国境のない星
第三十三章 国境のない星
その対話は、法律と暦の話から、自然にもっと深いところへ流れていった。
朝倉レイは、ずっと気になっていたことを口にした。
街はある。
都市環境もある。
資源の偏りもあると、ガイア側は自分たちで言っていた。
ならば当然、地球でいう国家や行政区分のようなものがあるのではないか。
「この星には、地域ごとの統治単位があるのですか」
レイは翻訳機越しに尋ねた。
「地球で言う、国家や国境のようなものです」
その瞬間、ガイア側の何人かが、わずかに首を傾げた。
意味は伝わっている。
だが感覚として遠い言葉なのだと、レイにはすぐわかった。
最初に答えたのは、ナディア・フェルだった。
「国家という概念は、我々の社会には存在しない」
レイは、思わず聞き返しそうになった。
だが翻訳機の問題ではない。
ナディアははっきりそう言ったのだ。
「存在しない?」
高峰が代わりに問う。
ナディアは頷いた。
「地域はある。
気候も違う。
地形も違う。
資源分布も均一ではない。
だが、それを“国”とは呼ばない」
ミレア・トスが言葉を補う。
「国や国境があるという発想は、我々には危険な分断のはじまりに見える」
白石凛が、少しだけ身を乗り出す。
「分断?」
アルシア・レンが静かに続けた。
「国があれば、国益という考えが生まれる。
国益があれば、優先順位の固定が生まれる。
固定が生まれれば、利権と境界が生まれる。
境界があれば、対立、侵略、強奪の理由が生まれる」
その言葉は、驚くほど直線的だった。
そして、驚くほど地球の歴史を言い当てていた。
セリウス・カーンが、壁面の地形図に近い表示を出す。
「もちろん、この星にも偏りはある。
資源が乏しい地域。
食糧自給が難しい地域。
地形的に居住や運搬が不利な地域。
そうした差は存在する」
レイは黙って頷く。
当然だ。
惑星である以上、均一な地形も均一な気候もありえない。
偏りは必ず出る。
だが、セリウスはそこで言った。
「資源がない地域には、資源がある地域から送る。
その資源によって作られたものが、また別の地域へ送られる」
ナディアが続ける。
「それでいい。
それが、惑星という単位で見た自然な循環だから」
高峰が聞いた。
「損得はどう整理するんですか」
その問いに、アルシア・レンが少しだけ目を細めた。
「損得の単位を、地域で閉じない」
部屋が静かになる。
「今この地域が多く受け取るなら、別の地域には別の形で返す。
資源そのものでなくてもいい。
加工品でも、知識でも、労力でも、環境調整でもいい。
お互い様という感覚が基本だ」
レイは、その言葉を心の中で繰り返した。
お互い様。
地球にもその言葉はあった。
だが、惑星単位の構造原理として定着させることはできなかった。
ナディアがさらに言う。
「不足している地域を“弱い地域”とは見ない。
ただ、そこでは別の補完が必要なだけだ。
逆に資源が豊かな地域も、それを“支配の根拠”にはできない。
資源は偶然の地形と歴史の結果でしかないから」
凛が、ほとんど独り言のように呟いた。
「資源の偏りを、権力の正当化にしない……」
その一言が、地球との違いをあまりに鮮明に浮かび上がらせた。
地球では、資源は奪われ、囲い込まれ、交渉材料にされ、支配の根拠にされた。
ガイアでは、それを“偶然の偏り”として扱い、循環でならしている。
簡単ではないはずだ。
むしろ非常に難しいはずだ。
それでも、それを文明の前提にしてきた。
そこが違う。
しばらくの静寂のあと、アルシア・レンはレイたちをまっすぐ見た。
「あなたたちは」
翻訳機が、その声を少し遅れて日本語にする。
「お互いを信じることができなかったのではないか」
その言葉は、まっすぐ胸に刺さった。
誰も口を挟まない。
アルシアは続ける。
「信じられないから、武装した。
自分たちを守るためだと考えた。
だが、相手も同じことを考える。
それが繰り返されれば、より強い武装へ進む。
そしてついには、破滅的な破壊力を持つ兵器まで持つようになった」
レイの指先が少し冷たくなる。
アルシアの声は責める口調ではなかった。
だが、だからこそ逃げ道がなかった。
「その結果、制御装置が暴走し、あなたたちは破滅へ向かった。
……そうではないのか」
部屋が静まり返る。
痛いところを突かれて、誰もすぐには言葉が出なかった。
高峰は視線を落とした。
凛は目を閉じている。
久我の顎がわずかに強張る。
沙月も、何も言わない。
それは乱暴な要約ではない。
むしろ、地球人類が何十年もかけてごまかしてきた本質の、あまりに簡潔な剥き出しだった。
相互不信。
武装。
エスカレート。
破滅。
レイは喉の奥が乾くのを感じた。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
「……はい」
彼女はようやく言った。
「その通りです」
翻訳機が走る。
「私たちは、互いを信じる代わりに、互いを止められるだけの破壊力を持つことを選びました。
それを理性で管理できると思い込みました。
でも、それは管理ではなく、崩れるまで続いた危険な均衡でした」
レイの声は静かだった。
だが、その静けさの中に、自分でも少し驚くほど痛みがあった。
「だから、私たちは母星を失いました」
その言葉が落ちると、ガイア側は誰もすぐには返さなかった。
責めるために問うたのではないのだろう。
理解するために問うた。
そして地球側が、自分たちでその本質を認めたことを、受け止めているようだった。
しばらくして、アルシア・レンが静かに言った。
「だが、あなたたちは武装解除に応じた」
久我が顔を上げる。
アルシアは続ける。
「我々の要求にも、抵抗せず従った。
それは記録されている。
逐一、上位の判断者へ報告されていた」
その言葉に、レイたちはわずかに表情を変えた。
もちろん報告されているとは思っていた。
だが、“上位の判断者”という言い方は、これまであまり明確にされていなかった。
「この星を統治する人物がいるのですか」
久我が問う。
今度は、ナディア・フェルが答えた。
「統治という言葉は完全には合わないが、最終判断を担う人物はいる」
ミレア・トスが、その名を翻訳機に慎重に乗せる。
「あなたたちの音で近づけるなら――
エリオス・サーム」
レイはその名を頭の中で繰り返した。
エリオス・サーム。
ガイア全体の最終判断を預かる人物。
国家の元首ではない。
だが、惑星全体の均衡と外部接触に責任を負う存在。
アルシアは、ほんの少しだけ表情をやわらげた。
「エリオス・サームは、あなたたちの行動を見ていた。
条件への応答。
武装解除。
生命系の扱い。
対話の姿勢。
そして今日の告白も含めて」
レイは息を止めた。
今日の告白。
つまり、信じられなかったから武装し、その結果破滅したという認識まで、届いている。
そしてアルシアは、はっきりと言った。
「エリオス・サームは、あなたたちに初めて完全な上陸を許可すると決定した」
その瞬間、時間が少し止まったように感じた。
完全な上陸。
隔離施設の外周観察ではない。
限定接触でもない。
本当に、ガイアの地面へ立つことが許される。
白石凛が、小さく息を呑む。
高峰は一瞬、言葉を失う。
沙月は目を閉じたまま、深く息を吐いた。
久我颯人でさえ、その顔にほんのわずかな揺れが出た。
朝倉レイは、胸の奥が一気に熱くなるのを感じた。
まだ住民ではない。
まだ受け入れの全てが終わったわけではない。
でも、地面に立てる。
それは、とてつもなく大きかった。
そして、その緊張を、またもや思わぬ方向から切ったのはガイア側だった。
ミレア・トスが、少しだけ躊躇いながら言う。
「ところで、一つ聞いてもよいか」
優子が、どこか嫌な予感を覚えた顔をする。
「なんでしょう」
翻訳機が丁寧に問いを出す。
「ペラペラーズ、とは何か」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、地球側が全員ずっこけた。
高峰が思わず机に手をつく。
凛が吹き出す。
沙月は口元を押さえて俯き、久我ですら眉のあたりが崩れた。
レイも、あまりのタイミングに笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。
「いや……」
高峰が苦笑する。
「われわれも、よくわからんのです」
その一言で、今度はガイア側が少し戸惑う。
わからないのか。
自分たちの言葉ではないのか。
当然そうなる。
そこで、ホログラムの光子が前へ出た。
今日は、やたら得意げだ。
「それはね」
優子が横からすぐ言う。
「いや、説明できるん?」
「できるたい!」
光子が胸を張る。
「めっちゃ騒がしい人とか、インコとかのこと!」
ガイア側が、一瞬だけ真顔になる。
翻訳機が必死でその説明を整える。
“過度に多弁で、場を騒がしくする存在、特に鳥類的なもの”
みたいな堅い言い換えになってしまい、今度は地球側がまた笑う。
ナディア・フェルが、少し首を傾げる。
「鳥が、そう呼ばれるのか」
高峰が肩をすくめる。
「正式名称ではありません。
……まあ、ほぼ愛称みたいなものです」
そこで、アルシア・レンが真顔で聞いた。
「では、あの鳥は“インコ”という言葉を話す鳥なのか」
その問いに、また地球側が崩れる。
レイがようやく笑いをこらえながら答える。
「いえ。
言葉を話しているというより、人間の喋るのを真似しているだけです」
ミレア・トスが、少しだけ興味深そうに言う。
「意味を理解せず、音を模倣する」
優子が頷く。
「そうそう。
でも、たまに絶妙なタイミングで言うけん、ややこしいっちゃね」
そこで、ホログラムのせきちゃん閣下が、待ちかねたように鳴いた。
「せきちゃん、かっこいい!」
そして、キリちゃんが横で、
ぷいっ。
その流れに、ガイア側もついにまた笑った。
今度は最初の時ほど爆発的ではない。
でも、理解した上での笑いだった。
「なるほど」
アルシア・レンが、まだ笑いの余韻を残しながら言う。
「“ペラペラーズ”は、概念であり、生態でもあるのだな」
「なんか急に学術分類みたいに言わんで!」
優子が叫び、また場が笑いに包まれる。
その夜、朝倉レイは記録端末に書いた。
ガイアには国家という概念が存在しない。
国や国境があるから、利権による対立や侵略、強奪が起こるのだと彼らは考えている。
資源が乏しい地域には資源を送り、その資源で作られたものがまた別の地域へ送られる。
“お互い様”という感覚が、相互理解の基礎になっている。
彼らは言った。
あなたたちはお互いを信じられなかったから武装し、それがエスカレートして破滅的兵器を持つに至り、制御装置の暴走で滅びに向かったのではないかと。
痛いところを突かれて、誰もすぐには言葉が出なかった。
けれど否定はできなかった。
そのうえで、私たちが武装解除に応じ、要求にも素直に従ったことは、この星の最終判断者エリオス・サームに逐一報告されていた。
そして今日、ついに完全な上陸許可が出た。
さらに、ガイア側から“ペラペラーズとは何か”と聞かれ、地球側全員がずっこけた。
われわれもよくわからんのです、と答えた時の空気が忘れられない。
光子さんは、めっちゃ騒がしい人やインコのことだと説明した。
インコは言葉を話す鳥なのか、と問われたので、人間の喋るのを真似しているだけだと答えた。
こんなふうに笑いながら、本質をえぐられ、そして許可を得る。
それが今日のガイアだった。
書き終えたあと、レイはゆっくりと端末を閉じた。
完全な上陸許可。
その言葉は、まだ夢みたいだった。
灰の故郷を出て、宇宙を渡り、問いを受け、武器を捨て、命の持ち込みを制限され、ようやくここまで来た。
そしてその入口で、ガイア人は“ペラペラーズ”を真顔で問うた。
レイは、少しだけ笑った。
たぶん文明の始まりというのは、いつだって、
本質的な問いと、妙にくだらない問いが同じ卓に並ぶものなのだろう。
第三十三章・終




