歌姫
国立精神医療センターの薄暗い廊下は、消毒液の匂いと、時折響く患者のうめき声で満ちていた。赴任したばかりの研修医、孝則は、白衣の襟をぎゅっと握りしめ、冷たい壁に背を預けていた。ここは、彼が想像していた「医療の最前線」とはかけ離れた場所だった。理論と実践の乖離に戸惑う日々の中、彼は今日、初めて自分が主治医となる患者と対面することになっていた。
カルテに記された名は「麗子」。年齢は二十歳。診断名は統合失調症。そして、その病状の項目には、担当医たちからの引き継ぎ情報として、奇妙な一文が添えられていた。「古語のような意味不明の歌を、常時口ずさむ傾向あり」。
重い鉄扉の前で、孝則は深呼吸をした。扉には、覗き窓も、患者の名前を示すプレートもなかった。ただの無機質な鋼鉄の壁。これが、麗子という少女が暮らす、外界と隔絶された「個室」だった。彼は震える手でドアノブをひねり、ゆっくりと扉を開いた。
部屋の中は、病院の個室とは思えない異様な色彩に満ちていた。壁という壁には、原色のクレヨンで、意味不明の幾何学模様や、目をひんむいた鳥のような絵がびっしりと描かれている。まるで、子供の落書きを、狂気的な執念で巨大なタペストリーに仕上げたかのようだ。そして、その混沌の中央、鉄製の簡素なベッドの上で、麗子は体操座りをしていた。
彼女の髪は、まるで絵の具をぶちまけたかのように、鮮やかな青と赤、そして緑の三色に染め分けられ、無造作に伸び放題だった。病院着は、彼女自身の手で引き裂かれ、そこに何枚ものカラフルな端切れや、アルミホイルの飾り、そして古い新聞紙の切れ端が、乱雑に縫い付けられている。それはまるで、遠い国の民族衣装か、あるいはサーカスの道化師の衣装のようだった。
孝則は、そのあまりにも強烈な風貌に、一瞬言葉を失った。しかし、彼が最も驚いたのは、彼女の顔だった。年齢にそぐわないほど痩せこけた頬は、何日も洗っていないかのように薄汚れている。しかし、その瞳は、深海の底のような漆黒で、彼をまっすぐに見つめ返していた。感情を読み取れないその目の奥に、孝則は言いようのない冷たさと、同時に、底知れない深淵を見た気がした。
麗子は、孝則がドアを開けた音にも一切反応せず、虚空を見つめながら、途切れることなく、しかしはっきりと、**「あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに……」**と、古の歌を口ずさんでいた。それは、遠い昔の物語の一節のようでもあり、意味の分からない呪文のようでもあった。
日々の訪問
孝則は、その日から毎日、決まった時刻に麗子の個室を訪れた。最初の数日は、扉を開けるたびに胃の腑が締め付けられるような緊張を覚えた。麗子の放つ異質なオーラと、色彩に満ちた部屋の混沌に、まだ彼の理性は抗おうとしていたのだ。しかし、彼は言われた通り、ただ彼女のそばに座り、20分間、その様子を観察し続けた。
麗子は、孝則が部屋にいても、ほとんど彼を意識しているようには見えなかった。彼女は相変わらず、空虚な一点を見つめ、あるいは壁の奇妙な絵と対話するかのように、あの古語のような歌をひたすら口ずさんでいた。時には、天井から垂れ下がった見えない糸を指でなぞるような仕草をしたり、突然体を揺らして奇妙なリズムを刻んだりすることもあった。
孝則は、当初は彼女の行動を観察し、医学的な視点から症状を記録しようと努めた。だが、毎日同じ時間、同じ空間を共有するうちに、彼の内面で何かが変わり始めた。彼女の歌声は、もはや「意味不明」なノイズではなく、部屋の空気の一部となり、彼自身の意識の奥底に染み込んでいくようだった。
ある日、孝則は、麗子の歌の中に、微かな音階の反復があることに気づいた。そして、その反復が、時折、彼女の指の動きや、瞳の動きと連動しているかのように見える瞬間があった。それは、単なる偶然だろうか? 彼の脳裏に、彼女の精神が、彼には理解できない独自の論理とリズムを持っているのではないか、という漠然とした疑問が浮かんだ。
20分が過ぎ、立ち上がろうとした孝則の耳に、歌声がぴたりと止まる瞬間があった。麗子は、依然として虚空を見つめたままだったが、その沈黙は、これまでの歌声よりも雄弁に感じられた。孝則は、帰り際、わずかに彼女の目を覗き込んだ。そこに、ほんの一瞬、感情のような、あるいは彼の存在を微かに捉えたかのような、かすかな揺らぎを見た気がした。
そんな日々が続くうちに、孝則は気づいた。彼の思考の大部分が、麗子のことで占められるようになっていたのだ。診察の合間にも、医局に戻っても、シャワーを浴びている時でさえ、あの奇妙な歌声が脳内で響き、彼女の眼差しが彼の視界の端にちらつく。彼女の歌に隠された意味は何なのか。
研修医として、彼は多くの患者のカルテを読み、診断を下し、治療方針を立ててきた。だが、麗子だけは違った。彼女は、彼がこれまでに学んできた医学の知識や枠組みでは捉えきれない、完全に未知の存在だった。そして、その未知の存在が、彼の日常を、そして彼自身の内面を、静かに、しかし確実に侵食し始めていた。彼は、麗子という患者を「診る」のではなく、彼女の不可解な世界に、少しずつ引きずり込まれていく自分を感じていた。
響く声
その日も、孝則はいつもと同じように麗子の個室に足を踏み入れた。部屋の空気はいつもと変わらず、クレヨンの匂いと、麗子が紡ぐ意味不明な歌声に満ちていた。孝則は定位置の椅子に腰を下ろし、麗子が虚空を見つめながら指で何かをなぞる姿を、ぼんやりと眺めていた。彼の意識は、もはや麗子の歌を「異常」として捉えるのではなく、ただその旋律に身を委ねることに慣れてしまっていた。むしろ、その歌がなければ、何かが物足りないと感じるほどだった。
「みぎわに うちよするなみも くるしから……」
麗子の声が、いつものように規則的な、しかし理解不能な言葉を紡ぐ。孝則は、その日の彼の思考の大部分が、朝食の時のコーヒーの味だったか、あるいは昨晩の症例検討会の内容だったか、どうでもいいことを思い出していた。彼にとって、この20分間は、多忙な研修医としての日常から切り離された、一種の瞑想のような時間になりつつあった。
その時だった。
麗子の歌声が、不意に途切れた。
部屋を支配していた奇妙な旋律が消え、急な沈黙が訪れる。孝則はハッと我に返り、麗子に視線を向けた。彼女は、依然として体操座りのまま、壁の絵を見つめていた。しかし、その肩が、微かに、震えているように見えた。
「麗子さん…?」
孝則は、思わず声をかけた。普段なら、彼の声に反応することはない。だが、その日、麗子はゆっくりと、まるで固い石像が動くかのように、顔を孝則の方へ向けた。その瞳は、深海の底のような漆黒のままだが、そこにはこれまで見たことのない、微かな光の揺らぎがあった。それは、恐怖にも、切望にも見える光だった。
そして、麗子の口から、か細く、しかし明確な言葉が紡ぎ出された。
「た……す……け……て……」
その声は、彼女がこれまで歌っていた古語のような響きとは全く異なり、紛れもない、現代の、助けを求める人間の言葉だった。孝則の心臓が、まるで冷たい水を浴びせられたかのように、大きく跳ね上がった。全身に鳥肌が立った。彼が幻聴を聞いているのではないか、と一瞬疑った。
しかし、麗子の瞳は、決して彼から逸らされなかった。そして、彼女は再び、懇願するかのように、次の言葉を続けた。
「わ……か……っ……て……」
その二つの言葉は、まるで彼女の魂の奥底から絞り出された叫びのように、静寂な個室に響き渡った。それは、孝則が毎日耳にしていたあの歌声の奥に隠されていた、真のメッセージのように思えた。麗子は、彼に何を助けてほしいのか。何を分かってほしいのか。彼の脳裏で、これまでの彼女の全ての行動が、この二つの言葉の意味を探るためのヒントのように思えてきた。
孝則は、椅子から立ち上がった。麗子の前には、医師としての診断基準も、冷静な理性も、もはや存在しなかった。ただ、目の前の少女が、たった今、確かに助けを求めたという、その事実だけが、彼の心を支配していた。彼は、彼女の言葉が、彼に何を求めているのか、それを知りたいと、強く、強く願った。たとえそれが、どんな禁断の領域に足を踏み入れることを意味しようとも。
禁断の記憶
麗子の「たすけて」「わかって」という、か細くも明確な言葉は、孝則の脳裏に深く刻まれた。それからの数日間、彼はまるで幻聴のように、その二つの言葉を何度も反芻していた。彼女の歌声は以前と変わらず聞こえるのだが、今となっては、その意味不明な旋律の中に、切実な叫びが潜んでいるようにしか思えなかった。
彼は、麗子のカルテを何度も読み返した。過去の医師たちの記録には、「非協力的」「コミュニケーション困難」「妄想的」といった言葉が並び、彼女の内面に迫ろうとした形跡は見当たらなかった。彼らは、麗子の歌を単なる症状の一つとして捉え、薬物療法による鎮静を試みてきただけなのだろうか。
孝則は、自分の無力さを痛感していた。研修医として、彼はまだ十分な知識も経験も持たない。麗子の言葉に応えたいという強い思いはあるものの、具体的に何をすればいいのか、全く見当がつかなかった。
そんな悶々とした日々を過ごす中で、彼の脳裏に、数ヶ月前に参加した学会の片隅で見た、ある研究発表の映像が鮮明に蘇ってきた。それは、まだ倫理的な議論の段階にあり、臨床応用には程遠いとされていた、二つの脳を特殊な装置で連結し、意識や感情の断片を共有するという、極めて実験的な試みだった。
発表者は、動物実験の段階ではあるものの、連結された二つの脳の間で、単純なイメージや感情が伝達される様子を示していた。それは、まさにSFの世界の出来事だったが、孝則の脳裏に強烈な印象を残していた。
その時、彼はその技術を「非現実的な夢物語」として一笑に付した。しかし今、「たすけて」「わかって」と訴える麗子の姿が、その禁断の技術を、まるで最後の希望の光のように、彼の心に呼び起こした。
(もしかしたら…この方法なら、彼女の心の内を直接感じることができるかもしれない。彼女が何を求めているのか、理解できるかもしれない…)
その考えは、倫理的な懸念や、医師としての規範を容易に飛び越えて、孝則の心を支配していった。それは、正常な判断力を失わせるほどの、切迫した衝動だった。
病院の規則は厳格だ。ましてや、まだ実験段階の、危険性も未知数の装置を患者に使用するなど、考えられない禁忌だった。もし露見すれば、彼の医師としてのキャリアは間違いなく終わりを迎えるだろう。それでも、麗子のあの悲痛な瞳が、彼の背中を強く押した。
数日後、夜勤明けの疲労困憊した体を引きずりながら、孝則は病院内の古い倉庫へと向かった。以前、脳波測定の実験に使われていたという、埃を被った奇妙な形状の装置。それは、学会で見たものとは異なる旧式なものだったが、「二つの脳を繋げる」という基本的な原理は同じはずだった。
深夜、人気のない精神科病棟。孝則は、震える手で麗子の個室の鍵を開けた。眠っている麗子の細い腕に、実験用の電極を慎重に取り付ける。彼女は微かに身じろぎを見せたが、目を覚ますことはなかった。
そして、孝則は自分の頭にも、もう一方の電極を装着した。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝う。彼は、自分が今から何をしてしまうのか、その重大さを改めて 思った。しかし、もう後戻りはできなかった。
深呼吸を一つ。そして、彼は意を決して、古びた装置の電源スイッチを入れた。微かな機械音と共に、孝則の意識の中に、これまで感じたことのない、未知の感覚が流れ込もうとしていた。
共有された旋律:理解と共鳴の果てに
孝則が装置の電源を入れた瞬間、彼の意識は膨大な情報と感覚の奔流に飲み込まれた。それは、彼が想像していたような思考の伝達ではなかった。彼の脳は、麗子の視覚、聴覚、触覚、そして言葉にならない感情の全てを、まるで自らの体験であるかのように受け止め始めたのだ。
最初に孝則の脳裏に流れ込んだのは、無数の色彩の破片だった。それは壁に描かれた絵の具のような原色ではなく、世界そのものが奇妙にねじ曲がった、麗子の視る現実だった。そして、耳を覆いたくなるような、しかしどこか心地よい共鳴を伴う音の洪水。その中に、麗子が毎日口ずさんでいた「古語のような歌」が、はっきりと意味を持って響き渡った。
それは、言葉では表せない、しかし完璧な「感情の旋律」だった。麗子にとって、その歌は世界であり、彼女の精神を守る最後の砦だったのだ。歌声は、幼い頃に彼女を襲った、言葉にならないほどの深い喪失と絶望の瞬間を紡ぎ出していた。孝則は、その光景を、彼女の痛みとして、自らの胸に感じた。崩壊した日常、失われた光。そのあまりの現実に、彼女の心が現実との乖離を選び、その代償としてこの「歌」を紡ぎ続けることで、かろうじて自身の精神を保っていたのだと、彼は理解した。彼女の歌は、恐怖に対する防衛であり、失われた何かへの鎮魂歌であり、そして外界への唯一の表現手段だった。
麗子の「助けて」「分かって」という声は、外界と繋がりたいという純粋な、しかし絶望的な叫びだった。それは、彼の心の奥底に深く響き、涙が静かに孝則の頬を伝った。
時間の感覚が曖昧になる中で、孝則は、自分がこれほどまでに深く他者の内面に触れたことがないという事実に打ち震えた。彼らは、単に脳を連結したのではない。互いの魂が、一瞬、完全に重なり合ったのだ。
やがて、装置から微かな電子音が響き、連結が自動的に解除された。孝則は激しい疲労感に襲われ、よろめきながら装置のスイッチを切った。呼吸を整えながら麗子を見た時、彼の目の前にいる少女は、以前と変わらぬ体操座りのままだった。
しかし、次の瞬間、麗子はゆっくりと顔を孝則の方へ向けた。その瞳は、深海の底のような漆黒のままだったが、そこにはこれまで見たことのない、微かな、しかし確かに彼を認識する光が宿っていた。そして、彼女の口元に、ほんのわずか、しかし紛れもない微笑みが浮かんだように見えた。
その日から、麗子の歌はわずかに変わった。以前のような切迫した響きはなくなり、どこか穏やかな、そして時折、優しさすら感じさせる旋律になった。彼女は相変わらず言葉を話さなかったが、孝則が部屋に入ると、わずかに顔を彼の方へ向けるようになった。そして、彼が部屋を出る際、彼女の視線が扉の向こうへと、ほんの一瞬、彼を追うようになった。
孝則は、この禁断の行為が露見すれば、医師としてのキャリアを失うことを知っていた。しかし、彼は麗子を「治す」ことはできなかったかもしれないが、確かに彼女の心に触れ、彼女の世界を理解した唯一の人間となった。彼の心には、あの古語の歌の真の意味が、温かい旋律となって響き続けていた。
彼は、自分の医師としての道が、この日、大きく意味を変えたことを悟った。それは、病気を治すだけでなく、人間の魂と向き合い、その声なき歌を理解しようとすること。麗子は、彼の患者であると同時に、彼自身の内なる「歌姫」として、その存在を確かに刻み込んだのだ。
おしまい、読んでくれてありがとう!!!