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なつの


「来週は試験期間だから、この講義でみんなに会うのは最後だな」


 壇上では、若い助教がファイルをまとめながらそう言っていた。

 黒板には、お世辞に上手いとは言えない画力で、筋組織の構成図が描かれている。彼の講義は、基本的には教科書や黒板を使わず、気が向いた時にだけイラストを描いて説明をするというスタイルだ。

 つまり、居眠りをすると講義の内容はまったくわからない。

 夏乃は眠い目をこすりながら、先程まで自分が突っ伏していた机を素早く点検する。涎の跡は見つからなかった。


「夏休みは先輩達が卒論で忙しいと思うから、手伝ってやれよ。来年はお前達の番なんだし、勉強にもなると思うぞ」


 夏乃の通う大学には、医療系の専門学科が多く、国家試験を三月に控えた四年生は、夏休みに卒業論文を作成する。

 大抵は、膨大な量のデータを取らないといけないような研究内容なので、後輩達は毎年、ささやかな謝礼ーージュースやファーストフードをおごってもらえることが多いーーをもらいながら卒業論文に協力するのだ。

 今年も汗を流しながら、どんな結果になるかもわからないデータを取られるんだな。

 夏乃は、眠気で霞がかかったような頭で、ぼんやりと去年のことを思い出していた。

 確か去年は、三日間毎日、同じ時間に同じ回数、スクワットをさせられたのだったか。 最終日、被験者の下肢に電極を貼り付ける係の先輩が、やたら可愛い女の子で、いいところを見せようと指定回数よりも多くスクワットをした男子が続出したというハプニングがあったらしい。

 実はそれが研究の内容だったらしく、卒業論文の発表会に参加した被験者達は『指導者の容姿がもたらす、課題に取り組む意識の変化』というタイトルに面食らっていた。

 思い出にふけっていると、突然、後頭部にシャープペンシルを突き立てられた。


「痛っ! ちょ、こら、痛い!」


 驚いて、だができるだけ小さな声で叫んで、夏乃はシャープペンシルを払いのけた。振り向くと、ニヤニヤと笑みを浮かべる友人の顔があった。


「いびきかいてたぞ」


「え、マジ?」


「うそ」


 亮介は笑顔を崩すことなく即答する。


「このやろ…」


「あ、いいのか? ノート、貸さねーぞ」


 悪態をつく夏乃に、亮介は講義内容がびっしりと書かれたルーズリーフをひらひらと見せつける。


「すみません。ごめんなさい。俺が悪うございました。どうぞこの哀れなわたくしめに、あなた様の御手にあるノートをお貸しくださいませ」


 平身低頭する夏乃に、満足そうに頷いて、亮介はルーズリーフを差し出した。


「よかろう。その代わり、実技の練習付き合えよな」


「おー、もちろん」


 夏乃は胸を張る。実技は彼の得意とする科目だ。

 入学式で隣の席になって以来、夏乃と亮介は常に一緒にいる。

 普段、亮介は他の男子学生数人と抗議を受けているが、昼休みや放課後は、何故か夏乃と過ごすことが多い。医療の専門学科は少人数制ということもあって、学生同士のグループ意識が強い。大学生にもなって群れないといられない周りに疲れた夏乃は、一人でいることが多かった。

 反対に亮介は、人を惹きつけるオーラを持っていると言うべきか、そこに本人の人の良さも影響しているのだろう、いつも誰かに囲まれているような人間だ。

 そんな亮介が、夏乃の姿を見つけて、周りの友人から離れて傍に歩いてくる時、夏乃は正直、優越感を覚えていた。

 この講義も、亮介は他の学生と一緒に受けていて、たまたま夏乃の後ろの席にいただけだった。そして、金曜日である今日の講義はこれが最後の教科で、亮介は一緒にいた学生達に別れを言って、夏乃と共に帰路に着こうとしている。

 大学の駐輪場に向かう道中、亮介は思い出したように、あっと声を上げた。


「月曜から夏乃のとこ泊まっていい?」


「あぁ、いいよ」


 大学一年の夏から、前期と後期の試験期間には、試験合宿と称して亮介が泊まりにくる事が通例となっていた。

 最寄り駅の近くで一人暮らしをしている夏乃の家に、二週間泊まり込みで勉強する。もっとも、亮介も大学まで自転車で通える距離にある実家暮らしなのだから、時間ならあるはずなのだが。


「一人より二人の方がはかどるじゃん」


 初めて試験期間に泊まりに来た亮介は、当たり前のことだとばかりに胸を張っていた。

 亮介がニカニカと笑う顔が、やけに眩しかった。


「実技試験マジ不安なんだよなー。筆記なら余裕なのにさ」


「亮介って不器用なんだよな。ぱっと見なんでもできそうなのにさ」


「細かい作業キライなんだよ。なんかさ、こう、ダイナミックなことならさ、きっと上手くできるんだよね」


「現場で患者さん相手にダイナミックなことはしないでください」


「あー、早く夏休み来ないかな。もう明日から夏休みならいいのに!」


「話すり替えるなよ」


 思ったことを、思った時に、思ったまま口にする亮介を、夏乃は羨ましく感じていた。なかなか、人はこうは生きられない。取り繕って、格好をつけるものだ。

 夏乃自身、大学では一人でいることが多いが、一人を好んでいるわけではない。

 ただ、煩わしい人間関係から離れたら、一人になっただけなのだ。ひとりぼっちのヤツ、と思われるのが嫌で、格好をつけているうちに、周りからはクールな一匹狼だと、不本意ながら認識されているらしい。


「夏乃は、今日はバイト?」


 駐輪場に着いて、亮介は鮮やかな青のフレームのピストバイクに手を置いた。夏乃は宅配ピザのバイトをしている。バイクでピザを届けるだけで、割と時給がいいのだ。


「今日は休み。土日バイトして、月曜から試験期間の間は休みもらった」


 答えながら、亮介がタイヤに通してあるチェーンを外すのを眺める。ピストバイクのブレーキについて、最近ニュースで騒がれていたな、とぼんやりと考える。

 ピストバイクは、ペダルとタイヤが連動して駆動する自転車で、ペダルを逆回転に漕ぐと、タイヤも逆回転するという仕組みだ。その仕組みとファッション性から、ブレーキを装備せずに走る人がいるらしい。

 ノーブレーキの自転車は、公道を走ってはいけないと決まっているらしく、取り締まりが強化されると、アナウンサーが眈々と語っていた。

 亮介のピストバイクには、ちゃんとブレーキが着いているのだろうか。


「あー、ピザ食いてぇ! 夏乃ピザ届けて!」


「注文してください。40分でお届けにあがります」


 自転車に跨った亮介が、腹減ったー、と叫んだ。


「亮介はバイト?」


「あー、辞めた」


 ゆっくりと徐行する亮介の隣を歩きながら、夏乃は眉をしかめた。


「また?」


「だって彼女ともめたんだもん。試験合宿の話しただけなのに。そのまま別れてー、気まずくてー」


 亮介は、人柄だけでなく、容姿もかなり良い。ゆえに、彼女が絶えない。ただ、バイト先で彼女を作ることが多いため、毎回別れると同時にバイトを辞めるという欠点がある。

 そして、毎回、試験期間に別れている。


「あのさ、前から思ってたんだけど」


「ん?」


 とぼけたような声を出して、夏乃を見る。


「試験合宿の話、彼女にどんな風に話してるわけ?」


「え、そのままだよ。試験勉強するから、二週間夏乃の家に泊まるって。夏乃を独り占めーとか」


「…お前さ、今度から俺のこと彼女に話す時は、下の名前で呼ぶな」


 夏乃は呆れたようにため息をつく。亮介は困ったように首を傾げた。


「え? なんで?」


「そらそうだろ! こんな女みたいな、ってか女の名前! 彼女が完全に勘違いするだろーが! 言わせんな馬鹿!」

 夏乃は自分が発した言葉に落ち込んだ。

 幼い頃から、名前は彼にとって最大のコンプレックスなのだ。


「え、いいじゃん、オシャレで」


「そうきたか」


「例えば夏乃が女の子だったらさ」


「ん?」


「試験合宿なんか二人でやらないじゃん。彼女いるのに、他の子と二人になるわけないのにさ。信用ないんだ、俺」


 今度は亮介が落ち込んだ。だが、すぐに爛々と目を輝かせて、


「あ、でも、夏乃が女の子だったら、試験合宿はやらなきゃ」


「は?」


「ほら、だって、夏乃が女の子なら、俺は夏乃と付き合えばいいじゃん」


 ニカニカと笑いながら、一人納得する亮介の姿に、呆気に取られて、夏乃の時間は数秒間停止する。そして彼は、亮介の背中を思いきり殴った。

 握りしめた拳で、力の限り。


 *


 亮介と別れた帰り道、自宅であるアパートに向かう途中で、夏乃の目に、いつもと違う風景が飛び込んできた。人気のない住宅街の街頭にもたれかかる、少女の姿がそこにあった。

 蒸し暑い夏日の夕方だというのに、紺色の長袖のセーラー服に身を包んだ、艶のある長く黒い髪の少女だった。

 黒髪って、こんなに綺麗なものだったんだ。そう思って女子高生を見つめていると、ふと彼女と目が合った。

 顔を隠すくらいに長い前髪から見える目は、虹彩の色素が薄いのか、髪の色に反して薄い茶色みがかっているようだ。


(あ、やば。見てたのバレる…)


 風が吹いた。

 なびいた髪の中から、現れた顔は、驚くほど美しかった。

 しばらく無言で夏乃を見つめてから、少女は、すう、と彼の後ろを指差した。


「ユーレイ…」


「え…?」


 少女の言葉に、反射的に声をあげて、夏乃は指先が示す方を見た。

 男がいる。夕闇の中に、スーツ姿の、若い男が立っている。はっきりとはわからないが、それなりに身なりのいい男だ。眼鏡をかけているのか、顔つきまではわからない。

 夏乃は再び、少女を見た。

 何を言っているんだ。見ず知らずの他人を指差して、幽霊など。今時の女子高生が、サラリーマンを馬鹿にするのはよくあることだが……


「気をつけて……」


 少女の言葉に、切迫したものを感じて、夏乃は眉根を寄せる。


「何を……」


 ひやりと、背中に冷たいものがあたった。服の中に氷を入れられたかのような、感覚。背中に意識を向ける。それは手のひらのような形で、だが、手のひらだとすると……

 ゆっくりと振り向いた夏乃のそばに、あのサラリーマンがいた。彼は夏乃の背中に触れて、こちらを見ている。


「わ、ぁ!」


 先程はよく見えなかったが、彼は眼鏡をかけているわけではなく、眼球がないのだ。眼球のない落ち窪んだ目が、何かを求めるように、夏乃を見ている。

 夏乃は叫び声をあげながら、跳びずさる。


「大丈夫、目が見えないから」


 少女は無感情に言って、その場を去った。

 男は、夏乃を探しているかのように、手探りをしながら近づいてくる。顔に触れるか触れないかのところに、手が伸びてきた。

 見つからないように、逃げるように、夏乃は自宅へと駆け出した。


 *


「なにそれ? すげーもったいないじゃん」

 月曜日、自宅に泊まりにきていた亮介に、夏乃は金曜日に遭遇した幽霊と少女のことを話した。すると、この反応だ。


「は?何がだよ」


「いや。だってさ、その美少女高校生とお近づきになれるチャンスじゃん。フラグじゃん。霊感少女ルート!」


 やけにテンションの高い亮介に、夏乃はため息をついた。確かに、あの女子高生は可愛かったが、何か影のある雰囲気があった。触れてはいけない何かに遭遇したような、忘れてしまうべきだという印象を受けたのだ。


「俺も会ってみたいなー、その子」


「はいはい」


 呑気に笑う友人に、適当に相槌をうつ。


「そういや、夏乃に聞きたいことがあるんだけどさ」


「何?」


「夏乃の名前って、誰がつけたの? ほら、前に言ってたじゃん。女の子の名前だって」


「あぁ、それは…」


 ふと、夏乃の表情が曇る。


「じいちゃんが。うちのじいちゃん、俺が生まれる頃には惚けててさ、母さんが俺を妊娠したってわかった時に、なつのって呼んでたらしいんだよ」


 夏乃には祖母がいない。

 夏乃の母親が小学校に上がる頃に、病気で亡くなってしまったらしい。それから、祖父は男手一つで、子供たちを育ていた。


「母さんには、お姉さんがいたんだ。八歳くらい年が離れたお姉さんが。その人は、高校生の時に亡くなったんだけど、その名前がなつの」


「は? 何それ?」


「なんか、じいちゃんと進路のことで大喧嘩して、家出したまま事故に巻き込まれて亡くなったんだって。じいちゃん、すごい落ち込んで、惚け始めたくらいから母さんのことを、ばあちゃんだと思ってたらしくて、母さんが妊娠したから…」


 嬉しそうに、母親の大きくなったお腹をさすりながら、なつのと呼ぶ義父の姿を見て、父親は字を変えて夏乃と名付けた。


「それ聞いた時は、ちょっとへこんだ。だって、叔母さんの代わりってことじゃん」


 実際、祖父が夏乃にプレゼントするものは、全てが女ものだった。洋服やらぬいぐるみやら、可愛らしいものばかりを買ってきていた。

 その祖父も、今はもういない。


「俺の名前はさ、かあちゃんが昔飼ってた犬の名前らしいわ」


「うわ、それマジ?」


「マジ、すげーマジな話。俺もかなりへこんだ」


 くだらない話の合間に、試験勉強をしたり、実技試験の練習をして、試験期間はすぐに終わった。


 *


 試験の最終日、亮介は自慢のピストバイクに跨って、


「バイトも辞めたし、今年は日本一周でもしてみよーかな」


 ニカニカと笑っていた。


「再試の心配はないわけ?」


「だいじょーぶ! 実技は夏乃と練習したからバッチリだったし、俺が筆記を落とすはずがない!」


 大げさにガッツポーズをする亮介に、夏乃は苦笑する。


「夏乃も行く? 新しいバイク買ったんだろ?」


 試験期間前に納車された、カワサキのバイクを思い浮かべて、夏乃は首を振った。


「いや、まだ無理。全然慣らしてないから、遠乗りできないし。それに、バイクとピストじゃ、一緒に周れないだろ」


「そっかー。まぁ、たまには一人になるのもありかなー」


 そうだな、と曖昧に返事をして、夏乃は友人の肩に手を置く。


「お土産頼むわ」


「全国のご当地キティちゃん買ってきてやるよ」


「いらねーよ」


「そう言うなよ。じゃあ、また帰ってきたら連絡するな」


 そう言って、亮介はペダルを漕ぎ出した。

 見送りながら、今年は亮介がいない夏休みになるのだと、夏乃は肩を落とした。

 夏休みをどう過ごすべきかと思案しながら、自宅の近くまで帰ってきていたことに気づいた夏乃は、はっとしたように目を見張る。

 なぜこの道を歩いてきたのだろう。

 身体から嫌な汗が吹き出る。少女がいた街頭は、目前まで迫っている。では、あの幽霊はどうだろう。


「いないよ」


 辺りを見渡していた夏乃の背後から、声がかかった。


「君はいるんだ」


 ゆっくりとした動作で振り向くと、あの時の少女が立っていた。


「あなたこそ、ここを通るのね」


「まぁ、帰り道だし」


「あんなもの見たのに?」


 不思議そうに、少女は目を細めた。


「いや、考え事してたら、つい。君は、毎日ここを通るの?」


 別に、と顔を背ける。長い前髪の中に顔が隠れてしまって、表情がわからなくなった。


「ねぇ、いきなりで悪いんだけど、あなたの家に泊めてくれない?」


「は?」


「行くところがないの」


 薄い茶色の双眸が、夏乃を見つめる。


「若い女の子が、見ず知らずの男に、家に泊めろなんて言うか、普通」


「いけない?」


 悪びれる様子もなく、むしろ胸さえ張っている少女に、夏乃は頭を抱えた。


「何これ。マジで霊感少女ルートなわけ? ってか電波? 電波少女なの?」


「ねぇ…」


「ちょっと考えさせて」


 頭を抱えながら、少女を制止するように手のひらを向ける。


「なんで行くとこないわけ?」


「家出中なの」


 いよいよ怪しい。


「名前は?」


 ごおおおぉぉぉ……


 遠くから雷の音が聞こえる。

 強い風が吹いた。一雨きそうだな、と夏乃は空を見上げた。


「なつの……」


「え? ごめん、聞こえなかった……」


 ずいと、少女は夏乃の目の前に顔を寄せる。


「な、つ、の。な、ま、え」


 まじないでも唱えるかのように、少女は言った。

 遠くで、雷鳴が聴こえた。

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