夜の散歩
夜、寝る前にキッチンで水を飲む。買い置きのパンがなくなっていることに気づいてしまった。
「ちょっと火星まで行ってくる」
「あら、明日の昼でいいじゃないの」
「私は朝食はパンでなきゃ駄目なんだ」
苦笑する妻をよそに防護服を着て玄関横のハッチを開けた。リベイクしたパンの香りが漂わない朝の食卓など、ひどい日常の欠落ではないか。
ガレージに鎮座する小型高速艇シャイニー号は十五年落ちの中古だが、慣性中和装置のメンテナンスだけは怠っていない。シートに身を沈め、網膜スキャンでシステムを起動する。
第一ドームにある『フォント・ベーカリー』まで空間跳躍を含めて四十分の行程。もはや火星は近所である。
「推力安定。重力変調、1.0G固定」
機体が浮き上がり、大気圏を抜ける振動が心地好い。モニターの青い地球がゆっくりと遠ざかっていく。漆黒の宇宙へ、ちょっとした夜の散歩と洒落込む。
火星の重力圏に入ると、第一ドームの商業区画は地球時間とは無関係に人工太陽の柔らかな光に包まれていた。フォント・ベーカリーの老店主が私の顔を見るなり目を細める。
「また執筆の合間の現実逃避ですか?」
「失敬な。明日の朝食に、ここのカンパーニュが必要なだけだ」
火星の低重力下で発酵させた生地は地球のそれよりも気泡が大きく、驚くほど軽い。さらに火星の地殻から抽出されたミネラル分を含む水が独特の香りをパンに与えた。この絶妙な食感は他の星では再現されない。焼き上がったばかりのカンパーニュとついでにおやつのミートパイを買い込み、足早にシャイニー号へと戻る。
帰路、自動航行に切り替えたコックピットでまだ熱いミートパイを頬張った。サクサクとした生地の音が気密室に響く。この生活感と非日常の混濁が平坦な暮らしの滋養になる。
ふと執筆中のプロットを思い出す。辺境の地に立った主人公が「何のために?」と問われた時、彼は何と答えるべきか。
「理由などない。それが私の日常なのだ」
自宅に帰り着いて防護服を脱ぐと、時刻は午前二時。妻は先に眠っているようだ。
音を立てないようキッチンに向かい、買ってきたパンをリネンのクロスで包む。明日の朝これを厚めにスライスし、トーストする。バターが溶けていく様子を眺めながら新しい章の書き出しを考えよう。
窓の外ではテラフォーミングされた火星が月よりも明るく輝いている。
そういえば今日は四百年ほど昔、世界初の有人宇宙衛星船が打ち上げられた日であった。




