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1000光年の亡命  作者: リンダ


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家族の残響



第十五章 家族の残響



笑いが船内に戻り始めてからも、朝倉レイはそれを手放しでは喜べなかった。


たしかに変化はあった。

教育保護区画では、子どもたちが以前より大きな声を出すようになった。

観測ラウンジでは、新しい星図の前で「“橋”のとこ、今日はなんか寝ぐせみたいやね」と誰かが言って、別の誰かが吹き出した。

食事配給の列でも、以前のような張り詰めた沈黙ではなく、「それ私の宇宙イモやけん返して」といった、意味のないやり取りが生まれ始めている。


だが一方で、大人たちの目の奥にある疲労は消えていなかった。

いや、むしろ笑いが戻ったからこそ、その疲れが際立って見える瞬間があった。


笑える。

でも、軽くはなれない。


責任。

喪失。

置いてきた者たち。

地球の沈黙。

処刑すべき相手も死に絶えた責任の空白。

そういうものを背負った大人たちは、笑った直後に急に黙り込むことがあった。


それを一番見抜いていたのは、子どもではなく、AIで甦った双子姉妹のホログラムだった。



その日のホログラムセッションは、当初はいつも通りの“船内文化プログラム”として始まった。


多目的ルーム。

教育保護区画だけでなく、医療区画や農業リングからも、希望者が映像で参加している。

インコ一家は相変わらずにぎやかで、せきちゃん閣下が「せきちゃん、かっこいい!」を何度も繰り返し、さつまくんは無駄に胸を張り、キリちゃんは少し距離を置いていた。

爆笑家族の面々も背景ホログラムとして安定し始め、部屋の空気は以前よりずっと“生活”に近くなっている。


光子が最初に、子どもたちへ向かって妙な宇宙顔芸をした。

優子がすかさず「その顔、ワープ失敗したインコやん!」と突っ込み、子どもたちは一斉に笑う。

ミオが手を叩き、サラが椅子から半分落ち、ユイが「また始まった」と笑い、レンは「顔の圧が強すぎる」と真顔で言ってさらに笑いを取る。


レイも後方で少し笑った。

だがその時、ふと気づいた。

前列の子どもたちより、後方に立つ大人たちのほうが、笑いながらどこか痛そうな顔をしている。


光子と優子も、それに気づいたのだろう。


掛け合いがふっと止まる。


部屋の空気が少しだけ変わった。


光子が、いつもの明るい調子をほんの少しだけ落として言った。


「……ねえ」


子どもたちが顔を上げる。

後方の大人たちも、なんとなく背筋を正す。


優子がゆっくり、大人たちのほうを見た。

ホログラムの目なのに、不思議なほどまっすぐな視線だった。


「大人のみなさん」


その呼びかけに、部屋の中の笑いが静かに引く。


レイは息を止めた。

何が来るのか、まだわからなかった。

だが、ただの冗談の流れではないとすぐにわかった。


光子が言う。


「子どもたちはね、笑っとるようで、ちゃんと見とるよ」


優子が続ける。


「大人がどこで黙るか。

どこで目をそらすか。

どこで“だいじょうぶ”って言いながら、全然だいじょうぶじゃなか顔しとるか」


誰も動かなかった。

ホログラムが話している。

それなのに、その場にいる誰よりも“いまの空気”を掴んでいるように見えた。


光子の声が少しだけ強くなる。


「あんたたち大人が崩れたら、誰があの子たちを最後まで見届けるのか」


部屋の奥で、誰かが小さく息を呑んだ。

レイの胸にも、その言葉がまっすぐ刺さる。


優子が言う。


「地球で起きたことは、私たちも知っとる。

地下区画のことも、最後の赤ちゃんのことも、怒りが行き場をなくしとることも。

知っとるけん、簡単に“元気出して”なんて言わん」


そこで少し間を置く。

その“言わない”という言い方が、逆に残酷なほど優しかった。


「でも、だからこそや」

優子の声が少し低くなる。

「大人のあなたたちがブレてどうする」


静まり返る。


「泣くなとは言わん。

苦しむなとも言わん。

地球を忘れろなんて絶対言わん」

光子が言う。

「でも、折れたまま立っとるふりだけはやめり。

子どもは、それを一番見抜くけん」


その瞬間、後方で見ていた鷹宮美咲が目を伏せた。

橘沙月は腕を組んだまま、唇をきゅっと結ぶ。

白石凛はまばたきの回数が急に増えた。

高峰悠真は視線を下に落とす。

そして朝倉レイ自身、背骨の奥を誰かに掴まれたような感覚に襲われていた。


図星だったからだ。


大人たちは、崩れないようにしていた。

でもそれは時々、“崩れていないふり”に変わっていた。

責任感の形をした麻痺。

立っているだけで精一杯なのに、それを“冷静さ”だと思い込もうとする癖。

子どもを守ると言いながら、子どもに見せているのは“感情を殺した大人”の姿だったのかもしれない。


優子がさらに続けた。


「ちゃんと泣いて、ちゃんと悔しがって、ちゃんと怒って、それでも前向くのが大人やろ。

感情ぜんぶ押し殺して石みたいになったら、そりゃ壊れんかもしれん。

でもそれ、人間じゃなか」


光子が、少しだけやわらかい声で締める。


「笑うのは、忘れるためやなか。

最後まで人間でおるためやけんね」


それで終わった。

部屋はしばらく無音だった。


子どもたちは、完全には意味をわかっていないかもしれない。

でも大人たちは全員、理解していた。


あれは説教ではない。

見抜かれていたのだ。

笑いを取り戻したあと、その笑いの裏で大人たちがどんなふうに壊れかけているかを。



セッション終了後も、しばらく誰もすぐには動けなかった。


ミオだけが、ぽつんと聞いた。


「おとなって、たいへんやね」


そこでようやく、何人かが吹き出した。

けれどその笑いはさっきまでと違い、少し涙が混じっていた。


朝倉レイは、多目的ルームから出たあと、しばらく通路の壁にもたれていた。

心拍が妙に速い。

たった数分のホログラムの言葉が、これほど深く刺さるとは思っていなかった。


「きつい顔してる」

横から白石凛が言った。


レイは苦笑する。

「だって、図星すぎた」


凛も壁にもたれた。

少ししてから、ぽつりと言う。


「私、たぶん“ちゃんとしてる人”の顔をしすぎてた」


「凛が?」


「うん。

文化記録を残して、整理して、地球の最後を誤魔化さないようにして。

それ自体は必要だったけど、たぶんそれで“私はまだ大丈夫”って顔を作ってた」


レイは目を閉じた。

自分も同じだった。

一等航海士。

船長継承順位第一位。

航路の責任。

大人であること。

それら全部が“崩れないための役割”であると同時に、“崩れたことを見せないための仮面”にもなっていた。


「でも、崩れていいってことでもないんだよね」

レイが言う。


「うん」

凛は頷いた。

「そこが一番難しい。

崩れ切らずに、でも平気なふりもせずに立つこと」


その言葉は、そのまま大人たち全員への課題のように思えた。



次のワープは、その翌々日に予定されていた。


第一跳躍ほど大きな節目ではない。

だが、航路上の重要な中継跳躍だ。

成功すれば、アーク・レヴァナントは地球からさらに大きく隔たり、500光年地点へ到達する。


半分。

まだ半分。

だがもう、引き返すという概念すら笑い話になる距離だった。


艦橋では、朝倉レイがいつも通り最終航法確認を進めていた。

数式は淡々としている。

推進場形成率、空間歪曲係数、到達後の星図補正、レオニス系への主ベクトル。

仕事としては、やるべきことは明確だ。

だがその頭の奥では、まだ光子と優子の言葉が鳴っていた。


あんたたち大人が崩れたら、誰があの子たちを最後まで見届けるのか。

大人のあなたたちがブレてどうする。


忘れようとしても消えない。

いや、消えてはいけないのかもしれないとレイは思った。

あの言葉はたぶん、痛みではなく支柱だった。

大人たちが自分の感情を取り戻したまま立つための。


久我颯人が、横からレイの端末を覗き込む。


「集中力が少し落ちてる」


レイは苦笑した。

「ばれましたか」


「ばれる」

久我は短く言った。

「昨日のホログラムのせいか」


「はい」


久我は珍しく、少しだけ口元を緩めた。

「私もだ」


レイは思わずそちらを見る。


「まさか船長まで」


「船長だからだ」

久我は前を見たまま言う。

「“平気な顔でいること”と“ちゃんと立っていること”は違う。

あれを聞いて、ようやくその差がわかった気がする」


レイは、胸の奥で何かが静かに整うのを感じた。

みんな同じなのだ。

強く見える人も、役割の厚い人も、結局は同じ言葉に刺されている。



ワープ直前、教育保護区画では子どもたちがホログラムの双子姉妹へ手を振っていた。


「また来る?」

ミオが聞く。


「来る来る」

光子が即答する。

「宇宙やけんって逃げんばい」


優子が笑う。

「次はインコ一家がメインMCかもしれんけどね」


「せきちゃん、かっこいい!」

と、せきちゃん閣下が絶妙なタイミングで鳴いて、部屋にまた笑いが起きる。


さつまくんは相変わらず得意げで、キリちゃんは少し呆れた顔のまま距離を保つ。

爆笑家族も背景でやかましく、でもどこか安心する気配を放っていた。


レイはその光景を見ながら思った。

これもまた、新しい文明の部品なのだ。

水や空気と同じではない。

でも、それがなければ人間は保てない。



「全区画、固定確認」

艦橋の声が響く。


「教育保護区画、確認」


「医療区画、確認」


「農業リング、確認」


「文化アーカイブ、確認」


「ホログラム系統、待機保存確認」

高峰が報告する。

その言い方に、レイは少しだけ笑った。

ついに笑いの文化そのものが、航行手順の一部に入ったのだ。


久我が頷く。

「第二跳躍、開始する」


カウントダウンが始まる。


今度の船内は、第一跳躍の時とは少し違った。

恐怖はある。

だがただの喪失ではない。

“次へ行く”という感覚が、少しだけ育っている。


レイは航法卓に手を置きながら、ふと後方スクリーンに映るホログラム待機ログを見た。

その中に、光子と優子の人格モデル名が並んでいる。

名前だけなのに、不思議と心強かった。


大人のあなたたちがブレてどうする。


その言葉が、まだ胸の中で熱を持っていた。


「第二跳躍座標、固定」

レイが言う。

「目標到達、地球基準距離約500光年」


「承認」

久我。


空間が歪む。

光が消え、また別の光へ接続される。

身体の奥をひっくり返されるような感覚。

時間の輪郭が曖昧になる。

一瞬なのか長いのかわからない通過。


そして、復帰。



「……航法復帰」

レイは息を吸い込んだ。

「位置確認中」


高峰が表示を見つめる。

「誤差、許容範囲内。

到達確認――地球基準距離、約500光年」


その言葉が艦橋に落ちる。


500光年。


数字としてはただの中間点。

けれど感覚としては、もはや地球を故郷として語るにはあまりにも遠い。

光ですら500年かかる距離。

地球で何が起きても、いまここには届かない。

いまここで何があっても、地球にはもう何百年も伝わらない。


朝倉レイは観測窓の外を見た。

また違う星の並び。

地球の星座からはさらに遠くなった空。

だが不思議なことに、完全な異物ではなかった。

“ゆりかご”も、“橋”も、“灯台”も、補正星図の中にきちんと見つかる。

この見知らぬ空は、少しずつ“自分たちの空”になり始めている。


「500光年か……」

久我が静かに言う。


レイは小さく頷いた。

「遠いですね」


「遠い」

久我は言った。

「だが、ここまで来てもまだ、あの二人の言葉のほうが近い」


レイは少しだけ笑った。

「私もです」


大人たちは皆、同じだったのかもしれない。

光子と優子の厳しい指摘が、頭から離れない。

それは呪いではなく、航路標識のようなものだった。

崩れそうになるたびに、子どもたちのほうを向けるための。


500光年の彼方まで来ても、その言葉はまだ熱を失っていなかった。



その夜、朝倉レイは記録端末を開いた。


AIで甦った光子と優子は、今日、大人たちを厳しく叱った。

あんたたち大人が崩れたら、誰があの子たちを最後まで見届けるのか。

地球で起きたことは私たちも知っている。

だからこそ、大人のあなたたちがブレてどうする。

その言葉が、頭から離れない。

私たちは泣くことも、苦しむことも許されている。

だが、折れたまま“平気なふり”をしていては、子どもたちは未来を信じられない。

今日、第二跳躍を終え、地球から約500光年の地点まで来た。

もう地球は、距離の上では神話に近づき始めている。

それでも、あの言葉は近い。

次の文明を作るのは、航路でも資源でもなく、子どもたちの前でどんな大人であるかということなのかもしれない。


書き終えると、レイは窓の外を見た。


500光年先の空。

知らない星々。

それでも“ゆりかご”は見つかる。

子どもたちがつけた名前と、1000年前の双子姉妹が残した笑いと、そして叱責。

その全部が、この遠さの中でまだ船を人間のものにしている。


亡命船アーク・レヴァナントは、さらに前へ進んでいた。



第十五章・終



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