃の声を聴いて、亮介は面白そうに声を上げた。
彼は、夏乃をからかうことが好きなのだ。
『ま、冗談はこの辺にしような』
「お前が言い出したんだよな?」
『その子、なつのって名前なんだよな』
「またスルーか」
諦めたように肩を落とす夏乃をよそに、亮介は逡巡するように唸った。
『しかも、家出中の女子高生で、幽霊が見えちゃう、と』
「ああ」
『なんか、さ、幽霊が見えるってゆーより、その子も幽霊なんじゃないかなーと俺は思うんだけど』
「は?」
予想もしていなかった見解に、夏乃は声を上げる。いや、夏乃自身は、その考えに至っていた。
だが、亮介までが、そんな事を考えるとは思っていなかったのだ。
ありもしない妄言を、鼻先で笑ってくれると思っていたのだが……
『だから、夏乃の叔母さんの幽霊なのかもって』
「やっぱ、そうなるよな」
夏乃には、霊感なんてものはない。
生まれてこの方、一度も心霊体験をしたことも、虫の知らせとやらを感じたこともなかった。
強いて言うのなら、あの少女と出会った時の、あの体験だけだ。
もし、あの少女が自分の叔母であるのなら、彼女の姿と声を夏乃が感じられるのは、血の繋がりがなせる技なのだろうか。
と、ここまで考えて、夏乃は頭を振る。
「いやいやいやいや。ありえないから、幽霊とか!」
『なんで? 見たんだろ、こないだ」
「そりゃ、こないだのは人じゃない何かって感じだったけど……」
結局、なつのと名乗った少女は、夏乃の自宅まで着いて来た。夏乃の右腕に、腕を絡ませながら、しつこく宿の提供を迫ってきた。
そして、夏乃は折れた。
「ちゃんと、あったかかったし、人だよ」
『そうか』
変な会話だな、と思った。
人か、それ以外かなんて、普通は考えないし、それをまともに取り合ってくれる友人も、普通ではないのかもしれない。
『夏乃、今夜、大人の階段昇るんだな』
「だ、か、ら! 何でそうゆう方向に話が進むんだよ」
『あはは、ごめんごめん。で、今は? なつのちゃん何してるの?』
「風呂入ってる……けど! 亮介、冗談は言うなよ?」
厳しいな、と亮介は笑った。
よくよく聞いていると、亮介は屋外で電話をしているようだ。受話口の向こうから、車やバイクの走る音が聞こえる。
「あれ? 外にいんの?」
『ああ。帰ってすぐに準備して、さっき出たとこ。今はK市に向かう途中』
K市には、隣県に続く国道がある。その国道を上って、彼は東から全国を回るのだと言った。
「亮介、気をつけてな」
『おー、心配すんな。ご当地キティちゃんは無事届けるぜ』
「だからいらねーって」
『はは、じゃ、またなんかあったら連絡するわ。夏乃も、進展あったら連絡しろよ』
おう、と返事をしてから、夏乃は慌てて亮介に文句を言おうとした。だが、電話はそこで切られてしまった。亮介の楽しそうな笑い声が、聞こえた気がした。
夏乃は軽く悪態をついてから、スマートフォンの画面を見た。
待ち受け画面は、いつの間にか、亮介によって、猫をモチーフにした可愛らしい国民的アイドルキャラクターに切り替えられていた。
「あいつ……くそ、気づかなかった……」
「なにそれ、きも……」
物音も立てずに、なつのが背後に立っていた。
振り向くと、普段は夏乃が部屋着にしている、グレーの上下揃いのスウェットを着た少女が、夏乃の携帯電話を覗き込んでいた。洗い立ての髪は後ろでくるりと纏め上げられている。
「お前な、人の携帯勝手に見ちゃだめでしょ」
「ごめん。でも、お前って言うの、やめて」
夏乃は口を開きかけて、何かを言おうとして、止めた。
自分の名前を口にするのは、なかなか恥ずかしい。それを向ける相手が、別の誰かだとしても。
「なっちゃん」
「……なんでそうなるの?」
「俺も夏乃なんだよ。だから、ややこしいから」
そう、と少女はつぶやいて、何かを考えるように口元に手を当てた。
「じゃあ、なつくんって呼ぶ」
「なんでそうなるんだ?」
「わたしだけ名前で呼ばれないのは、不公平な気がする」
よくわからないが、彼女なりの理由なのだろうと、それ以上夏乃は突っ込まなかった。
それから、夏乃は簡単な夕食を用意して、二人で食べた。
(食事もするし、風呂も入るし、幽霊なわけないよなー)
夏乃が作ったカルボナーラを、美味しそうに食べる少女を見て、心の内で頷いた。
茹でたパスタにレトルトのソースを絡めて、生卵を乗せただけの、手間も暇もかかっていないものだが、なつのは全て平らげてから、きちんと両手を合わせて、礼を言った。
「おいしかった。初めて食べた」
「カルボナーラ、食べたことなかったんだ?」
うーん、と少女は首をかしげた。
言葉を選ぶように、ゆっくりと目を閉じて。
「こうゆう麺料理が、初めて、かも」
「マジで?」
「うん」
それから、と、少女は夏乃の携帯電話を指差す。
「それ、なに?」
「まだキティちゃんのことを言うか」
少し呆れたように、夏乃はため息をつく。
なつのが首を振って、
「そうじゃなくて、その機械」
「え、スマホだけど」
「……そう、何をするものなの?」
少女の言葉の意味が、いまいちよく掴めず、今度は夏乃が首を捻った。
現代っ子の必需品、携帯電話を知らないと言うことだろうか。それとも、まだ高校生世代には、スマートフォンが珍しいだけなのか。
ふと、先ほどの亮介との会話が、夏乃の頭をよぎった。
「携帯電話って、電話するのが最重要目的のはずだけど」
「それで? そんな小さいのに電話できるの?」
夏乃は頭を抱えた。文字どおり、豪快に。
初めは、霊感少女だと思った。
次に会った時には、電波少女だと思った。
そして今は…
「もしかして、もしかするのか?」
この少女が、叔母であるなつのの幽霊なのでないかと思い始めている。
いや、もともとこの考えは夏乃の中にあったわけで、だが、確信にも現実味にも欠けていたのだ。
プルルルルルルルルルル……
突然、携帯電話が鳴り出した。
(いや、携帯って、突然鳴って当たり前のものだったけ)
驚いているなつのを横目に、携帯電話を手に取り、画面を確認する。ディスプレイには、非通知の文字が映し出されていた。
出ようか出まいか、悩んでいると、着信音が止まった。悪戯か、間違い電話だろうと、食卓の上に戻しかけた時、
プルルルルルルルルルル……
再び、着信音が鳴り響いた。
出るべきか、と思いかけたが、夏乃は手を止めた。
「……出ないの?」
「俺、非通知は着拒してるはずなんだけど……」
わからない、という風になつのが眉を寄せた。
「非通知って設定になってる電話からは、かかってこないようになってるんだよ」
夏乃は、友人とあまり過密に連絡を取るタイプではない。
そのため、非通知設定の電話や、アドレス帳に登録しているメールアドレスから以外のメールは、全て拒否するように設定してある。何かの拍子に、誤って設定を外してしまうようなことはしない。
「出てみたら?」
「……でも」
着信音が、止まった。
ほっと夏乃が胸を撫で下ろした。
プルルルルルルルルルル……
電話に出るまで、何度でもかかってきそうな気がして、夏乃は応答のアイコンを押した。
「……もしもし?」
ザーーーーーーッ
砂嵐のような、妙な音が聞こえた。
「もしもし、誰ですか、こんな時間に」
なつのは、心配そうに夏乃を見ている。
「悪戯……かな」
電話を切ろうとした瞬間。
ひゅーひゅー、と、息が漏れるような音が聞こえた。
何度も、何度も、何度も、その音は聞こえる。
耳を済ませて聞いていると、その音が不規則に発せられている、人の声だとわかった。
声が出せないのだろうか。何かの事故に巻き込まれた人が、間違えてこの番号に掛けてきたのだろうか。
夏乃は、真剣にその声が意図する内容を聞こうとした。
「もしもし? 大丈夫ですか?」
ひゅー…ぜぇ……ひゅー……
「声が出ないんですか? 大丈夫ですか?」
ひゅー…ひゅー……はっ…ぁ……
「もしもし?」
ひゅっ、と息を呑む音が聞こえた。瞬間。
『苦しい苦しい苦しい苦しい! 助けて助けて助けて助けて! 寂しい寂しい寂しい寂しい!』
「え……」
突然のことに、夏乃は凍りついた。
しゃがれた声で、叫び続ける声が、受話口から漏れている。
なつのが、はっとしたように口元を手で押さえる。
『な…………つ……の……』
電話は、そこで突然切られた。夏乃はしばらく放心したように、動けなかった。手足が痺れて、目の奥がチリチリと痛む。
やっと動けるようになって、着信履歴を確認するが、何度もかかってきていた非通知の文字は、どこにもなかった。