第八話『セリーヌの星空』
魔女の家に夜が訪れると、昼間とはまるで違う空気が満ちる。
廊下には灯火の魔法がゆらゆらと揺れ、空気は静かに沈んでいた。
利用者たちの寝息が、かすかに天井に昇っていく。
今晩の夜勤はダークエルフのセリーヌ。
定時の巡回で、施設内を歩いていた。黒衣の上に羽織った紺の外套が、灯りの下でわずかに揺れる。
その顔に浮かぶのは、どこか冷たい静寂。まるで闇と夜の空気をまとって生きているようにさえ見える。
「セリーヌさん、少しいいですか?」
深夜二時。巡回のついでに訪れた中庭で、達也が声をかけた。
セリーヌはわずかに眉を動かす。
彼女の視線の先には、一人の利用者がいた。庭の奥、温室の隣に置かれた寝台で、植物のような装飾に包まれた精霊種の老人が静かに横たわっていた。
その姿は、まるで朽ちかけた大木のようだった。皮膚は苔むし、髪の代わりに細い枝葉が揺れていた。魔女の家の中でも稀な存在である“植物融合型精霊種”。
彼の名は、ユルゲン。
「今日は……あまり調子がよくないみたいね」
セリーヌが低く言った。
ユルゲンはもともと言葉少なく、日中も眠っていることが多かったが、ここ数日、まるで森そのものが冬を迎えるように、動きも反応も鈍くなっていた。
達也は静かに頷く。
「……このまま、春が来ないかもしれませんね」
「……そうね」
一瞬の沈黙。けれど、その静寂の中で、セリーヌがふと口を開いた。
「この人、昼間の騒がしさが苦手だったの。だから、中庭のこの寝台を用意したのも、わたしの提案なのよ」
達也は驚いた顔を見せた。
セリーヌが自ら利用者に寄り添う行動をしたという話は、あまり聞かない。
「セリーヌさんって、案外……優しいですね」
「ふふ、そんなこと言ったら怒るわよ」
そう言って、セリーヌは小さく笑った。
その笑顔は、夜の空気の中でとても柔らかかった。
だが、その笑顔の裏に、ふと影が差す。
「――でも、こういう静けさって、嫌いじゃないの」
「……なぜですか?」
しばらく返事はなかった。
やがてセリーヌは、ゆっくりと空を見上げた。夜空には、幾つもの星がちりばめられていた。
「星って、さ……。ずっと見てると、昔のことを思い出すのよ」
「昔……ですか?」
達也がそっと問いかけると、セリーヌは答えなかった。
ただ、中庭から見える夜空を見上げたまま、長いまつ毛を伏せるだけだった。
ユルゲンの寝台のそばに、夜風が吹き込む。木々が揺れる音と、葉のこすれる音が、まるで誰かの遠い呼吸のように響いた。
「達也、見ていてくれる?」
セリーヌが静かに言った。
「この人が、今夜、どこに行こうとしているのか――私たち、きちんと見送らないと」
その言葉に、達也は何も返せなかった。ただ、彼女の隣に立ち、共に星を見上げた。
夜空は深く澄んでいて、まるで誰かの記憶を包み込むようだった。
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ユルゲンの寝台に、小さな魔法灯が灯っていた。温かく、けれどあくまで控えめな光は、彼の呼吸とともにわずかに揺れていた。
「……葉が落ちてきてる」
達也がそう呟いて見つめる先では、ユルゲンの体に生えていた小さな葉が、ひとつ、またひとつと、静かに地に落ちていた。それはまるで、命の終わりを静かに告げる鐘のようだった。
「……この人、前はもっと緑が濃かったのよ。枝ぶりも立派だったし」
セリーヌが言う。どこか懐かしむように、けれど、その瞳には憂いが混じっていた。
「話しかけるとね、小さく葉を揺らして応えてくれたの。とても控えめで、でも……やさしい人」
達也は思わず彼女の横顔を見つめる。
そこにあるのは、彼がこれまで見てきた毒舌で冷静なセリーヌではなかった。
「……ユルゲンさんと、仲が良かったんですね」
セリーヌは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「仲が良いとかじゃないわ。ただ……なんとなく、似てると思っただけ」
「似てる?」
「孤独の匂いがするの。ずっと、ひとりで風に揺れてる木みたい」
言葉の端に、どこか自分を重ねた響きが混ざっていた。
セリーヌは少し間を置いてから、そっと椅子を引き寄せてユルゲンのそばに座った。
彼女の手が、ユルゲンの枯れかけた指にそっと触れる。その仕草は、驚くほどやさしかった。
「誰にも必要とされないと思ってたのかもしれない。……だから、こんなふうに、静かに最期を迎えようとしてるのかな」
「でも、セリーヌさんは……ユルゲンさんのことを見てた」
「……見てるだけじゃ、届かないこともあるわ」
ぽつりとこぼれたその言葉に、達也は胸を突かれた。
それはまるで、彼自身の思いにも重なっていた。
「達也。わたしね、こういう人の傍にいるのが、どことなく気分が落ち着くの。」
「どうしてですか?」
「……前まで、自分がそうだったから」
その言葉に、達也は静かに目を見開いた。
セリーヌの声は、どこか遠くを見ているようだった。
「でも、今は……この仕事が好きよ。静かで、誰かのそばにいられる。ユルゲンのように、誰にも気づかれずに枯れていく人の声を、ちゃんと聞いてあげられるから」
風が、中庭をゆっくり通り抜けた。
木々の葉がふるえ、落ち葉がひとつ、ユルゲンの胸元に舞い降りる。
「もうすぐ……かもしれないわ」
セリーヌが小さくつぶやく。
「もしそうなったら、私は――ちゃんとこの人を見送ってあげたい。誰にも見捨てられていないって、教えてあげたい」
その言葉に、達也は胸が詰まるのを感じた。
そして、ふと彼は思った。
彼女は、きっと誰かを見送ったことがあるのだろう――。
その誰かを、今でも忘れられないのだ。
けれど、それをまだ聞くべきではないと、達也は直感的に感じていた。
「セリーヌさん」
「なに?」
「……ありがとう、って言っておきます。お話ができて。」
唐突な言葉に、セリーヌは首をかしげたが、すぐに微笑む。
「何を突然。……ま、受け取っておくわ」
魔女の家の静かな夜に、ひとすじの風が星空を渡った。
そしてその夜、達也の胸の中に、言葉にならない感情が灯った。
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セリーヌは宿直室の窓辺で、静かに夜空を見上げていた。
一面の闇に浮かぶ星々。魔女の家の周囲は街の灯りから遠く、夜の帳がいっそう深く降りる。だがそのぶん、星の瞬きははっきりと目に映る。
(また、同じ星が出てる)
セリーヌが心の中でそう呟いたとき、不意に胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
かすかな風に吹かれて、彼女の長い銀髪が揺れる。夜の静寂の中で、ただ星の光だけが、過去の記憶を照らしていた。
あれは、まだ戦火の煙が空を曇らせていた頃。
ダークエルフの彼女が住む集落も例外ではなかった。
隣国との緊張が高まった時代、若者たちは次々と戦場に駆り出され、名もなき小競り合いが、いつの間にか本物の戦争へと変わっていた。
その中に、彼――《アイゼル》もいた。
彼は、傷だらけの剣を背負いながらも、どこか無邪気な笑みを浮かべていた。
無骨で不器用だけれど、誰よりもまっすぐで、誰よりも人を守りたいと願っていた。
「セリーヌ、帰ってきたら、星を見に行こうな」
そう言って、彼は戦地へと向かった。
けれど、約束の夜空を、ふたりで仰ぐことは叶わなかった。
2ヶ月後、彼は重傷を負い、戦線を離脱した。
両足の感覚は戻らず、傷が化膿し、命さえ危うい状態だった。
セリーヌは、心配こそしていたものの、それでも嬉しかった。
帰ってきてくれたこと、まだそばにいてくれること。それだけでよかった。
彼の身体を拭き、食事を口に運び、夜はそばで語りかけた。
彼がかすかに笑うたび、セリーヌの胸にも、ほんの少しだけ光が灯った。
だが、その光は、ゆっくりと、けれど確実に消えていった。
彼の表情から笑みが消え、声も細くなり、やがて――眠るように、逝った。
「アイゼル!アイゼル……!」
何度、名前を呼ぼうとも虚空が待っているだけだった。
静かな夜。
まるで、星々が彼の魂を迎えに来たかのように、空が澄み渡っていた。
セリーヌは彼の冷たい手を握りしめながら、泣いた。声を殺して、誰にも聞かれぬように、ただ静かに泣いた。
(……私には、何もできなかった)
それが、ずっと心に残り続けていた。
自分の手は、誰かを救える手ではなかったのだと。
時は流れる。
戦争は終わり、セリーヌもまた、いつしか日常へと戻った。
けれど、何も変わらなかった。
気がつけば、夜にばかり目が冴えるようになった。
朝が来るのが怖くなった。
何もできなかった自分が、変わらずそこにいることに、耐えられなかった。
そんなある日だった。
一軒の古い建物の前で、ひとりの女性に声をかけられた。
「その手、まだ誰かのために使いたい?」
振り返ると、黒衣の女性が立っていた。
赤紫の瞳をした魔女――リリス・ナイトレイブン。
彼女の言葉は、不思議なほど胸に届いた。
誰も見つけてくれなかった"私"という存在を、最初から知っていたような眼差しで。
セリーヌは、うなずいた。迷いはなかった。
何もできなかった過去を、少しでも意味のあるものに変えられるなら。
その夜、セリーヌは「魔女の家」の門をくぐった。
それが、自分を少しだけ赦すための、ささやかな第一歩だった。
現在に戻る。
窓の外には、あの夜と同じ星があった。彼の声が聞こえる気がする。
(今なら、ほんの少しだけ、ましなことができてるかな……)
セリーヌは、そっと自分の手のひらを見つめた。
その手は、あの時よりも温かく、優しくなっていた。
そして彼女は、に目を閉じる。
まだこの手は、誰かを支えられる。
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夜が明け始めていた。東の空に微かな橙色が差し込み、夜がようやく幕を閉じようとしている。
魔女の家の廊下には、まだ誰の気配もなかった。
けれど、昨晩と同じように、静かな部屋の一つに、ふたりの人影があった。
ユルゲンが最期の時間を過ごした部屋。
特にバイタルに異常があったわけではなかったため、検知できていなかった。
そっと、いつの間にか季節が変わっているように、穏やかに息を引き取っていた。
セリーヌと達也は、そこに残された品々を静かに片づけていた。
部屋には木の香りがわずかに残っていた。
ユルゲンの体から発せられていた自然の気配――それは、彼が精霊種として生きてきた証でもあった。
「……この杖、まだ根元が生きてる」
セリーヌが手に取ったのは、ユルゲンに最後まであった一本の枝の杖だった。
杖の先には小さな芽が生えていた。
まるで、彼の魂がまだそこに宿っているかのように。
「きっと、森に還してほしいって、言っているんだろうな」
セリーヌがつぶやいた。
達也はその様子を見つめながら、床に落ちた乾いた葉をそっと拾い上げる。
床の掃除をしているだけなのに、どうしようもなく胸が詰まった。
「……こうして見ると、本当に静かな最期だったんですね」
思わず、ぽつりとこぼす。
セリーヌは応えず、棚の上の衣類を丁寧に畳んでいた。
だがその背中には、何かを噛みしめているような強さがあった。
「……達也」
「はい?」
セリーヌは少しの間、言葉を選んでいた。
そして、言葉がこぼれるように続けた。
「見送るって、さ……なんで、こんなに虚しくて、こんなに温かいんだろうね」
その言葉に、達也は返す言葉が見つからなかった。
ただ、一緒にいることで少しでもその重さを分かち合いたいと思い、手を止めた。
「……最初、介護の仕事を始めた時はね、正直、怖かった」
セリーヌは言葉を続ける。声は少し掠れていたが、しっかりとした響きがあった。
「私、昔、戦争で……恋人を亡くしたんだ」
その言葉に、達也は言葉を呑み込む。
「戦争……」
「うん。あの頃、私たちは若かったし、未来があると思ってた。でも、彼は戦線で負傷して、戻ってきたときには、もう歩けなかった。看病をしている間、私はただ、彼が元気を取り戻すことだけを願っていた。でも、……彼は、もう、元気にはならなかった」
セリーヌは少しだけ息を吸い込むと、そのまま続けた。
「彼が亡くなったとき、私はただ無力で、涙も出なかった。彼を守れなかったことが、あまりにも悔しかった。でも、そのときに、気づいたんだ。人を支える仕事に興味を持って、今でも続けていること――それが、私にとっての救いだって」
セリーヌは静かに語り終わった。
その言葉に、達也はただじっと聞き入るしかなかった。
セリーヌが抱えているもの、セリーヌが過去に失ったもの――その重さを少しだけでも感じ取った気がした。
「それから、しばらくは何もできなくて……でも、リリスさんに出会ってから、ここで働くことができるようになった。みんなを支える仕事をしていると、少しでも彼のことを忘れられる気がして……でもね、今でも彼のことを忘れたことなんてない。だから、ここにいる私も、彼に届くような存在になりたかったんだ」
セリーヌが語るその言葉には、遠くに思い出した恋人の姿が浮かんでいた。
その言葉が達也の胸を刺す。
彼の目には、彼女の悲しみと誠実さが強く映った。
「セリーヌさん……」
「でもね、達也、私はもう少しだけ、強くなるつもり。
もう一度、誰かを支えることができるようになりたい。それが、彼に対する償いだと思ってる」
達也は、セリーヌの言葉をじっと聞きながら、何も言えなかった。
言葉を交わすことが、今はただ空しく感じてしまうから。
セリーヌが再び顔を向ける。
その目には、強く、しかし優しく決意の色が浮かんでいた。
そして、ほんの少しだけ、涙が光のように浮かび上がった。
「……ありがとう、達也。あなたと話していると、少しだけ、楽になる」
その言葉に、達也は言葉を返すことなく、ただセリーヌのそばに立ち、彼女の瞳を見つめ返した。
セリーヌは、いつか星のように輝くことを誓い、今はその日々を大切に生きようとしていた。
窓の外には、すでに青く染まりつつある空が広がっていた。
夜の終わり、そして新しい朝の始まり。
「きっと、あの人も、今ごろ――星の向こうで、静かに見てるわよ」
「……はい」
ふたりは、しばらくの間、何も言わずに朝空を見上げていた。
部屋はもう、ほとんど片づけが終わっていた。
けれど、その中には確かに、“何か”が遺されていた。
それは、誰かの人生が終わるたびに、この家に静かに積み重なっていくもの。
誰かの記憶と、誰かの優しさと――そして、送り出す者の祈り。